百醜千拙草

何とかやっています

大きな乗り物

2022-08-31 | Weblog
今日は短く。京セラの稲盛和夫氏、90歳で死去とのこと。
戦後、日本の偉人の一人であると評価しない人はいないと思います。一技術者から会社を起こし、独自の経営哲学を発展させました。通信業界に革命を起こし、業種を超えて日航の経営再建を指導、数々の著書を通じて、経営者のみならず、広く世の中を啓蒙した指導者の一人であったと思います。

近年、総理大臣から率先して「今だけ、金だけ、自分だけ」でもいうような風潮とは対極にある考え方によって、戦後の日本企業は発展してきました。稲盛氏が経営の神様になった最初のきっかけは、零細企業であった時に、技術者の夢を追求し、会社の成功を達成すること以上に、社員の生活の安定と幸福を満たすことの重要性を実感させられた事件からだろうと思います。社員が幸せでない会社は一時的には成功しても持続して繁栄することはないでしょう。一緒に生きる人々が幸せでなくて自分一人の幸福はあり得ません。衆生無辺誓願度 ですか、そうしたスケールの大きな人類愛とでもいうようなものがその経営哲学の基礎の部分にあるように感じます。

今の日本には、その大乗の思想とでもいうものが十分ではないようです。現在ほど、第二、第三の稲盛さんのようなリーダーが日本に必要な時期はないのではないか、と感じた次第です。
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働かなくても良い社会

2022-08-27 | Weblog
久しぶりに大阪に住む親戚と会って、軽い気持ちで時事雑談していて、日本の経済の低迷の話になりました。その彼は企業のサラリーマン、特別恵まれた環境にあるわけではありません。10年以内にやってくる定年退職後の年金生活、親の介護と自分の健康、子供の将来に日々不安を抱えながら生活する、ごく普通の人です。

ところで、今回、久しぶりに空港を利用して違和感を感じたのは、外国の空港ではあり得ないような多くの数の高齢の人々が至る所で人々の交通整理をしていることでした。外に出ると、街中は殺人的な気温と湿度と太陽光線で、5分と日向は歩けません。そんな中で、真っ黒に日焼けした70は超えていそうな男性が、警備員の服を着て至る所に立っています。これも外国では見ない光景です。

私は、父が早くに亡くなった後、母が一時期子供を養うために、朝早くからの肉体的に辛い仕事をやっていたことを思い出しました。父の会社経営はあまりうまく行ってはいませんでしたから、亡くならなかったら、遠からず会社を畳んでいたでしょうし、そうなっていたら収入のために夏の暑い中に警備員のような辛い仕事をしていたかもしれません。高齢になった自分の親が、生活のために肉体的に辛い仕事につく、ということを想像すると、苦しい気持ちになります。

それで、これが生活のためであるならば、高齢者が殺人的な暑さの屋外で肉体労働しないといけないような社会は異常だ、という話をしました。てっきり同意してくれると思ったら、彼は、それは真面目に働いて老後にしっかり貯金をしてこなかった方が悪い、というのでした。彼は一サラリーマンで、毎日コツコツ働いて生活する普通の市民です。だからこそ、真面目に働かず老後に苦しむ人は自業自得だし、まして不正に補助金や生活保護などを受け取る一部の人間は許せない、と考えているようでした。ま、この不公平感からくる気持ちはわからんでもないです。

しかし、誰でも今の世の中、一歩間違えれば、年老いてから炎天下で警備員をしなければならない立場になりかねないです。私も彼もそういう側の人間で、週に一日だけ働いて残りは公用車でスパ通いしているような市長や、レイプ事件を握り潰して昇進したがヘマで辞任しても退職金8000万円の警察庁長官や、コンサル料一声5000万円の元オリンピック組織委員理事のような人間とは対極の立場にいるのです。彼の「不公平感」は、なぜか、デタラメをやってはそのツケを庶民に負わせる支配者層には向けられず、同じ労働者クラスの同胞に向けられているようでした。

