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生きる力・勇気・志――「ブッダの言葉」を中心に

大阪の禅寺 天正寺住職 佐々木奘堂(じょうどう)のブログです。人間が本来もっている自由で活発な身心を探求していきます。

「あなたまかせ」「みこころのままに」で思うこと(2)

2011年04月07日 | 思ったことなど
 イエスの祈り「みこころのままに(あなたの欲することが成りますように)」を、
西田幾多郎が「宗教の極意」と述べ、
私自身も人生の極意と思っていることを述べました。

 小林一茶の句「ともかくも あなたまかせの 年の暮れ」
も取り上げましたが、本当にただただ
「私の望むことでなく、あなたの望むことが」と祈るとき、
その時点で無限のものに開かれていますし、
そのような無限に開かれたことの安心みたいなものが
あるように思います。

 一茶でも、妻を亡くしたり、可愛い我が子を続けて亡くしたり、
天や人への恨みつらみも、当然あったわけです。
イエスも、逆恨みや、理不尽な迫害の中殺されるわけですし、
その祈りの真っ最中に、弟子も居眠りしていますし(起きろと言っても!)、
神や人へ向って、言いたいことは山ほどあったでしょう。

 「あなた」は、イエスでしたら、もちろん「神」ですし、
一茶でしたら、「阿弥陀仏」ですが、人間の思いをはるか絶するものへの
祈り――ここに、天災や人災の真っただ中でも、平凡な日常の中でも、
本当に大事なものがあるように思います。

 もちろん、誰しも、「私」は、
「人のため」とか、「自分のため」「何々のため」などと、
さまざまなことを思い、判断したり、行動したりしているわけですが、
それはそれとして、「あなたの欲することが」と無限のものへ
開かれていること――ここに人生で一番大切な秘密が
あるように思います。

 これを逆に言えば、人間は、自分の小さい頭だけで、限られたものだけを見て
判断や行動しがちなために、いろいろな問題への取り組みが
本末転倒したものになりがちなのだと思います。
 これを具体的に、最近、大問題になっている大相撲の問題で
次に考えてみます。

●この次の文章 大相撲の八百長問題の元は?
●この前の文章
 みこころのままに――人生の極意

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「生きること」の基本――「息をすること」「血が流れていること」

2011年04月06日 | 思ったことなど
 今回の大震災で、生きてるとはどういうことか考えさせられます。
 「生きているとはどういうことか?」と尋ねられたら、
どのように答えますか?

 「生物」というと、私たち人間だけでなく、他の動物もそうですし、
植物も生きていますね。
 これら生きているものに共通することは、呼吸(息)をしていることと、
血が通っているということかと思います。

 植物も、酸素・二酸化酸素の出すのと吸収するのは、人間と同じでは
ないですが、呼吸をしている事実は同じですね。
植物の場合、「血」ではないですが、体の中で、エネルギーの流れが
大事なことは一緒ですね。根っこは根っこで、土から水分や栄養分を吸収し、
それは幹に流れていくでしょうし、葉っぱは葉っぱで、空気の呼吸もするし、
太陽の光を浴びて光合成もするし、そこから得たエネルギーを、その植物全体に
行き渡らせるのでしょう。

 根っこと葉っぱ、あるいは幹、花などで、その役割は違いますが、
それぞれの部分が、それぞれの仕事を精一杯こなし、
呼吸や血(に類するもの)の流れが滞りなくいっていることが、
生きている姿だと思います。
 このことは私たち人間も同じだと思います。

 根っこでも、土から出されて、本来の働きができない状況に
長くあると、死んでいきます。
 人間も、例えば、凍傷や、自己などで、長時間血の流れが滞ると、
その指先や手先が死んでしまいますね・・・
 数分間の短い時間、呼吸できないだけで死んでしまうわけです。

 呼吸や血流がいかに大切か、これは価値を測れる次元でなく、
生きていることそのものと言ってよいと思います。

 このような生きていることの基本を、ないがしろにしたままになりやすいか・・・
ここに人間の問題があると思います。
 ブッダの言葉からも、人間がいかに基本から離れ去って、
枝葉末節に走りがちかということを痛感させられます。

●関連する文章
 「エコノミークラス症候群」(下半身の血の流れが滞り・・・)に関して
いくつか書きましたので、ご参照ください。
「エコノミークラス症候群の一番身近な理由は?」
コメント (4)
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みこころのままに――人生の極意

2011年03月27日 | 思ったことなど
 西田幾多郎が、イエスのゲッセマネでの祈りや、親鸞上人の言葉を、
「宗教の極意」と述べていることを紹介しました。
 
 この「みこころのままに」「あなたまかせ」
「(浄土に行くか地獄に行くかなど)全く知らない」などの言葉に、
天災や人災で、いかに悲惨な現実を生きていようとも、
本当に力強く生き、死んでいける極意があるように思います。

 ここで、コメントでいただいた質問、
「ほんとの祈りって、自分のためではなく、
どこまでも『あなたの望みのため』なんでしょうか」
に一言、お答えします。

 この「あなたの望み」の「あなた」を、特定の個人や団体と
受け取ると、微妙な問題があるように思います。
 「あなたのためを必死に思ってる・・・」
 「誰それの幸せだけを本当に思っている・・・」
と、本当に自分で思っていたにもかかわらず、
後になって、結局は、「私の望むことを押しつけていただけかも」と
気づくような体験は、多くの人がしているのではないでしょうか?

