生きる力・勇気・志――「ブッダの言葉」を中心に

大阪の禅寺 天正寺住職 佐々木奘堂(じょうどう)のブログです。人間が本来もっている自由で活発な身心を探求していきます。

何も持たずに立つこと――宗教

2011年04月13日 | 思ったことなど
 前回の「無力の中で立ち上がること」という文で、
自分の根本的な無力を悟らされる体験が宗教の元にあると
思うと書きました。
 無力でありながらも、実は、余計なものへの執らわれと関係ない中で、
生きる力や勇気・志をもって生きていけるように思います。

 禅で、「本来無一物」と言いますが、本来何も持っていないということ、
実際に人間は誰しも、裸で生まれ、すべてを抜き捨て死んでいくわけですし、
生きていることの根本だと思います。

 私は、19世紀末頃のキリスト教の聖人で、リジュー(フランス)の
テレーズという女性を尊敬しているのですが、彼女も、
「人生の終わりに、あなた(神)の前に空の手で立つことでしょう」と
言っています。実際、そのような生涯を送っています。

 「坐禅」というのも、要するに、大地の上に、何も持たずに、
体を立てることです。ただそれだけだ思います。
 もちろん人間の悲しさで、何も持たずに立つことでは物足りないような気がして、
身体的・精神的な意味づけをしたり、「この方法が良い」と思ったり、
「俺は修行が進んでる」などと思いたがったりしがちですが・・・

 先程、NHKのクローズアップ現代を見て、
「血の固まりができる(血流が悪くなる)」と、
心筋梗塞、脳卒中、肺血栓塞栓症など、多くの危険が増えることを知り、
怖ろしいと思いました。

 何も持たずに生きる、そして血の流れ、呼吸の流れも、そのままに滞ること
なく生きていく――このことだけで、ものすごいことではないかと
思いました。

 呼吸や血流を滞らせず、ただ立つ(すわる)あり方は、私が最も
探求してきたところですので、これを人と共に行じていくことは、
ライフワーク(の一つ)としようと思いました。

●この前の文章 無力の中で立ち上がること


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無力の中で立ち上がること――宗教

2011年04月12日 | 思ったことなど
 私は、ふだんから無力を痛感することが多いですが、
特に今回のような大震災のときは、なおさらです。

 新聞の記事で、今回の大震災で被災し、奮闘している
お医者さんが、「無力を感じますか?」と質問されたのに対して、
そのお医者さんは、すぐに
「無力感はありません。人間が、大自然の前に、
無力なのは当然です」と答えていまして、
印象的でした。

 イエスは、最後、愛弟子たちも、自分を見捨て、
冤罪で死刑にされ、自分の期待が裏切られ、
自分の飲みたくない杯をつきつけられ、
「この杯を、できるなら、取りのけてください」と祈ります。
嘲笑されたり、唾を吐かれたり、ぶたれたりし、
無力、屈辱をとことん味わったと思います。

 ですが、自分が期待することからしたら、挫折であっても、
無力であっても、同時に、実に力を振りしぼって、
十字架(自分が張り付けられることになる)を背負い、
力強く(かどうかはわかりませんが)歩んでいきました。

 イエスを死に追いやった人たちは、聖書学者や、聖書の
言葉をしっかり守ろうとしている人たちでした。
彼らは、聖書を学んだり、実行することで、
「自分は(神の言葉を学び、実行し)力がある」と思っていた
ように思われます。
 このような傾向は、仏教徒、特に禅を修行する人には
普通に見られる問題です。

 「自分が有力である」と思いたい傾向、人間のこの根深い傾向が、
何らかの力や事情によって、根本的な無力を悟らされる体験、
これは、宗教の一番の元にあるように思えます。

●この前の文章 宗教は智慧才覚と無関係であること
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宗教の根本は智慧才覚と無関係であること

2011年04月11日 | 思ったことなど
 宗教の根本は、智慧・学識・知識や才覚、才能とは、
全く無関係だということは、本当に大事なことだと私は思っています。

 イエスが、学から遠い人や、罪多い人と、いかに接したか?
「宗教上の学問をつんだ人(聖書学者、律法学者)」や宗教的な
修養を積んだ人(当時のユダヤ教の一番大きな学派はパリサイ派でした)と、
いかにイエスが接したか?
 これをちょっと見るだけでも、学のあるなし、罪の多い少ない、才能のあるなし
などと、全く別次元の世界が、私たちの一番身近なところにあることを
私は信じることができます。

 仏教者でしたら、例えば、法然上人を見るだけでも、
イエスと同様の態度をもって、学のある人やない人、罪多き人と、接した
ことがわかります。

 これは「禅」も全く同様です。
 例えば、厳しいと一般に思われている道元禅師も、
繰り返し繰り返し、仏道は、才能や智慧のあるなしと無関係であることを
語っています。
 『正法眼蔵随聞記』から
「有智高才を用いず、霊利聡明によらぬは、まことの学道なり」
 このようなことを繰り返し語っています。