彼が感じていると思われる、一生懸命働いて生活している自分たちと、真面目に働いてこなかった人が、同じ扱いを受けるのは不公平だと思うのは理解できます。また一方で、彼は真面目に仕事をして生活して収入を得ていくことは尊いことだと信じているようです。多分、多くの日本人は真面目に働いて経済的自立をするということは尊く、仕事は自立した大人のアイデンティティーの大きな部分だと考えていると思います。しかし、こうした考え方は、一方で、安定して金を稼げない人間の価値は低いとか、障がい者は社会のお荷物だとか、というような短絡的で愚かな思考を正当化する根拠にもなっている場合があると思います。そういう主張をする人は、誰でもいずれは、仕事ができなくなって、金を稼げなくなり、他人の世話にならないと生きていけなくなるという現実を、深く考えていないのではないでしょうか。

誤解を恐れずに言えば、私は、人々が遊んで暮らせる世の中を目指すべきだと思っています。結局「仕事をする」ということは、「金を稼ぐ」とか「誰かの役に立つ」とかという実利と結びついているので「遊ぶ」こと以上の意義があると思われているかも知れませんけど、「暇つぶし」であることに変わりはないです。生活に必要なものやサービスは、機械化やAIで非常に高効率でまかなうことができるのです。そう思えば、世の中の仕事で必要不可欠な仕事は2割ぐらいでしょう。6割はあってもなくてもいい仕事、残りの2割はない方がよい仕事というような構成だろうと思います。

だから、政府が、本来やるべき仕事をし、格差の是正と富の再配分を然るべく行えば、社会を維持するのに絶対に必要な2割の仕事を分担して、週に1日働けば最低限、生きていくに十分な収入が得られるような社会を実現するのは可能だと私は思います。残り8割の時間は、思い思いに遊んだり、ボランティアをしたり、芸術活動やスポーツをしたり、いろいろ学んだり、学問的活動をしたり、科学研究や技術開発などの人間的で創造的な活動に充てば良い。また、週に7日働いても働き足りないというような仕事が好きな人は、沢山いますから、そういう人は好きなだけ働けば良いです。一方で、仕事は嫌いだが生活のために自分の時間を売っているという状態であるならば、それは不幸です。そういう面白くない仕事に就いている人はできるだけ少ない労働で生活ができる世の中になって欲しいと思います。そして、ない方がマシな仕事、例えば二束三文で仕入れた壺を高額で売りつける仕事とか、を生活のためにしているような人がいない世の中であって欲しいと思います。

高齢者が生活のために炎天下に警備の立ち仕事をしなければならないのであれば、それは政府が無能です。それどころか、自民党政権は、組織票をもつ企業やカルト団体を優遇するために、消費税という悪税で、持たざる者から厳しく取り立てて、持てる者を優遇することで、格差を広げ、景気を減退させてきました。これは怠慢とか無作為とかいうレベルではなく、悪意を持って意図的に一般の人々を弾圧してきたと言って良いでしょう。
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老後の孤独

2022-08-26 | Weblog
休暇中でもお構いなしにやってくるレビューの依頼を、片っ端から断る快感といったらないですね。全くの駆け出しの頃は、どんな雑誌からでも依頼を受けたら嬉しかったものでした。仕事を評価してもらえて業界の役に立てたと感じることで、承認欲求が多少満たされたということだと思います。

