河村龍一の「月の癒し」~銀河鉄道の夜

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「相模原市『津久井やまゆり園』殺傷事件~植松被告死刑確定に思う」

2020-03-30 22:55:27 | 日記

今宵、「銀河鉄道の夜」に訪問していただき、ありがとうございます。
現実世界に疲弊した皆さまを、夢とロマンの時空にご招待いたします。


本日(30日)、相模原市の知的障害者施設「津久井やまゆり園」殺傷事件の犯人植松聖被告(30歳=横浜地裁の裁判員裁判で死刑判決)の死刑確定が報じられました。

弁護人による控訴を取り下げたことから、本日が控訴期限のため、高裁や最高裁の判断を待たずに死刑が確定しました。
でも、何故かすっきりしないのです。

私は「津久井やまゆり園」殺傷事件と、「附属池田小通り魔事件」がリンクしてしまうのです。
以下、棒線箇所がリンクしてしまう理由であり、植松被告と宅間守の共通事項です。

附属池田小通り魔事件では、犯人の宅間守が包丁で8人の児童(1年生1名、2年生7名)を刺殺し、教師2名と13名の児童に傷害を負わせました。
ほとんどの被害者が無抵抗な児童であり、犯行に使用した凶器は包丁で、しかも小学校の授業中に起きてしまったという、あってはならない凄惨な事件でした。

宅間守の犯行動機は、「エリートでインテリの子をたくさん殺せば、確実に死刑になると思った」という死刑を自殺の手段として選択したことと、社会への強い嫉妬と不満のためだったのです。


その後、逮捕された宅間守は公判中にあくびや貧乏揺すり、遺族や裁判長を睨みつけたりする行為を繰り返しました。
そして公判後、「刑事責任能力がそこまで認められたなら、控訴しても仕方ない」と、控訴しない意思を述べていました。
※宅間守は過去に統合失調症を患い、精神病院に入院していたことがありました。ただし、犯行時は「情性欠陥者で妄想性のパーソナリティ障害」が認められるが責任能力を減免するような精神障害ではなかったとされました。

2003年8月28日、大阪地方裁判所は宅間守に死刑判決を下しました。この裁判では、宅間守は開廷時に騒いだことで退廷させられてしまい、裁判長から直接死刑判決を聞くことができなかったのです。
同年9月10日、弁護人が控訴しましたが、9月26日に宅間守は自ら控訴を取り下げ、死刑判決を確定させました

そして2004年9月14日、大阪拘置所において、宅間守の死刑が執行されました(没年40歳)。

宅間守の死刑執行の報道に、
「えっ! これでこの事件は終わり? 最後まで遺族への謝罪はなしか……」
当時の私は、なぜか空しい気分でした。
また、すべてが宅間の望み通りに展開したことについても強い憤りを覚えていました。

ところで、植松聖被告の死刑執行に反対する障害者がいる事実を、彼は知ってほしい。
こちらをクリックしてください。

普通の人が言う言葉なら、「キレイごと」としてスルーしますが、同被告が「生きる価値がない」と言っていた障害者の方が、悪魔のような植松聖被告の命も大切だから助けてほしいと言っているのです。
この方の言葉を植松聖被告は重く受け止めるべきです。
でも、私は多分、同被告には通じないと思うのですが…….。

それでも、微かな望みを期待したいと思います。

本日、植松聖被告の死刑確定の報道を知り、私は同被告に次の事を切望しています。

せめて、植松聖被告は死刑が執行される前までに、事件に至った経緯と動機を正直に説明し、「障害者は生きる価値がない」という気持ちにいつ頃から、どのような理由で変節したのか事件の真相を語ってほしい。

そして、人としての心を取り戻して反省し、被害者や遺族の方々へ心から謝罪をしてほしいのです。
その上で、あなたが犯した取り返しのつかない過ちを、自らの命で償ってください。

 

*@。;: 様
貴重なコメントありがとうございます。
ご希望どおり、非公開としました。

 


「相模原障害者施設殺傷事件 植松被告に死刑判決~だが、問題は何も解決しない」

2020-03-17 00:14:27 | 日記

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本日(3月16日)、横浜地裁(青沼潔裁判長)の裁判員裁判は、2016年7月に相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」で、入園者19人を殺害し、26人を負傷させたとして殺人罪などに問われた元同園職員、植松聖被告(30歳)に対して求刑通り死刑判決を言い渡しました

しかしこの事件は、被告の死刑で終止符が打てるような「単なる大量殺人事件」の範疇を超えており、私たちに様々な問題を提起しています。

「意思の疎通が取れないような重い障害者は、安楽死させたほうが良い。彼らは人々を不幸にするだけだから」
これまで各メディアで報道されてきた植松被告の「特異な犯行動機」です。

彼が殺害した被害者数は19人で、そのターゲットが「意思疎通の不可能な障害者」という本来は特に保護されるべき社会的弱者であり、しかも彼が以前に担当していた入所者も躊躇なく殺害していったその思考が全く理解できません。

それどころか植松被告の担当弁護士は、被告が「大麻性精神障害者」だから事件当時、心神喪失若しくは耗弱している状態なので刑事責任能力は問えないと主張していましたが、事件の被害者や遺族の心を更に傷つけるこの弁護士には「人間としての良心」が存在していないようです。

さらに、植松被告を称賛する声もインターンネットの中に散見されるという信じがたい事実と、植松被告に同調する人々がいるという現代社会にこそ、この事件の本質が潜んでいるのではないでしょうか。
これらの問題について社会全体で真剣に取り組まない限り、今後同様な事件の発生を抑止することは困難かと思います。

無理な話かもしれませんが、死刑判決を受けた植松被告が死刑執行される前までに、みずから犯した事件の重大さに気づき、反省し、殺害した被害者一人ひとりに心から謝罪してほしいものです。


「3・11から9年~被災地は風化せず」

2020-03-12 22:48:01 | 日記

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★癒しの曲(目標1万回再生!)


