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TAZUKO多鶴子

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奈良『平城宮跡』のライトアップ写真!

2009-01-16 | TAZUKO多鶴子からの伝言
< 平城京 >
平城京(へいぜいきょう、へいじょうきょう)は、かつての日本の首都。いわゆる「奈良の都」である。唐の都「長安」や北魏洛陽城などを模倣して建造されたとされ、現在の奈良県奈良市および大和郡山市近辺に位置していた。

*歴史*
藤原京から平城京への遷都は707年(慶雲4)に審議が始まり、708年(和銅元)には元明天皇により遷都の詔(都というものは「百官の府であり、四海の人々が集まるところ」である。平城の地は、三方が山に囲まれ南が開け、占いにもかなっている。)が出された。 しかし、710年(和銅3)に遷都された時には、内裏と大極殿、その他の官舎が整備された程度と考えられており、寺院や邸宅は、山城国の長岡京に遷都するまで、段階的に造営されていったと思われる。740年、恭仁京への遷都によって平城京は一時的に放棄されるが、745年には、再び平城京に遷都され、その後784年(延暦3年)、長岡京に遷都されるまで74年間都がおかれ政治の中心地であった。山城国に遷都したのちは南都(なんと)とも呼ばれた。
810年9月6日、平城太上天皇によって平安京を廃し平城京へ遷都する詔が出された。これに対し嵯峨天皇が迅速に兵を動かし、9月12日、平城太上天皇は剃髪した(薬子の変)。これによって平城京への遷都は実現することはなかった。

*平城京はシルクロードの終着点であったことも関係し、非常に国際都市であった。それ故に京内には日本人だけではなく唐や新羅などから遠くはインド周辺の人々までみられたという。
桓武天皇が、平城京から長岡京へ遷都を決めた理由の一つに、平城京の地理的条件と用水インフラへ不便さにあった。平城京は大きな川から離れている為、大量輸送できる大きな船が使えず、食料など効率的に運ぶことが困難であった。都には小さな川は流れているが、人口10万人を抱えていた当時、常に水が不足していた。生活排水や排泄物は、道路の脇に作られた溝に捨てられ、川からの水で流される仕組みになっていた。しかし、水がほとんど流れない為に汚物が溜まり、衛生状態は限界に達していた。


参考資料: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


奈良『平城宮跡』まで行って来ましたよ(^ ^)

2009-01-15 | TAZUKO多鶴子からの伝言

今日は有名な奈良『平城宮跡』まで行って来ました。
残念ながら写真を撮っていないのですが…。
次回行く時は是非!
見事な風景写真を撮ってブログ公開したいと思います。
その時まで暫くお待ちを!



< 平城宮 >
平城宮(へいじょうきゅう)は奈良の古都平城京の大内裏。1998年12月、「古都奈良の文化財」として東大寺などと共に世界文化遺産に登録された(考古遺跡としては日本初)。

*平城京の北端に置かれ、天皇の住まいである内裏と、儀式を行う朝堂院、役人が執務を行う官衙から成り、約120haを占めていた。
794年の平安京遷都後は放棄され、農地となっていた。
1852年(文政8年)、奉行所の役人であった北浦定政が『平城宮大内裏跡坪割之図』を著し、平城京の跡地を推定した。 明治時代に建築史家、関野貞が田んぼの中にある小高い芝地が大極殿(第二次)の基壇であることを発見、1907年『平城京及大内裏考』を奈良新聞に発表した。この研究記事がきっかけとなり、棚田嘉十郎・溝辺文四郎らが中心となり平城宮跡の保存の運動が起こった。1921年には、平城宮跡の中心部分が民間の寄金によって買い取られ、国に寄付された。その後、平城宮址(へいじょうきゅうし)は1922年に国の史跡に指定された(後に特別史跡)。1960年代に私鉄電車の検車庫問題と国道建設問題に対する二度の国民的保存運動がおこった。現在は、ほぼ本来の平城宮跡地が指定され保存されている。
のちに址(し・あと)が常用漢字外であるため平城宮跡(へいじょうきゅうせき)と書かれるようになる。
なお、唐招提寺の講堂(国宝)は平城宮朝堂院にあった建物の一つである東朝集殿を移築したものである。切妻屋根を入母屋にしたり、鎌倉時代の様式で改造されている箇所もあるが、平城宮唯一の建築遺構として貴重である。


参考資料: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

『禅』の映画をみてきました…

2009-01-11 | TAZUKO多鶴子からの伝言
昨日は、
公開されたばかりの『禅』の映画をみてきました。
『道元』の足跡を辿った映画…
色々考える所があって…
TAZUKO多鶴子の映画の感想は今回は控えさせて頂きます。
でも、機会があれば是非みて頂ければ…と思いますよ!
そして~
今日はまた…
DVD『Vフォー・ヴェンデッタ』をみて感動しましたよ~(^ ^)
色々問題な所もあるとは思われますが…映画の真意を察すれば、
これもTAZUKO多鶴子はお勧めです!
宜しければ本当に是非!

そんな訳で…昨日と今日は絵の制作をさぼって
自分自身に息抜きのプレゼントをしたのですが…
たまにはそんな日もあっても良いかな~って…。
しかし、
明日からはまたまた制作頑張るぞ~!!


< 道 元 >
道元(どうげん)は、鎌倉時代初期の禅僧。日本曹洞宗の開祖。晩年に希玄という異称も用いた。同宗旨では高祖と尊称される。諡号は、仏性伝東国師、承陽大師。一般には道元禅師と呼ばれる。
徒に見性を追い求めず、座禅している姿そのものが仏であり、修行の中に悟りがあるという修証一等、只管打坐の禅を伝えた。主著正法眼蔵はハイデッガーなど西欧の現代哲学者からも注目を集めた。
※道元の出生には不明の点が多いが、内大臣土御門通親(源通親あるいは久我通親)の嫡流に生まれたとする点では諸説が一致している。定説では京都木幡の松殿山荘で通親と太政大臣松殿基房(藤原基房)の娘伊子の子として生まれたとされているが、近年の研究では定説では養父とされている堀川通具の実子とする説が有力になりつつある。また、通親の子、通宗または通光を父親とする説もある。伝記である『建撕記』によれば、3歳で父(通親)を、8歳で母を失って、異母兄である堀川通具の養子になった。また、一説によれば両親の死後に母方の叔父である松殿師家(元摂政内大臣)から松殿家の養嗣子にしたいという話があったが、世の無常を感じていた道元が断ったとも言われている。
浄土真宗の開祖親鸞とは、互いに母方の縁戚にあたり面識があったとする説があるが確証はない。著作『正法眼蔵』の「生死」の巻は、親鸞に向けて書かれたものであるとする説がある。



参考資料: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』