しかし、一つ多分一年前ぐらいにレビューをした論文のリバイスが再投稿されたので見てくれというメールがあり、これは、流石に引き受けないとまずいだろうと思い、とりあえずRebuttalを見ました。比較的新しいN誌グループの雑誌で、N紙 > N紙姉妹紙 > NC と段階的に落とされたが、SRや他の系列の無名雑誌には行きたくないという著者のニーズをを拾い上げるための雑誌です。論文そのものは、流行りのオーガノイドとオミックスを組み合わせた研究で、データは多いのに結論はパッとしないというよくあるパターン。オミックスデータを色々弄ってパッとしない結論をあたかも意義があるように見せかける「目眩し」戦法を取っているのですから、Rebuttalも推して知るべし、東大霞ヶ関論法も真っ青の論点ずらしと言い訳の嵐、Rebuttalだけでシングル スペース37ページ、論文そのものより長いです。大体、Rebuttalの始めの一ページを割いて、この論文の意義とレビューアに「誤解」を招いたことを釈明している時点で勘弁してくれという感じ。まるで自民党議員の言い訳を聞いているようで、もうレビュー拒否でいいか、と思い始めました。このレビューアをうんざりさせて、読む気を失わせ、一種の洗脳状態に持ち込む、目眩し戦法は実際に有効なので、こういうことをする著者がいるのですけど、やめて欲しい。人の時間を何と思っているのでしょう。国会で「イエスかノーでお答えください」と聞いているのに、延々と前置きを喋って時間を潰し最後まで質問には答えない「安倍論法」のようだ、と言えばさすがに言い過ぎですが。

さて、今回の休暇の主な目的は家族のことです。老いていく親との時間が限られていることが徐々に肌身に感じられるようになったこと。実母に関しては施設暮らしは一人ぐらしよりも過ごしやすいようで、安心はしています。実家に一人いて、昔のガラクタに囲まれて親と一緒に過ごした頃をつらつら思い出すと、もう今更どうにもできませんが、数々の親不孝の後悔に心が痛みます。
義父もしばらく前から一人暮らしですが、近くに家族がおらず、認知症も始まっているのに、集団生活は難しいという難しい状況が続いております。
核家族化し、仕事によって土地を離れる子供のために、親世代は孤独になっています。親の世代までは親戚同士が近所に住んで、交流し助けあっていました。私の子供の頃は盆暮正月には親類の子供がわやわやと集まり楽しい時間を過ごしたものでしたが、我々の世代は核家族化して全国各地に散ってしまい、すっかり繋がりも細くなりました。そんな中で、実家で一人暮らしする親世代が増えています。
年老いて、連れ合いを無くし、家族から離れ、仕事からは引退し、交際する友人もいなくなって、孤独な日々を過ごすということは、若い人であれば、独房に入れられるのと同様の苦痛ではないだろうか、と思います。

今回、親を見ていて、後悔と共に、遠からず、自分がそういう立場になるのだということを実感しました。昔から、一人でいる方が好きでしたが、高齢になり、孤独を選択するのではなく強制されるようになったら、どういう気持ちで日々を送ることになるのかは想像がつきます。その時に、孤独そのものを防ぐことは困難だろうという予測はあるので、孤独でも大丈夫なように生きる戦略を自分なりに考えようとしています。

ま、そもそも人間は孤独なものであります。であるからこそ、人間は、仕事を含めて「気晴らし」や「暇潰し」が必要なのでしょう。本来、孤独な存在でありながら、孤独に恐怖するのが人間です。死ぬとわかって生きているのに死ぬのが怖いのが人間で、この肉体を持つ孤独な精神の感情というものは、なかなか、御し難いものだと思います。
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暇を潰す

2022-08-20 | Weblog
実家に一人帰っての休暇中です。といっても、これまでと違い、実家には私一人です。一人ぐらししていた母は、昨年、大腿骨頚部骨折の後、実家で一人暮らしは不可能ということで、妹の嫁ぎ先に近いところでの施設生活。コロナのため、施設の面会も制限がかかっているので、会いにいくこともできず、結局、実家で私一人、手持ち無沙汰の日々を送っております。

