ゆとろぎへの道 仲村峯夫 一隅を照らす素晴らしきかな人生 照らさずとも好し また素晴らしきかなこの人生(とき)

日々、つれづれなるままに、心のおもむくままに、趣味的ハルサーの想いを…
自分探しの旅は 違う景色の見える道

生き方の「便利な物差し」

2020-11-23 10:35:33 | 日記
  当たり前が当たり前でなくなる日  全世界でコロナの感染拡大が続いている。 これまでの生産性と効率化のみを大前提に構築されてきた。 全ての社会システムや価値観が根底から見直しを迫られている時代になったのだろうか。 日常生活でも「三密」や「ソーシャルディスタンス」という言葉がすっかり定着した。 社会システムの中でのあらゆる過密や一極集中が地球環境レベルはおろか、我々の日常の社会生活の中でも「当たり前」でなくなった気がする。 普通に孫たちにに会いに行くにも思案が必要な時代になってしまった。  一方もう一つの当たり前感は、私を含め世の多くの人たちは、自分が普通に健康で平凡な日常生活を送れることは至極当然で当たり前のことと考えている。 これが所謂普通の人間の普通の「当たり前感」なのだろうとも思う。 こんな自分の感覚に対しても、ほぼ違和感を感じないのもごく普通で当たり前なのかもしれない。 我々は半分無意識の中で我々の住むこの地球環境は、永遠不変でこの世の日常も永遠に続くものと思っている節もあるのかも知れない。 多くの人たちは、突然の不測の事故や想定外の大病などを経験して始めて永遠不変的な自分に都合のいい「当たり前は存在しないのが、当たり前」との認識に至るのかもしれない。 失って初めて、あるいは失いかけて初めて「現状のありがたさを知る」ともいわれる。 生きていくために、健康を維持するためにもろもろの条件が付くようになってから、健康のありがたさや日常の当たり前のありがたさが分かるようになるのが人間なのかもしれない。 すこぶる健康な人も、そうでない人も、さらにはいろんなことが原因で生きづらさを感じつつ生きている人もいると思う。 「人生の大事は生きること、人生の小事も生きること」という。 生きるための心の負荷を少しでも軽減することができればいいと思うのだが。 「好きならやればいい、愉しければやればいい、嫌なことや好きでもないことや楽しくないことはしない方がいい。 しかし、どうしても避けては通れないものは、何も考えずにやると決めればいい」。 ただそれだけのことなのだろうが。 これが生き方の、「便利な物差し」の一つになるかもしれない。
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酔芙蓉の花を求めて

2020-11-16 09:39:59 | 日記
    酔芙蓉の花を求めて  コロナ禍のなか、ほとんどの外出を控え孫たちとの接触も極力我慢している。

出かけるのは一週間分ほどの食料品の買い出しで7~8キロ先のスーパーマ-ケトに行くぐらいである。

しかし、昨日は久し振りに女房と二人で車で遠出した。

このところずーと気になっていた酔芙蓉の花を求めて出かけたのである。

その日の朝、思い付きで決めたので弁当の準備もなしで、持参したのは愛用の剪定鋏と薄めのコーヒーを入れた小さなコーヒーポット二本だけである。 行きつけのガソリンスタンドでガソリンを満タンにし、途中のスーパーでおやつになるイカなどの天ぷらと2~3の茶菓子を買って車で東海岸を北に向かった。 国道を抜け泡瀬、勝連と進み宮城島の海中道路入り口まで行ってもこの時期に咲いている花はほとんどない。 せいぜい所どころにブーゲンやユウナの花を見かけるだけである。 やはりここ南国沖縄でもこの時期は花も端境期のようである。 コロナの影響か国道も日曜日にもかかわらず空いていたが、海中道路近くになると急に車の量が増えだした。 海中道路沿いにはいたるところに車や人影が多く暖かい沖縄の秋の陽気を楽しんでいるようだった。 海中道路を渡り切り最初に浜比嘉への橋を渡った。 島には観光客や沖縄地元の人たちが、グループや個々に海沿いのウオーキングを楽しんでいる姿が多くみられた。 島の南側のビーチでは子供たちが泳いでいたり、大勢の若者たちがカヌーやらのマリンスポーツに興じている様子はコロナ禍の世間とは全くビーチでしばらく休憩し、車を伊計島まで走らせるも目指す花芙蓉の花は見られない。 途中白の島芙蓉の花は二か所くらいで見かけたが、芙蓉の時期はやはい終わりのようであった。 伊計島のビーチでも多くのお客さんでにぎわっていて、道路もレンタカーを含め通常よりも交通量はかなり多かった。 三密を避けたい人々の思いはやはり同じなのだろうと思う。 石川から西海岸に抜け名護の七曲りあたりの脇道の原野の傾斜で白とピンク色の芙蓉の花を見つけた。 これが島芙蓉か酔芙蓉の花なのか定かではなかったが、とりあえず2~3本の枝をもらった。 正真正銘の酔芙蓉かどうかは定かではないが、とりあえずの目的は達成である。 名護の城址公園での遅い昼食後高速道路で帰路に就いた。 来夏の酔芙蓉の開花時期が楽しみである。 ちなみにこの日のわが家のgo to トラベルならぬ日帰りの旅は走行距離218キロ、ガソリン代が1,370円の慎ましい旅であった。
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往生際の悪さは米国の美学

