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今宵、銀河鉄道の夜に訪問していただき、ありがとうございます。
現実の世界に疲弊した皆さまを、夢とロマンの時空にご招待します!
「人間というおよそ儚いものは、この世に生まれ死ぬまでの夢まぼろしのような一生です。朝に美しい紅の顔をしていても、夕べには白骨になる身です。
無常の風に吹かれるなら、二つの瞼はたちまちに閉じ、呼吸も絶えてしまいます。
その時、親族が集まって嘆き悲しんでも、もはやどうしようもありません。
そこには白骨しか残りません。哀れという言葉では言い尽くせません……」
~白骨の章(浄土真宗「御文」)より
相次ぐ訃報の報道に、河村は哀悼の意を表し、古い経典に目をとおしました。
すると、そこには科学文明では決して「癒せない解答」が述べてありました。
私たち人間は、死んだら全てがそれで終わるのでしょうか……数百億年、数千億年経過しようが未来永劫、【何もない暗黒】だけがはてしなく続くのでしょうか、の問いに、「いや、そうとは限りません」と、聖なる答えがかえってきたのです。
今宵、皆さまだけに「現世の真理」についてご紹介しましょう。
「月かげのいたらぬさとはなれけれども、ながむる人のこころにぞすむ」
これは、浄土宗開祖法然(1133年~1212年)の歌です。
“月の照らさないところはないが、それを見ようとする心がなければ見ることができない”という意味です。
つまり、「超知性からのメッセージ(神仏の光・慈悲の輝き=聖なる便り)は人類に対して常に発信されているが、観ようと(知ろうと)する心、感じようとする心がなければ、観ることも感じることもできない」という意味です。
「超知性」について私は、「古代より神仏として人類の祖先たちに崇められている、人類を遥かに凌駕したわけの分からない知性体」と、捉えています。
その「超知性」について、私は以前より当ブログで科学的に述べてきました。
量子論や相対性理論などの近代理論物理学に、ユングなどの深層心理学を融合させて検証しました。
しかし、未だに解明できません。また、私ごときにそれは不可能なことです。
「超知性」~正体は異星人かも知れないし、高次元時空に存在する神や仏か、あるいは人類の想像を絶した「創造主」なのかも知れませんが、とにかく私たちの住んでいる3次元宇宙に介在していることだけは事実のようです。
釈尊(お釈迦さま)やイエス・キリストなど、人類の宗教の開祖ともいうべき「聖人」たちは生涯を通じ、「超知性」を観ることができ、常に「超知性」からのメッセージを理解し、「超知性」とのコンタクトさえ可能だったようです。
「神や仏(超知性)はいつも沈黙していて何もしてくれないじゃないか」と人々は思うかも知れません。
しかし、そのことは、私たちがあまりにも欲が強いため、それが邪魔してメッセージを受信できず、聖なる存在が観えないし、感ずることさえできないのでしょう。
ここで、釈尊(紀元前463年から前383年)と「超知性」とのコンタクトという逸話をご紹介しましょう。
(中村元訳『ブッダのことば』、岩波文庫より引用)
釈尊が祇園精舎におられた時、容色麗しい「超知性(神)」が近づき、釈尊に礼をして、次のように呼びかけていたといいます。
「多くの神と人間とは、幸福を望みながら、幸せを思うています。最上の幸福を説いてください」と。
それは、次の教示でした。
・諸々の愚者に親しまないで、諸々の賢者に親しみ、尊敬すべき人々を尊敬すること~これがこよなき幸せである。
・適当な場所に住み、前世には功徳を積んでいて、みずからは正しい誓願を起こしていること~これがこよなき幸せである。
・博学と、技術と、訓練をよく学び受けて、弁舌巧なこと~これがこよなき幸せである。
・父母につかえること、妻子を護ることと、仕事に秩序あり、混乱せぬこと~これがこよなき幸せである。
・施与と、理法にかなった行いと、親族を愛し護ることと、非難を受けない行為~これがこよなき幸せである。
・悪を厭い離れ、飲酒を制し、徳行をゆるがせにしないこと~これがこよなき幸せである。
以上ですが、このことが私たち全人類に浸透し遵守されていたならば、この世界は犯罪や戦争など存在せず、まさに「極楽浄土」となっていたはず。
釈尊は人間の悩み、苦しみは、無知(無明)から生ずるものであり、それを滅することにより悩み、苦しみより解放されるという縁起の理想を知り、諸々の疑いから解放されたといわれます。
また、釈尊は、老衰と死にさいなまされている人間の拠り所(島・避難所)について、次のように説いていました。
「いかなる所有もなく、執着して取ることがないこと~これが島(非難所)にほかならない。これこそ老衰と死の消滅である。
現世においてまったく煩いを離れた人々は、悪魔に伏せられない。かれは悪魔の従者とはならない」と。
このことは、「般若心経」で説くところの「空」の思想と共通しており、この世(宇宙)の事象は本来実態のない「空」であり、何事も全てが「空」であるから、執着心を捨ててしまえば、一切の苦しみから解放されるという意味です。