用事のない日は、朝、起きて、朝ごはんを食べて、洗濯、掃除をしてコーヒーを飲んだら、もうすることがありません。TVは30分と見ていられませんので、メールとTwitterでニュースを確認しても30分。仕方がないので、図書館まで行って、読書をしたり昼寝をしたりして過ごし、ブラブラしながら買い物をしながら、帰って晩御飯を食べて、また本を読んだりして、1日が終わります。中学生の頃もこんな風に時間を過ごしていたなあ、と思い出しました。当時はネットもないですから、時間を潰すのは読書。と言っても無限に本がある訳ではないので、同じ本を何度も読み返していたのを思い出しました。
当時と今との違いは何か、と考えると、それは「将来の可能性への希望」でしょう。しかしながら、当時も今も、時間を持て余してやることは「気晴らし」の「時間潰し」であることには違いありません。
例えてみれば、デートの約束の1時間前に着いてしまった時のような「希望のある時間潰し」とデートが終わって、帰りに乗る電車が1時間後だった時のような「時間潰し」の差でしょうか。そして、それでは楽しいデートの時間は何だったのか、と思うと、やっぱりそれも「暇つぶしの気晴らし」に過ぎないのでした。今回の休暇が終わった後、今後、死ぬまでの時間をどのように過ごすべきかなどとぼんやり考えていました。そういうことを考えながら暇を潰すのもアリだなあとも思います。

結局、どんなに有意義に時間を過ごしたと思ってもそれはやっぱり暇つぶし、時間の無駄と思うような過ごし方をしても、やっぱり暇つぶし。一歩、離れて眺めれば、人生とは暇つぶし以外の何ものでもないのだなあ、と新ためてスッキリした気分になりました。ならば、どんな人生でも生きているだけで尊いのです。思うがままに自由に暇を潰せばいいのだ、と思い直して、今晩は冷奴をつまみに酎ハイでも飲んでちょっと酔っ払うことにしました。
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お盆

2022-08-16 | Weblog
今年のお盆、法事や親戚の付き合いで忙しくしていました。この1週間のことを思い出して、キシダの内閣改造のことと、オリビアニュートンジョンのことを書いていたら、なぜか、全部消えてしまいました。

再び書く気がなくなったので、キシダ改造内閣に関しては、「呆れ果てるほど愚か」あるいは、「誰も真意を読み取れないほど深い」のどちらかであろうという感想にとどめておきます。今後、どうなるのか読めませんけど、三年の無風があるので、いつものように適当に誤魔化せば、国民は統一教会のことも忘れるだろうし、消費税増税を断行して国民を貧困層と支配階級に完全分断して抑えつければ、独裁政治で思うがままだとでもタカを括っているのかもしれませんが、足元を掬われて次の選挙まで保たないような気もします。いずれにせよ、驕れるものは久しからず、自民党が壊滅する日はそう遠くないと思います。これほど無能で邪悪で不誠実な党が与党であることがそもそもあってはならないことですから。

オリビアニュートンジョン、乳がんで死去のこと。昔の歌手はTVやラジオの歌番組が娯楽だった子供時代を懐かしく思い出せます。綺麗な外国のお姉さんが美しい声で歌う「そよ風の誘惑 (Have you never been mellow)」は子供心に衝撃的でした。その後、GREASEの大ヒット。さらにエアロビクスブームの時のPhysical、とイメージチェンジごとに大ヒットを飛ばしたのを驚い見ていたのを思い出します。ま、それ以上には、何の思い入れもないのですけど、お盆ですので、故人を偲んで。

HAVE YOU NEVER BEEN MELLOW

YOU'RE THE ONE I WANT (GREASE)

PHYSICAL
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アダムとイブ

2022-08-09 | Weblog
毎日、毎日でてくる統一教会と自民党の不純交友関係に関するネタ、すごいですな。
貧しかったころの韓国で資金集めに苦労していた統一教会が金ズルとして日本を始め欧米諸国に進出したわけですけど、政治に取り入っていく入り口が「反共」であったという話。教祖は北朝鮮で生まれ、南北分割によって故郷を失い、「反共」となったという話ですけど、その辺りの理屈が私はちょっと理解できません。結局は、戦勝国だったアメリカとソ連が朝鮮を二つに分けることになった結果ですし、そもそもその原因を作ったのは大陸を侵略した日本でしょう。とすると日本や米ソへの復讐は理解できますけど、共産主義に反感を持つ理屈はなんでしょう。共産主義というよりスターリンの独裁政権に対する反感でしょうか?