 恋愛中、あるいは片思いでいるときなど、
「本当にあなたのことを思っている」と自分で深く信じていますが、
「自分の所有欲や、自分の思うままにしたい欲望に
色づけられていたなー」と、後になって気づくことはよくありますね。
 また例えば、親が、本当に「子どものため」を思って必死に、
育てることは、本当に尊いことですが、
「あなたのためを思って言ってるんでしょ!」「うるせーなー」みたいな
葛藤も、多くの人が経験することだと思います。

 こういうことを、私は悪いことだとは全然思っていません。
人間の逃れられない宿命のようなもので、
「自分のためか」「人のためか」「金のためか」「夢のためか」
混じり合って、よくわからないまま生きているのが、
私たちの実情だと思います。

 イエスは、ご自身が、「この杯を取りのけてください」と
神に祈っていることからもわかるように、
「自分の望みを押し殺せ」とは決して言っていません。
ありがたいことです。
 自分の望みがあるのは、それはそれとして、
「だけど、みこころのままに」と祈っているのです。
 ここで、イエスも自分にとって不可知な「みこころのままに」
と祈っているので、本当の祈りなのだと思います。
(もしイエスが、「神の望みはコレコレだ」と知っていると思い込んで
祈っていたら、イエスも、「頭でっかちな人」になってしまいます。)

 ちなみに、私が、「身体」のことで探求してきて、その極意も、
実は、「私が欲することでなく、あながた」という祈りのようなものである
ことを発見しました。
 続く・・・
●この前の文章
西田幾多郎『善の研究』の最後の段落



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西田幾多郎『善の研究』の最期の段落

2011年03月26日 | 思ったことなど
 西田幾多郎の『善の研究』が出版されたのは、
今からちょうど100年前、1911年(明治44年)です。

 その最期の段落を読んで、私は、ものすごい感激しました。
このブログでも取り上げた親鸞上人、イエスの言葉が、
「宗教の極意である」と西田は書いているのです。

 私は、自分でも、全然わからないままに、親鸞上人やイエスの
言葉に、ただただ感激し、涙を流し、
「なぜ、私の心は、これほどにも動かされるのだろう?」と疑問に思って
いたのですが、その言葉を、西田が、「宗教の極意」とはっきり
述べていることで、「本当にその通りである」と確信しました。

 西田は、鈴木大拙と親友で、西田自身、「禅」の修行を
本当に真剣に長年にわたりしています。大拙や西田が
禅修行に打ち込んだことも、私が禅を修行する動機になっています。

 禅に打ち込んだ西田が、『善の研究』の最終段落でいかに書いているか、
ご紹介いたします。

 我々が物を知り物を愛すというのは自力をすてて他力の信心に入る謂である。
人間一生の仕事が知と愛との外にないものとすれば、
我々は日々に他力信心の上に働いているのである。
学問も道徳も皆仏陀の光明であり、宗教という者はこの作用の極地である。
学問や道徳は個々の差別的現象の上にこの他力の光明に浴するのであるが、
宗教は宇宙全体の上において絶対無限の仏陀その者に接するのである。
「父よ、もしみこころにかなはばこの杯を我より離したまへ、
されど我が意のままをなすにあらず、唯みこころのままになしたまへ」とか、
「念仏はまことに浄土に生まるる種にてやはんべるらん、
また地獄に落つべき業にてやはんべるらん、総じてもて存知せざるなり」
とかいう語が宗教の極意である。

 私は、はじめ、「ブッダその者に接する」と書いて、続いて、
「父よ・・・」で始まるイエスの祈りが記されていることに驚きました。
 ですが、キリスト教と仏教、自力宗と他力宗などということを、
表面的に見れば、違和感があるかもしれませんが、
親鸞上人やイエスの生き様、死に様、いかなる祈りに生き、死んでいったかを
見れば、表面的な違いは問題でなく、これが「宗教の極意」である
ことが確信されるのではないかと思います。

 続く・・・

●この前の文章 天災や人災の真っただ中で――イエスの言葉

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天災や人災の真っただ中でいかに生きるか――イエスの言葉

2011年03月25日 | 思ったことなど
 天災や人災など、諸々の災いが、いつ我が身に降りかかるか、
わからない――このような中で私たちは生きていると思います。

 そのような中でいかに生きていけるのか?

 自分の思い描いていた夢や希望が、天災や人災によって、
無残にも破壊されてしまった場合、それでも私たちは、
希望をもって生きていくことができるのでしょうか?

 これに関連して、小林一茶が、自分の妻や子どもが次々と死んでいく
という悲惨極まりない状況で、次の句をつくったことを紹介しました。
  ともかくも あなたまかせの 年の暮れ

 今回から何回かにわたって、私が人類史上、最も感動的な、言葉、祈りと思っている
ことを取り上げてみます。

 それは、イエスの言葉、祈りです。

 イエスは、すさまじい迫害――人災――に遭い、結局、
死刑になるのですが、捕えられる前日、ゲッセマネの園という場所で、
苦しみの中、必死に、次のように祈ります。
 「できたら、この杯を私からとりのけて下さい。
ですが、私が望むことでなく、あなたが望むことが起こりますように」

 イエスも、もちろん人の子で、
「できたら、辛い杯を飲まずにすませられるなら、そうお願いします」と
祈ります。「できることなら、この辛い状況が過ぎ去りますように」という
この祈りは、誰でも、共鳴できますね。

 その後の、イエスの言葉(祈り)、
 「私が望む(欲する)ことでなく、あなたが」
 私は、この言葉、この祈りに、この世で最も、
尊い何かがあるように思います。
 続く・・・

●この前の文章
 本当に死ぬことを知ったら・・・

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