この日(2020年3月11日)、コロナ騒動で閑散とした人通りの少ない石巻駅前を自家用車で通行中、突然、けたたましいサイレン音が響きわたると駅前ロータリー内では、ほとんどの人が黙とうを捧げていました。
ハッと気づいた時刻は、まさに14時46分。

タクシードライバーの数人の方々も「タクシープール」の車外で佇立し、南方向(日和山~南浜町・旧門脇町方向)に対して合掌しながら黙とうしていました。
何と! その中には以前私と一緒に配車係をしていたYさんと、知り合いのタクシードライバーの方々もいたのです。

皆さんは全身全霊で祈っていました。普段は決して見ることのない彼ら被災者の佇立した姿に、私は(やはり、ここは被災地だった……)と、つい、感涙してしまいました。

一方で、その光景を写真撮影しようと不謹慎極まりない思いが一瞬、私の脳裏をよぎりました。
しかし、あまりにも彼らの全身から発せられている、「亡くなられた被災者の冥福を祈るすさまじいオーラ」のようなものに圧倒されてしまい、非常識な行為をやめて私も黙とうを捧げました。

この日で東日本大震災から9年経過しましたが、何年経過しても被災地の人々にとって「3・11」は風化していなかった、と痛感させられた次第です。

「写真 石巻駅前」  2020年3月11日 河村龍一撮影

「写真 工事中の新内海橋周辺」(2020年3月11日 河村龍一撮影)

「写真 休館中石ノ森萬画館周辺」(2020年3月11日 河村龍一撮影)

「写真 中央町:元気いちば周辺」(2020年3月11日 河村龍一撮影)

 

「写真 石巻赤十字病院 災害医療研修センター玄関と赤十字旗」
(2020年3月11日 河村龍一撮影)

※石巻赤十字病院~「東日本大震災における対応」
2011年3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震、またそれに伴う津波の影響で、石巻市は甚大な被害が出た。発災と同時に、石巻赤十字病院は災害拠点病院としてあらかじめ用意してあったマニュアルに従い、全職員が配置につきトリアージと治療の準備を完了。多くの救急患者が運び込まれ、最大で震災2日後には1日1251人もの急患が運び込まれた。病院はロビーのソファーや廊下の床も含め、運び込まれた患者と付き添いの親族らで一杯になった。 
本来、石巻市では地震などの災害時、市内116の医療機関が連携して対応するはずであったが、大津波の影響により、旧北上川河口にあった石巻市立病院をはじめとしたほぼ全ての医療機関が機能停止。大津波の到達もなく、また、災害拠点病院として、自家発電や緊急時の水などを備えた石巻赤十字病院が石巻都市圏20万人を一手に背負うことになった。全国から120人ほどの医師が石巻赤十字病院に応援に駆けつけ、当院職員と共に対応に当たった。 
しかし、災害医療の専門的な訓練を受けてきた医師たちも、かつて体験したことのない災害において、次々と新たな困難に直面する。特に、市役所の行政機能がほぼ停止状況に追い込まれたことにより、避難所の様子がまともに把握できなかった時には、石巻赤十字病院にいた医療スタッフを総動員して、300か所以上の避難所にいる約7万人もの避難民をしらみつぶしに調査するという、前代未聞のローラー作戦を行った。避難所によっては、避難した看護師等がかき集めてきた薬でなんとか医療サービスを維持していた避難所もあり、35か所の避難所では震災から10日経っても食糧さえも確保できない事実がわかった。 
3月下旬になっても通常の5倍もの1日300人程の患者が石巻赤十字病院に押し寄せ、その多くは避難所の劣悪な環境による肺炎や感染性の胃腸炎を発病していた。医師による避難所の調査では、水がなく手も洗えない、排泄物も流せない等、劣悪な衛生環境の避難所が3月下旬時点でも100か所以上あった。石巻赤十字病院は、あふれる患者を被災地以外の病院に転院させるなどの対応を図る。災害関連死を含めた当院における死者は、地震後3か月で264人に上る。 
震災時の院長である飯沼一宇が、震災発生時の様子や対応などについて、復興をテーマに2011年10月30日に開催されたカンファレンスTEDxTohokuにて講演を行っている。当該講演では、旧北上川の過去の氾濫を鑑みて、3メートルの盛り土をした上に病院を建設した結果、津波の被害を免れることができたことなど、当病院独自の様々な災害対策についてスピーチが行われている。なお、このスピーチの模様はYoutubeで公開されており閲覧することができる。 
なお、当時の医療社会事業部長は在京大手メディアによる営業に対し、苦言を呈している。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 

「写真提供 石巻復興まちづくり情報交流館 女川町観光協会」

 

★2011年(平成23年)3月11日(金曜日)14時46分18秒(日本時間)、宮城県牡鹿半島の東南東沖130km(北緯38度06.2分、東経142度51.6分、深さ24 km)を震源とする東北地方太平洋沖地震(マグニチュード9・0)が発生。

◆広島型原爆31万6700発分!
「3・11」(マグニチュード9・0)のエネルギーを核爆弾に換算した数値。

◆2020年3月11日現在
・全国の被害死者数:1万5899人。

・行方不明者数:2529人。

 

 


先の震災でお亡くなりになりました人々のご冥福を心よりお祈り申し上げます。

2020年3月11日
河村 龍一