いずれにしても、その真の目的を隠して文鮮明は「反共」の名の下に、アメリカによる日本の間接支配を任されていた安倍の祖父、岸信介に接近し、以来、密かに、しかし深く自民党に巣食うこととなります。

ふと、ベルリンの壁崩壊の記念として描かれた、ソ連のブレジネフとドイツのホーネッカーが、熱烈なフラタニティー キスを交わす壁画を思い出しました。これ、文鮮明と岸信介におきかえれば、とっても気持ち悪くなります。




しかし、自民党がここまでカルトと癒着していたというのは驚きですが、次から次によくもまあ出てくるものです。政権に首根っこを抑えられてきたNHKでさえ、一月遅れの及び腰ながら、ようやく自民党と統一教会の黒い関係を報道し出しました。安倍が殺害されたがゆえに、新たに明るみに出た自民党の深刻な腐敗、しかも安倍自身がこのカルト団体の組織票を割り振って党内の権力を維持していたと言う話。とことん腐りきっていた安倍と自民党。なのに、この国賊を国民の半数の反対を押し切って違法に国葬だそうで、自ら墓穴を掘るキシダ。まだ自民の本性を理解できず自民を保守国民政党だとでも思って支持している国民とキシダのバカ比べとなってきました。

統一教会問題が大きく騒がれたのは20年以上も前、てっきり弱体化したから報道されなくなったのかと思えば、実は政権の中枢に入り込んで共生することで、組織票の見返りとして自民党の庇護のもと、変わらず壺商法で日本人被害者を出し続けてきたという驚きの内容。報道されなくなった理由は「政治(自民党)の圧力」。もう自民党は解党するしかないレベルです。この統一教会ネタは当分、止まらないし、これで国民が目が覚めないようなら、この国が滅ぶのも自業自得と言えるでしょう。

ところで、その統一教会ですが、韓国はアダムの国で日本はアダムに仕えるイヴの国だという教義をもっているらしいです。ま、それで日本人から壺商法でカネを巻き上げて貢がせているのを正当化しています。一方で、「かつて韓国を植民地にした日本は韓国の兄貴分で対等ではなく上位。韓国を指導しないといけない」と目玉が飛び出るような低脳発言をしたのが、やっぱり安倍派の自民党議員でかつて衆議院副議長もやったという衛藤征士郎。自民党議員のクソっぷりには驚きませんけど、こんな人間が議員とは、もう恥ずかしくて死にそうになりますな。バカとかクソとかいう言葉を使うのは気が引けますけど、他に適切な言葉が見当たりません。

ところで、話題変わって、どうでもいい話。一日十分のフランス語学習、まだ何とか続いていますが、フランス語特有の前置詞の変化というのは厄介なものの一つです。例えば、「J'habite en France(私はフランスに住んでいます)」と言う文でのフランスの前置詞は「en」で、イタリアもドイツもロシアでも前置詞は「en」ですが、日本は「J'habite au Japon」で前置詞は「au」となります。カナダやポルトガルも「au」しかし、韓国は「en Corée du Sud」で「en」です。
このように前置詞が国によって変わるのは国名の性別が異なるからで、「en」は国名が女性名詞の場合に使い、「au」は国名が男性名詞の時に使われます。とすると、「日本」は男性名詞、「韓国」は女性名詞ということで、どっちかというと日本がアダムで韓国がイブの方が統一性があって良いのではないか、とふと思ったのでした。ちなみに国名が複数形である国、アメリカ合衆国とかフィリピンとか、の前置詞は「aux」となります。