2020-11-11 19:30:11 | 日記
    往生際の悪さは米国の美学  米国の大統領選挙で明らかに敗北を喫したと思われた、トランプ大統領が自らの敗北を認めず、天性の駄々っ子ぶりを発揮しアメリカ社会に新たなる分断と混乱を招いている。 幼児の駄々っ子ぶりは多少の可愛げもあるが、これが世界のリーダー米国大統領の態度となると他人事ながら言葉も出ないほどの衝撃しか感じられない。 世界の自由主義社会、民主主義社会のリーダーの米国大統領が何の根拠も証拠も示さず、自国の選挙制度や行政運営や社会制度をはなから否定し、自らの主張のみを押し通そうとする傍若無人ぶりにはあきれてものが言えない。 当然日本国内でもトランプの往生際の悪さに多くの批判の声も聞こえる。  そんな批判に対して、4年前の大統領選挙で泡まつ候補と言われた、トランプ大統領の誕生を予測したジャーナリストの木村太郎氏は、最後まであきらめないのがアメリカ人の心であり、「往生際の悪さは米国の美徳」だとトランプ大統領を容認する発言をしている。 最も本人は冗談半分、本音半分でトランプの落選を「昼から酒を飲まざるを得ない状況」と自らの心情を吐露もしている。  宗教観や国民性やその価値観を否定するつもりはないし、もともと仏教由来の「往生際が悪い」の批判については、一神教文化の米国では「さもありなん」の感もある。 報道などによると米国でも一部の共和党員を含め多くの米国民は今回のトランプ大統領の引き際に対して好感を示してはいないようである。 「往生際」とか「往生際が悪い」などの仏教的な感性が米国でどの程度浸透・定着しているかは分らない。 しかし、米国でも「往生際が悪い」とか、「負け(引き際)を知らぬは、下手な敗北者」という言葉もあるようである。 ボロボロになって倒れても、いかに格好悪くとも、命を失ってもやり続けるか、別の選択肢を探すかどちらの生き方もありだと思う。 違いがあるとすれば、だれのためにそこまでやり抜く覚悟を持つかである。 自らの選択に私心なかりしか、公の心がありやなかりしかなのだろう。 人間はこの世に自分一人だけで生きているのではない。  我々は曲がりなりにも法事国家に生きているはずである。 「人生は諦めが肝心、物事はあきらめたら終わり」ということわざもあるが、 万物は流転し、移り替わり行く、人もものごともいつかは必ず終わりを迎える。 人生は常に次世代への人生のバトンリレーでもある。 誰もがこの世を去る時や社会の役割を終えるときが必ず来る。 そんな人生で「引き際」、自らの最後の身の処し方はその人の人生の美学の表れなのだろうと思う。
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なんとも可憐な酔芙蓉の花

2020-11-01 10:58:39 | 日記
     なんとも可憐な酔芙蓉の花
 10月22日の琉球新報になんとも上品で艶やかな酔芙蓉の写真が掲載されていた。
私はハイビスカスの花が大好きで我が家の庭や畑の周囲にも幾多の種類のハイビスカスを育てている。
私の感覚ではハイビスカスもムクゲも芙蓉も同じアオイ科の花でおおもと一緒のイメージである。
あんなに綺麗で繊細な優しさを誇りながらも、その花の命はほぼ一日で終わってしまう。
今はやりの効率最優先の社会の価値観からすれば、花社会の劣等生かもしれない。
しかし、そこがハイビスカスや芙蓉の花の凄いところである。
たった一日のためにさりげなく生命のすべてをつぎ込み可憐でそれこそ完璧な美しい花を咲かせてくれる。
そこには、いささかの憂いもなければ何の迷いもない、ただひたすら自らの生命の営みをさりげなく繰り返すのみ。
真民の詠みあげた「咲くも無心 散るも無心 花は嘆かず 今を生きる」の心が酔芙蓉の心なのだろうか。
未練だらけの人間社会からすれば、その潔さは到底まねのできない咲き方(生き方)なのかもしれない。 
その花言葉は「心がわり」と「繊細な美」だそうだ。
その花言葉は花自身の心には関係なく、文字通り人間社会に生きる、我々人間の心を端的に現した言葉のような気もする。
 酔芙蓉の特徴は朝、白い花がさき、昼頃はピンクに染まり、さらに夕方は紅色に変化するという。
芙蓉は中国、台湾、日本では四国、九州でも自制し沖縄でも原野や田畑の畔などにも多く見られる。
しかし、残念ながら私はこの酔芙蓉の花を見た記憶がない。
自宅で咲いているのもピンクの一重の芙蓉である。
機会があればこの酔芙蓉の花をわが家でも咲かせてみたいと思っている。
 ちなみに、今年は自宅の芙蓉は先月の16日が初咲きであった。
例年より少し遅いような気もするが、今年も忘れずに今を生ききる花の心はそのままのようである。
(画像の花は芙蓉の花です)
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