百醜千拙草

何とかやっています

歯医者とドラマと政府

2023-05-30 | Weblog
引っ越しに伴って新しい歯医者を探す必要があり、評判の良さそうなところに予約をとって行ってきました。幸い、三週間待ちで予約が取れました。
当日は、前日に打ったModernaのワクチンのおかげで体調は最悪でした。これまではずっとファイザーのワクチンでほとんど副反応はなかったのですが。ワクチンは同じメーカーでもバッチ差がかなりあるらしいですし、私も一年ぶりで原因はよくわかりませんが、フラフラしながら、歯科に到着。

待合室に入ると、棚に同じ作者のハードカバーの小説がずらりと並んでいるのが目に入りました。作家の苗字がこの歯科医院と同じだったので、調べたら、どうも院長のお姉さんは小説家だったようです。案内された歯科椅子に座ると目の前の壁には、TVドラマのポスターが飾られていて、その小説の一つが最近ドラマ化されたようでした。

このドラマになった小説は、昔、神戸に存在した総合商社の話で、この商店については、かつて城山三郎が50年前に書いた小説があって、私も文庫で読んだのを覚えていました。城山三郎の小説はこの商社の興亡をその転落のきっかけとなった焼き討ち事件を一つの収束点にして、事実上の経営責任者であった番頭を中心に据えて書いたものでしたが、思うに、この女流作家は、この話を城山作品では脇役であった女主人の視点から描いてみようと思ったのではないでしょうか。

栄枯必衰が常の世の中で、上を極めたとしても一瞬のことです。かつて世界を制したこの総合商社の華々しい発展とその後の破滅はその事実を突きつけます。それでも人は落ちる時が来ることを知りつつ上を目指し、死ぬと分かっていて生きるもので、それがドラマなのでしょう。

この歯科医院では、歯科衛生士の人も先生も丁寧で、なるほど人気になるのも理解できると思いました。前の歯科ではクリーニングもスケーラーでガリガリやるので、いつも血まみれになっていましたが、ここでは手作業でカリカリと快適でした。8ヶ月ぶりのクリーニングで、歯石が出来始めたところもあってブラッシングを指導されました。詰め物の不調も見つかり、しばらく治療に通うことになりそうですが、よい歯医者を見つけることができてよかったです。

受付の横には「マイナンバーカードで初診料が安くなります」との表示がありました。マイナンバーカード、すでに種々様々なトラブルが続き、実害も出ています。システム設計の欠陥に加えて、担当大臣からして責任とか信頼という言葉から最も遠い男、日本政府がこの制度を安全に運用できる能力がないのは最初から懸念されていました。さすが無能さでは期待を裏切らない日本政府。

国民の個人情報をシステムに集約させるという情報管理上のリスクが大き過ぎて先進国ではどの国もやっていないようなことを情報管理の杜撰さでは定評のある日本政府がやり始めたわけで、システムの廃止に至るような取り返しのつかない事態に陥るのは時間の問題でしょう。そして、そうなった時に政府がどういう対応をするのかは火を見るようにあきらかです。古くはインパール作戦、関東軍の潰走、近年では、消えた年金問題や福島原発事故被害者への対応に見られるように、政府の無責任で浅慮な政策によって生み出された被害者の立場は弱く、結局、泣き寝入りさせられることになります。今の日本、公助は期待できず、国民自身の身は自分で守らねばならない状況にあって、しかも、その最大の敵が政府というのだから、ディストピアはすでにこの国に具現化していると言えるでしょう。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

没落の理由

2023-05-23 | Weblog
長年所属していた学会の秋の大会の演題審査を頼まれました。私はもうこの学会に行くつもりはないですけど、最近の研究の動向にも多少興味があったので、引き受けました。20題ほどの抄録を評価して点数をつけるのですが、そのうちで面白いと思ったのは4題ほど。あとは、すでにわかっていることを別の方法でやり直したとか、とりあえずシングルセル解析やってみた、みたいなYoutuber的なノリのやつとか、結論がパッとしないので厚化粧になったら重みで崩れてしまったのとか、そんな感じです。「成果」だけで評価すれば、つまり8割の研究は(現時点では)大きな意義は明らかでないものです。予想された通りで、いつも変わらぬ風景に安心半分、落胆半分。

