前回の「無力の中で立ち上がること」という文で、
自分の根本的な無力を悟らされる体験が宗教の元にあると
思うと書きました。
無力でありながらも、実は、余計なものへの執らわれと関係ない中で、
生きる力や勇気・志をもって生きていけるように思います。
禅で、「本来無一物」と言いますが、本来何も持っていないということ、
実際に人間は誰しも、裸で生まれ、すべてを抜き捨て死んでいくわけですし、
生きていることの根本だと思います。
私は、19世紀末頃のキリスト教の聖人で、リジュー(フランス)の
テレーズという女性を尊敬しているのですが、彼女も、
「人生の終わりに、あなた(神)の前に空の手で立つことでしょう」と
言っています。実際、そのような生涯を送っています。
「坐禅」というのも、要するに、大地の上に、何も持たずに、
体を立てることです。ただそれだけだ思います。
もちろん人間の悲しさで、何も持たずに立つことでは物足りないような気がして、
身体的・精神的な意味づけをしたり、「この方法が良い」と思ったり、
「俺は修行が進んでる」などと思いたがったりしがちですが・・・
先程、NHKのクローズアップ現代を見て、
「血の固まりができる(血流が悪くなる)」と、
心筋梗塞、脳卒中、肺血栓塞栓症など、多くの危険が増えることを知り、
怖ろしいと思いました。
何も持たずに生きる、そして血の流れ、呼吸の流れも、そのままに滞ること
なく生きていく――このことだけで、ものすごいことではないかと
思いました。
呼吸や血流を滞らせず、ただ立つ(すわる)あり方は、私が最も
探求してきたところですので、これを人と共に行じていくことは、
ライフワーク(の一つ)としようと思いました。
●この前の文章 無力の中で立ち上がること
自分の根本的な無力を悟らされる体験が宗教の元にあると
思うと書きました。
無力でありながらも、実は、余計なものへの執らわれと関係ない中で、
生きる力や勇気・志をもって生きていけるように思います。
禅で、「本来無一物」と言いますが、本来何も持っていないということ、
実際に人間は誰しも、裸で生まれ、すべてを抜き捨て死んでいくわけですし、
生きていることの根本だと思います。
私は、19世紀末頃のキリスト教の聖人で、リジュー(フランス)の
テレーズという女性を尊敬しているのですが、彼女も、
「人生の終わりに、あなた(神)の前に空の手で立つことでしょう」と
言っています。実際、そのような生涯を送っています。
「坐禅」というのも、要するに、大地の上に、何も持たずに、
体を立てることです。ただそれだけだ思います。
もちろん人間の悲しさで、何も持たずに立つことでは物足りないような気がして、
身体的・精神的な意味づけをしたり、「この方法が良い」と思ったり、
「俺は修行が進んでる」などと思いたがったりしがちですが・・・
先程、NHKのクローズアップ現代を見て、
「血の固まりができる(血流が悪くなる)」と、
心筋梗塞、脳卒中、肺血栓塞栓症など、多くの危険が増えることを知り、
怖ろしいと思いました。
何も持たずに生きる、そして血の流れ、呼吸の流れも、そのままに滞ること
なく生きていく――このことだけで、ものすごいことではないかと
思いました。
呼吸や血流を滞らせず、ただ立つ(すわる)あり方は、私が最も
探求してきたところですので、これを人と共に行じていくことは、
ライフワーク(の一つ)としようと思いました。
●この前の文章 無力の中で立ち上がること