河村龍一の「月の癒し」~銀河鉄道の夜

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「3・11」から3年経ちましたが……

2014-03-10 22:59:08 | 日記
現実の世界に疲れ果てた心を癒すため、銀河鉄道「ひかり号」車掌の私が皆さまを「夢とロマンの時空」にご招待いたします★

「なんで、うちの秀が……なんで、秀だけが!」
甥っ子の母親は、当時を思い出すたびに嗚咽していました。
そして甥っ子の母親の時計は、「3・11」から止まった状態でした。

私の甥っ子は当時、石巻市役所の職員でした。
2011年3月11日、東北地方を中心に「マグニチュード9・0」という巨大地震が発生したため、甥っ子は石巻市被災地対策本部員として同市北上総合支所に赴きました。

そして午後3時30分を過ぎた頃、甥っ子は同支所庁舎ごと巨大津波に流されてしまいました……亨年36歳でした。



その日から一週間後、近くの海岸で甥っ子の遺体が発見されました。
遺体は、ほとんど無傷できれいな状態だったそうです。

甥っ子の母親はそれ以来、震災関連の報道番組から逃れていました。
「甥っ子の死も、何もかも思い出したくない!」という理由から毎年、命日である「3月11日」頃になると、母親はテレビの前から立ち去っていました。

そして「その日」がくると母親は自宅から逃げ去り、自宅から遠くのホテルにひっそりと宿泊するそうです。
震災関連の報道や被災地周辺の復興イベントなどを一切、見ようとも聴こうともしなかったのです。

母親は常に、震災関連の話題から避けていました。
私たちも母親の前では一切、震災や甥っ子の話題を意識して避けるようになりました……。

その母親も昨年の10月、息子の死や震災のストレスから膵臓がんを患った末に、甥っ子のもとに旅立ちました……。

東日本大震災における死傷者・行方不明者は警察庁によると、2014年(平成26年)1月10日現在、死者15,884人、重軽傷者6,150人、警察に届出があった行方不明者2,640人だそうです。

私の第2の故郷でもある宮城県石巻市内北東部、リアス式海岸に当たる旧雄勝町、旧北上町、旧河北町の沿岸はほぼ完全に壊滅しました。

3階建ての雄勝病院は完全に水没し、入院患者と職員の65人が流されて生存者は3人、北上川の河口北側にあった石巻市北上総合支所では職員と避難者合わせて57人のうち生存者は3人だけでした……。

津波はその北上川を氾濫させながら猛烈な勢いで遡上し、5キロ上流に位置する石巻市立大川小学校(旧河北町立)では徒歩で避難していた児童78人と職員11人が流され、助かったのは児童4人と職員1人のみでした。

震災当時、私は「癌」の告知を医師から受けていたため、すぐに手術・入院となりました。

翌年も、再発して手術・入院を繰り返し、甥っ子の墓参りに行けませんでした。
震災から3年近く経過し、昨年の8月1日、甥っ子の墓参りがようやく実現したのですが……。

甥っ子の想い出がいっぱいあり過ぎて、甥っ子の被災した現地に行っても甥っ子の死が受け入れられませんでした。

その後、私は大川小学校に行き、東日本大震災で被災死した児童たちの冥福を祈ってきました。学校は、被災した当時の状態でした。




この地区で多くの児童(74人)が津波にさらわれて死亡・行方不明になったことを思い浮かべた時、私は涙が溢れてしまいました。
亡くなった子供たちは、あの日、どんなに恐かったのでしょうか……。


テレビで見た光景とは違い、実際に現地に行き惨状を目の当たりにした時、思わず言葉を失ってしまいました。
遺族の方々の中には、今でも行方不明になっている我が子の遺体捜索をしているそうです。
私は胸がつまり、何ともいえない気持ちで大川小学校を後にしました……。

皆さま、月日が何年過ぎても、東日本大震災で被災した人々の存在を忘れないでください!