 ただ、私ら人間の悲しい習性で、「難しい過程」や「段階」を
作って、「自分は人より進んだ段階にいる」と思いたい傾向が
根強く巣食っているために、イエスや法然上人などの言葉が
全く耳に入らず、自分で勝手に難しくしてしまうのだと思います。
 私が禅の世界、仏教の世界に、長く身をおいていて、
痛感するのは、その傾向です。(自分自身も同様です。)

 ここは本当に本当に大事なところだと思います。
 続く・・・

●関連する文章 誰にでも可能なことと、そうでないこと
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八百長問題の元は?(2)

2011年04月09日 | 思ったことなど
 昨日の文章で、大相撲の八百長問題の背後にあることとして、
「生活がかかっている」という点と、
「お互い様(助け合い協力し合って、この地位を保っていこう)」
という点があるのではと述べました。

 「生活(金)」も「お互い様」の気持ちも、共に、それ自体
悪いことは全然なく、大事なことです。

 ですが、本当に、もっと大切なこと(大相撲なら真剣に相撲に臨むこと)よりも、
目先のこと、身内のこと(この場合なら相撲仲間)を、優先してしまう・・・
ここに八百長が生まれる元があるように思います。

 実際、かなりの誠実さ、真剣さ、気迫がないと、このような
閉じた集団での、なれあい、癒着から、逃れるのは難しいのではと思います。
 例えば、新米の十両力士が、千秋楽で、負け越したら十両陥落
となる先輩力士との取り組みに臨むとき、
なれあい、身内意識からの圧力みたいのが、かなりあるように
思われます。それをはねのけて、真剣な道を目指そうとすることを
貫く力士がいたら、かなりの逆風に負けない気迫が必要に思います。

 以上、書いたことは、私の勝手な想像で述べたまでです。
私が、これまで生きてきて、このような例をイヤというほど見ていますので、
おそらく大相撲の世界も同様ではないかと推測しただけです。

 なれあい、身内意識、仲間集団の保身や経済的安定などの理由のため、
本当に大事なことが、ないがしろにされる、全く目に入らなくなる、
この怖ろしさを、私自身、宗教の世界に身をおいていて、強く思います。

続く・・・●この前の文章 大相撲の八百長問題の元は?
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大相撲の八百長問題の元は?

2011年04月08日 | 思ったことなど
 大相撲界にも激震がはしっているのは周知の通りです。
 私は相撲ファンですので、本当に残念です。

 このブログのテーマとの関連で、大相撲の問題を
考えてみます。
 そのテーマとは、「ブッダの言葉」に耳を傾ける際にも同様に問題と
なることですが、要するに、自分(たち)のちっぽけな頭で、
限られたところだけを見て、判断、行動するために、
本末転倒してしまうのではないか? という問題です。

 今回の八百長問題で、その多くは、三役や幕内の上位の
力量ある力士ではなく、だいたい十両あたりで上下している力士でした。
 大相撲の世界では、「十両」に上がるかどうかは、大問題です。
十両に上がると、髷も結えますし、給料も年収1千万を軽く超えますし、
十両以下の力士だと、ささいな手当てが出るだけですので、大違いなわけです。

 要するに、十両でいるかどうかで、名誉のみならず、「収入(生活)」が
かかっているわけです。
 収入(金)が大事であることは言うまでもないですね。
 力士の現役でいられるのは30数歳までがほとんどですし、
その後、親方を目指すとしても多額の金がいるみたいですし、
相撲界に残らず、例えば「ちゃんこ屋」などを開く場合でも、
当然資金が要りますね。結婚費用、生活費用、養育費など、
考えたら、「十両」にできる限り長く留まって、高収入である期間を
長くしたいと思うのは当然ですね。

 この「生活がかかっている」というのが、八百長が起きた一つの要因で
あるのは確かでしょう。
 十両の下のほうにいて、千秋楽を7勝7敗で迎えた場合、千秋楽に
勝てば十両に残れるが、負けたら陥落してしまう・・・
 この場合、対戦相手や、あるいは力士同士に、例えば、次のような
思いがよぎるのではと想像されます。

「十両から落ちたら、どんなに惨めか知ってるだろう、お前!」
「一緒に、相撲を取っている仲間だろう。」
「お互い様ということを思ったらどうか」
「自分が、このようなピンチに陥った場合、人を助けておくと、
自分も助けられるぞ」

 自分が負けてやって、その代わり、翌場所以降で、その借りを
返してもらうこともあるでしょう。
 さらに、必ず「調整役」が出てきて、仲間内で、貸し借りを勘定して
調整する役がいると、もっと便利になりますね。

 私は、八百長問題の背後にあることとして、ここに挙げた
「生活がかかっている」という点と、
「お互い様(助け合い協力し合って、この地位を保っていこう)」
ということがあるように思います。

この続き

●この前の文章 「みこころのままに」(2)

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