百醜千拙草

何とかやっています

研究者と修行僧

2008-11-18 | 研究
臨床医学から基礎研究へと進んで大きな偉業を成し遂げる人は多くいます。先日そんな一人、Charles Weissmannの話を聞く機会がありました。彼はsite-directed mutagenesisを開発した人ですし、早くから遺伝子操作にも重要な寄与をした人なので、私の乏しい知識の中では、Weissmannは基礎分子生物学者という位置づけでした。実際、私の手元にある遺伝子ターゲティング用のベクターの一つは15年も前に彼のグループで開発されたものでした。何か技術的に面白い話が聞けるかもしれないと思っていたのですが、彼の話は、プリオン病の非常に現象的な話でした。基礎研究の内容もそれぞれ臨床との繋がりがはっきりした研究で、私は感銘を受けました。これが医者が基礎研究をやることの強みなのでしょう。基礎と臨床を常に関連づけて考えているのかも知れません。あるいは「病気で苦しむ人」のことがどこか頭の片隅にあるのかも知れません。この病人の気持ちを理解し、その役に立ちたいと思う気持ちは、大変、尊いものだと思います。
 基礎研究の研究活動そのものが与えてくれる知的な興奮を私は好きですし、それが未だに大して金にもならない研究を続けている主な理由ですが、一つ不満なことは、しばしば、基礎研究では「世の中の人のために働く」という感覚が乏しくなってしまうことです。現在、私が世の中に貢献しているかと問われると、論文やグラントのレビューのような誰かがやらねばならないような雑用を除くと、胸をはって世の中のために働いていますとはちょっと言えないような後ろめたい気持ちを感ぜずにはいられません。基礎研究は、いつか役に立つかも知れないことを産み出す、いわば将来への投資活動なので、直接誰かの役に立つようなものではないのですから当たり前といえばその通りです。業界内のごく限られた人々が当座の間、面白いと思ってもらえたらそれでよいというような性質のものなのですから、なにも一般の人に、「研究者というのは実験室に隠って役にも立たないことをやって税金を無駄遣いしている」という類いの非難に肩身の狭い思いをする必要などどこにもないとは思ってはいます。例えば、今年のノーベル化学賞のクラゲの発光物質など、当時の人は、本人も含めて、その発見がどんな役に立つのかは見えていなかったはずです。とはいうものの、二言目には税金を使った研究は国民の役に立つものでなければやめてしまえ、というような世間の意見に対して、今やっている基礎研究が役に立つかどうかは二十年経たねばわからないと歴史的事実で反論しても説得力がないのは、自分自身の研究が二十年後にどう役に立つのか自分自身でもわからないからでしょう。
 大学の基礎研究という活動のために税金からの研究費をお願いするのは、極端に言えば、禅の修行者が托鉢に出るのと同じようなものでないかと思います。仏教の修行者が寺に集まって修行をしようとしまいと、それはその人たちの勝手で、自分たちとは関係はない、と思うのが現代一般人の感覚かもしれません。しかし、過去、在家の人は、自分が修行できないかわりに修行をしてくれている修行者の人に感謝して喜捨するものでした。修行者の人が、一般の人のかわりに修行をし、何らかの真理に到達し、いずれ俗世間の人々を導いてくれる、というような漠然とした考えがあったのだろうと思います。また、世界の真理を理解するために仏法を研鑽する人に対する尊敬が一般にあったのでしょう。然るに、街角で托鉢する僧を物乞いか何かのようにしか思わない現代の拝金主義の人々に、大学に残って少ない給料で学問に励む人に対して昔の人が博士と呼んで敬ったような気分がどれだけあるのかは推して知るべしでしょう。大学で研究に励む人々を、自分たちができない研究をかわりにやってくれて、国の文化の発展に力を尽くしてくれている人々と考えているような一般人はまず皆無ではないかと思います。(もちろん、研究者の全てが高邁な学問の進歩という理想に燃えて、日々、研鑽しているという気はありませんが、少なくとも一部の研究者は尊敬に値するだけの理想と情熱をもって一生懸命働いていると思います)
 托鉢を受けて修行する修行者の心得として、大乗仏教には、菩薩がおこす「四弘誓願」という四つの誓いがあります。鈴木大拙は、「先生の見性は何ですか」と弟子に問われて、四弘誓願の最初の句、「衆生無辺誓願度(衆生は無辺なれど、誓って度せんと願う、つまり、限りない世の人を導くために身を惜しまず働くという誓い)」と述べました。仏徒の修行の先には、世の中の人のために立ちたいという究極の目的があって、それがために寺に集まって修行をするわけです。基礎研究者も意識の上ではそうでありたいものだと私は思います。
 ところで、最近、ちょくちょく見る、「内田樹の研究室」のブログでは、ブログのタイトルの副題に、「みんなまとめて、面倒みよう」とあって、フランス語訳らしい、– Je m’occupe de tout en blocという文が添えてあります。このフランスの言葉に由来があるのかどうか知りませんが、初めてみたとき、これは「衆生無辺誓願度」のことを言っているのだな、と私は思いました。大学教員または研究者として、そして人間として、常に忘れてはならないもの、それがこの言葉ではないかと私は思います。とは言え、なかなか、理想と現実のギャップは大きいものがあるのですが。
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