明日から休暇をとるので、更新は不定期になるかも知れません。

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右と左

2022-08-05 | Weblog
参院選の前、スタンドアップ コメディアンの清水宏さんが「れいわ」の応援演説の時に、今、国は、保守とリベラル、右と左に分断されているのではなく、上と下に分断されていて、多くの国民は右翼ならぬ下翼なのだ、という話をしていました。

まさに、その通りだなと思います。金持ちか金を持っていないか、搾取する側かされる側か、支配者側か、支配者に使われる側か、そうした上下の関係で分けられています。そして国民の大多数が下翼という一億総下流時代ですけど、少数の上翼、支配者層、金持ち層は、政治家と結託し、メディアをコントロールして、圧倒的多数である下翼同士での対立を作り出し、彼らの団結を阻む「分断統治」の戦略をとっています。下翼同士の中で、小金持ちと貧乏人へとさらに階層分けして対立させ、下には下があると思わせて上に対する不満を反らせているようです。下翼の下層に属する人々は救われません。彼ら自身が社会のこの構造によって、下層に釘付けにされていることを感じているでしょう。そんな現実に希望が持てない彼らが、惹かれるのが「日本スゴイ」妄想、その延長としての右翼的思想、であって、結果として恵まれない人々がネトウヨ化していくのではないかと想像します。こう想像するのは、今回の安倍殺害犯、山上容疑者の供述や手紙やツイートからです。

かつて大勢の日本人が「普通」と考えていた人生、大学生活を楽しみ、卒後は就職し、結婚して家庭を作り、ローンで家を建て、週末は飲み屋で上司の愚痴を言って憂さを晴らし、定年まで働いてから、退職金と年金で老後を過ごし、余った年金で孫におもちゃを買ってやる、というような生活、このうちの何一つも叶わぬまま、孤独に年を重ねてアパートの一室で孤独死に至るような人々が増えているようです。30年の政府の誤った経済政策のために、人々は前世紀の後半の頃には普通と考えられたような人生を送ることさえ難しいという国になってしまいました。そして、恵まれない人々の人生は、山上容疑者のように、自分では如何ともし難い出自や環境によって人生の早い段階で決まってしまい、そこから自力で挽回するのは極めて難しい状況にあります。

現在、山上容疑者に減刑の嘆願署名が数多く集まっているようですが、これは大勢の人が彼の境遇に同情し、彼の苦しみを共有してたことに加え、彼と全く真逆の立場にあった被害者に対する怒りの表れではないでしょうか。恵まれた環境に生まれたにも関わらず、その地位を利用して我欲と党利のために、数えきれぬ犯罪的行為を重ね、国家の根幹たる原則を破壊し、統治機構を腐敗させ、ここまで国力を衰退させた男と、その男が票のために協力していた反社会カルト宗教団体に人生を破壊されて下層に追いやられた加害者という関係です。法治国家ですから、どんな理由があっても無法な殺人は許されないことですが、その殺人に至った動機を理解するのは困難ではありません。

脱線しましたが、その恵まれない人々、下翼の中の下層にいる人々に対して、国は何もしません。そういう人々がいる方が国は都合が良いのでしょう。その救いのない生活の中で彼らがすがる希望の一つが、「日本スゴイ」妄想ではないかと思います。そんな人々が、やがて日本版中華思想や右翼思想に馴染み、ネットでヘイト発言することで憂さ晴らしをする「ネトウヨ」と呼ばれる人々へとなっていくのではないでしょうか。
勝手な想像で言わせてもらうと、ネトウヨという人々は、保守系政党の右翼寄りの人々、安倍のような人間が好きなのでしょう。事実、山上容疑者は、統一教会との繋がりを知るまで、自身をネトウヨと自称し、安倍政権を支持していたそうですから。