これは、イエス・キリストが述べていたある事柄と同様な意味でした。
「金持ちが天国に入るのは、ラクダが針の孔を通るよりも難しい」です。
つまり、人間は欲望・執着心が強いほど魂は汚れて霊性を失い、悩みや苦しみも多くなり、ただの「物質的な肉魂」と化してしまうため、老衰や死への恐怖を感じてしまうということです。
ここまでは、古い仏教典に記された「超知性」から人類へのメッセージについてご紹介してきました。
さて、これから科学的に解釈した私の推論を述べてみたいと思います。
そのことが、この時代を生きる皆さまの「救い」「癒し」になることを切に願っています。
私たちの存在している現在の宇宙は、ダークエネルギーが73%、ダークマターが23%、物質が4%の比率で存在しているといわれます。
このように私たちの住む物質宇宙の実態はミステリー現象ともいえます。
しかも、物質はなぜか「隙間だらけ」な状態なのです。
私たち人間も物質ですから、同様に「隙間」だらけですね。
これらのことは、「ニュートリノ」という素粒子が、地球上で検知されにくいことからも証明されています。
何しろ、探知機なども通常な物質のため「隙間だらけ」ですから、「幽霊素粒子」とも比喩されているニュートリノ粒子などは簡単にすり抜けてしまうため、なかなか検知しにくい事情があったのです。
仮に、人間から「隙間」を除いて物質だけにしてしまうと、10万分の1くらいの大きさになってしまうそうです。
では、この「隙間」とは、いったい何ものでしょうか。
そこで私は、「隙間」こそ「ダークエネルギー」の正体ではないかと推測します。
銀河系宇宙の73%を占める「ダークエネルギー」の正体とは、物質の「隙間」に存在している未知のエネルギーだったと。
これこそ、最先端理論物理学で説いている「物質波」と「生命波」の正体ではないでしょうか。
物質を最小化すると素粒子になります。
素粒子は「波」の性質もかねているのです。生命もしかり。
人間に例えると、肉体を構成している4%の物質のほか、「ダークエネルギー」という73%の未知のエネルギーが充満している「隙間」も考慮すべきだと。
この「隙間」こそ、人間の根源をなす霊性=生命エネルギーであり、そのほかに23%の「ダークマター」は異次元の空間ではないかと思うのです。
つまり、我々が住んでいる物質世界の従来の概念も根本的に変えねばならないのです。
量子力学の父といわれるボーアは、『この世』が唯一の世界だという私たちの考えそのものが間違っているのでは? と示唆し、私たちが体験している『この世』は多くの異空間が混じり合って、互いに干渉し合っているのだと主張しています。
量子力学の実験によって、私たちが生きている空間の中には、ボーアの言うように漠然と重なり合っている二つの以上の世界が存在するという可能性を信じなければならなくなってきたのです。
これはスウェデンボルグが言う「霊界ではあらゆるものが意識を有しており、とくに人の意識が強く干渉し合っており、『この世』も一種の霊界で、すべての霊界が染み込んでいる」との主張に一致します。
また、不確定生原理によると、ミクロの世界では、『ゆらぎ』があるという。ゆらぎがあるということは、エネルギーを一定にすることはできないということです。
つまり、すべての物質を取りのぞいた空間も、そこに存在するエネルギーの量はゼロという一定値とはならないということであり、真空のエネルギーとは、いわば、そこに空間があるだけで必ず存在するものであるということです。
この究極的な科学理論は、「色即是空」と述べている「般若心経」の「空」の思想と一致しています。
空間≒エネルギーであり、E=mc2という相対性理論とも一致します。
要するに、私たちは「今は物質(肉体)の状態」だけど、本来は未知のエネルギーが実態であり、空間(エネルギー)の一部が物質(肉体)化しているだけという意味です。
これで、「物質浴に執着するな」という仏教の教えと、「金持ちが天国に入るのは、ラクダが針の孔を通ることよりも難しい」と述べたイエスの言葉の意味が理解できるのではないでしょうか。
私たちは本来、「未知のエネルギー」の化身であり肉体の死後、高次元時空(宗教でいう天国)に転化するには、現世の「物質欲」に執着してはいけないと解釈すべきでしょう。
物質欲にとらわれた人間の魂は死後、物質として消滅するだけの運命にあると。
結論ですが、私たちはこの時代を生きる上において、突発的な自然災害や殺人事件に遭い死ぬことも覚悟しなくてはなりません。
そうでなくても、いずれ老衰・病死という運命が待っています。
しかし、人間ひとりひとりが「聖書」あるいは「仏教典」の教えに従って「神」か「仏」になり互いに助け合えば、この世はまさに「極楽浄土」になるのです。
それは、「未知の超知性=創造主」により来世への転化が保障されるということを意味し、一時的な肉体の死への恐怖も克服できるのではないでしょうか。