ところが、安倍は保守でもなければ、真の右翼ではありませんでした。極論すれば、国や国民のことなど何一つ考えていない、金と権力のためで右翼で保守のフリをしていただけの利己的な詐欺師に過ぎず、ネトウヨの皆さんやその他の政治に興味のない人々は、単にこの男や自民党に騙されて利用されていただけだったというのが、正しい解釈でしょう。事実、右翼団体、一水会は、今回の統一教会と自民党の癒着を厳しく批判しています。三島由紀夫は自決前、2.26事件の首謀者の霊がついていると言われたそうですけど、ひょっとしたら山上容疑者には三島の霊がついていたのかもしれません。

また脱線してしまいました。本当は、保守とリベラル、右翼と左翼、Pro-lifeとPro-choiceというような形で政治的、思想的スタンスを色分けすること自体が歪みの元なのではないか、という話をしたかったのです。

私は自分では「保守」的だと思っており、政治は保守的に進めるべきだと考えています。憲法も法律も、まず遵守してみて、都合の悪いことがあれば、必要に応じてボトムアップで変えていくべきだと思っております。その点で言えば、三島由紀夫や安倍は戦後憲法はアメリカが日本に押しつけたもので、変えなければならない、とラジカルに国の精神から変えていこうと主張していたようで、こうした右翼的思想は保守ではなく、むしろ「革新」と言えるのではないかと思います。

私は、リベラルかと言われたら、違うと思いますが、リベラルの人々が持つ価値観の多くは共有しているものが多いと思います。私は、夫婦別姓も同性婚も賛成です。それは憲法に基本的人権の尊重が謳ってあるからです。保守であり国根幹である憲法を守ることを第一の原則におくならば、夫婦別姓も同性婚も認められなければならない、と私は思います。夫婦別姓であるとか同性婚を認めないということは「違憲」であると考えています。

右翼の正確な定義を私は知りませんけど、日本という国が優れた特別な国であるとの信仰をもとに全体主義、国家主義を主張する人々が右翼だとすると、私は右翼ではありません。私は保守的ですから憲法にある基本的人権は、尊重されなければならず、それを国家が侵してはならないと思います。左翼というのもどう定義されるか知りませんが、一般に「より平等な社会を目指すための社会変革を支持する層」と考えられているようですから、その点からすると、私は左寄りの保守でしょうか。

そもそも、このような分類に意味はないのでしょうけど、分断を煽ったりするには都合が良いのでしょう。一般に保守政党と言われていた自民党ですけど、私のこうした考察からすると、小泉以来の自民党は「保守」政党ではないし、三島同様に改憲を望む安倍自民党は、右翼でもない。三島の改憲はアメリカ植民地からの自立を願ったものでしたが、安倍自民のそれは単に彼らの権力の増大のためだけのみみっちいものでした。事実、安倍はアメリカ大統領には下僕のようにゴマを擦る対米自立どころか、植民地の番頭だったわけですし。

今の自民党は自党の利益のためには何でもする「カルト政党」という言うのがより正しいと思います。右翼的思想を利用するのも反社会集団と堂々と手を組むのも、政治を単なる金と権力を得る道具としているだけで、彼らは「政治家」ですらないと言えるでしょう。反社会的カルト集団は、統一教会も自民党も権力に近寄らせてはなりません。
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シシュフォスの壺

2022-08-02 | Weblog
論文のリバイスの作業しており、まもなく投稿できそうです。
投稿したのはアメリカヒト遺伝学学会機関紙が最近作った新雑誌で、インパクトファクターはまだありません。この雑誌が将来的にこの分野でどのような位置付けになるか不明ですが、(われわれの論文のように)親雑誌にリジェクトされた論文の受け皿となるならば、中堅雑誌と呼ばれるぐらいには育つのではないかと思います。私にとっては、こうした論文をチマチマ書くのもこれが最後かもしれないので楽しみながらやってます。

この論文は、臨床、病理、臨床遺伝学、実験遺伝学と3カ国、4グループの共同作業で、連携がなかなか難しく苦労しました。臨床データにも遺伝学データにも実験データにもそれぞれに難があるので、盗塁と送りバントと犠牲フライで一点を目指す戦略を取らざるを得ず、欠点をデータの厚みでカバーするというスカッとしない論文です。内容的には小さな論文なのに、この出版戦略のおかげで、Supplemental documentは30ページ近くになってしまいました。例えれば、美味しくないのに見た目と量だけはあるパスタをひたすら喰わせて、レビューアーの闘志を奪い、時間切れ優勢で判定勝ちに持ち込むという感じですか。

料理でいえば素材の味を最大限に引き出し、一口で唸らせる一品、テニスで言えばライン上に突き刺さるダウン ザ ラインのパッシング、野球で言えば、ライナーホームラン、研究を志したときはそんな論文を書いてみたい、と思っていましたが、結局は、無限パスタ、ロブの応酬、送りバントで終わりそうです。

ま、それでも手間と時間をかけた研究の成果を論文という作品にまとめるのは楽しい作業です。少しずつ進歩しているのを実感できるというのは精神衛生上いいです。

人間、精神を最もやられるのは意味のない作業を強いられることらしいです。共同研究で協力した別のグループが、非常に面白いデータを出して、一年ほど前、N紙に論文を投稿しました。その頃、レビューアに山のような理不尽な実験を要求されたと聞いて以来、進捗を知りませんでしたが、つい最近、筆頭の人から、二度のリバイスにも拘わらず、結局リジェクトされて、振り出しに戻ったと聞きました。この一年ほどの間に、おそらく数々の実験を行い、原稿を書き直ししたはずですが、あいにく、こうした苦労は報われることなく、シシュフォスの岩のように、また麓まで戻ってしまったのです。

良い作品にしようと努力することには意味があると思いますけど、本来、面白い研究の成果を広く、人に知ってもらいたいと思って書いた論文を、一年に渡る努力の末にリジェクトされるというのは精神にくるでしょう。結局、この面白い知見はいまだに人々に広く知られることもなく、よってこの分野の進歩にまだ寄与することもないという状況にあります。

ところで、サイエンスというものが急激に発展したのはこの100年ほどのことですけど、何事も始めがあれば終わりがあります。私の分野はそもそも細胞外基質蛋白を研究していたグループの人々を中心に始まり、細胞生物、シグナル伝達、関連する疾患を研究する臨床や遺伝学の人々が集まって、80年代ぐらいから発展しはじめて、多分2005年ぐらいにピークを迎えました。その後、2011年に関連する主要疾患に広く使われてきた薬のパテントが切れて以降、急激に分野の縮小が始まりました。こうなると、いくら学問的に面白い疑問がいろいろ残っていたとしても、資金の獲得もビジネスへの展開も困難になる一方で、人々は去っていき、人が去ればさらに研究レベルも落ちていくという負のスパイラルに入っていきました。極端にいえば、私の研究分野は「オワコン」というやつです。一部の人は今後も残ってそれなりに活動してはいくのでしょうが、最盛期を築いた人々はすでに多くが実質的に引退し、若い世代は育たずで、分野がかつてのような賑わいを取り戻すのは難しいと思います。私はそもそもこの分野の中でもマイナーなテーマでやってきたので、この分野に対する使命感も愛着も特になく、年々厳しくなる規制や資金繰りもあって、楽しく思うことよりも虚しく思うことが増え、潮時だとつくづく感じたので、アカデミア研究から足を洗い、違ったことをすることにしました。長年、家族に迷惑かけてまでやってきて、それだけの価値がある仕事だと数年前までは思っていましたが、今は「洗脳から解けた統一学会信徒のような心境」といえばちょっと言い過ぎですけど、ま、壺の価値などあって無いようなものだ、ということをあらためて実感しております。今後は、壺は眺めるだけにして、何か別のことを学んで新しい経験し、死ぬ時まで楽しく日々を過ごせたらよいなあと思っております。
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