この学会は五、六十年前の黎明期に数人の同好の志が集まって始めた研究会を中心に発展し、一時は5000人を超える学会参加者を数えたこともあります。その間、学会の規模は拡大し、そして縮小してきましたが、面白い演題とそうでない演題の比率は変わりません。ですので、面白い演題の絶対数は、学会の規模が大きくなると増え、規模が小さくなると減ります。

投資において、2割の投資対象が利益の8割を生み出しているという観察から導き出された80-20の法則は、投資以外のいろいろな状況にも適用可能なユニバーサルな法則のようで、研究業界でも例外なく当てはまるように思います。面白い研究は2割、それが全体の8割のインパクトをもっているようです。

つまりそのハイパフォーマンスな2割の集団は、成果だけで判断すれば、残りの8割の平均の16倍の効率を持っているという計算になります。これだけ見れば、使えるリソースをこの2割だけに集中投下すれば現在の4倍の効率で成果が得られるはずだ、と単純に推論する人もいるでしょう。もちろん、そうしたナイーブな考えに基づくやり方は、通常は長期的には失敗することは繰り返し示されており、ゆえに分散投資が勧められております。

研究という活動も一種の投資であります。うまくいくかどうかはやってみないとわからないし、リターンを予測することもできません。研究成果の価値の評価さえ直ちにできない類のものもあります。そして、そもそも研究の優れた成果とは、いろいろな分野に分散投資した結果として、2割の確率で出てくるという話にすぎません。その2割の成果が現れるためには、その他の多くの一見ぱっとしないような多彩な研究が必要であることもしばしばです。現在パッとしなくても将来に大化けする研究もでてきますし、地道な意味のよくわからないような研究データが大発見をもたらす鍵になることもあります。捨て石があるからこそ急所に石を打つことができ、地道な積み重ねがあるからこそ、それを踏み台として高いレベルに手が届くというものです。

この分散投資をした「結果」としての2割を、成果の単独の原因と考えて、残りの8割をあたかもムダであるかのように扱ってきたのが日本政府の大学、研究政策でしょう。残りの8割は山で言えば裾野であり、氷山で言えば海面下の部分です。そこを削れば山は崩壊し、表面に出ている氷山部分は小さくなります。その8割に割くリソースを削って、結果として成功した2割に注ぎ込んで起こると予想されることは自明でしょう。加えて、80-20の法則はその2割の集団にも作用し、そのハイパフォーマー集団の8割はmediocre集団になっていくと予想されます。

さて、日本の教育研究政策をこの観点からみていますと、違和感を感じざるをえません。東大出で計算が早く優秀なはずの文科省官僚が、なぜこのように、研究や学問の裾野を狭め、人材育成を妨害し、多大な国益の損失につながるような政策を取るのか、私はずっと不思議に思っていました。東大官僚がバカになったというわけではないでしょう。また、日本がどんどん貧乏になって没落していき、国民生活のレベルが下がり少子化が進んでいるときに、単純で有効な解決策があるのにも関わらず自民党政権は、それをやらずに、逆に悪くするような政策を次々に打ち出しては、この30年間、ますます状況を悪化させてきました。いくら自民党議員だといっても、小学生でも理解できる理屈が理解できないはずはありません。

こう考えると、利権でしか動かない自民党政権を見ていて、疑念から確信に変わったことは、この政権は単に無能なのではなく、不誠実で邪悪でさえあるということです。つまり、自民党政権はこの「国民いじめ」を意図してやっているということです。増税し、福祉を削り、国民から教育機会と財力を奪い、非正規労働を増やし、農村を潰して、都会に持たざる人間を集めて管理する「囲い込み」を行う大きな理由は、安い労働力でしょう。組織票を持つ資本家の手先となって一般国民を貧乏にし、安価な労働力に変えることによって自民党は自らの権力を維持しようとしている。加えて、組織票と引き換えに、日本国民を朝鮮民族の奴隷とすることを教義とする反日カルト宗教と手を結び、多くの日本人被害者を出してきました。つまり、この党は、日本に優れた人材を育てて住みやすい豊かな社会を実現することを望んでいないばかりか、日本をもっと貧しくして切羽詰まった人間を増やすことで、国全体を安い賃金でよく働く労働者のタコ部屋にしたいと望んでいるのです。そう解釈すると、すべてが腑に落ちます。これは多分、当たらずとも遠からずでしょう。自民党が、先進国では義務化を廃止した国民総背番号制のマイナンバーをわざわざ導入して、個人情報を一括管理しようとし、改憲を通じて、独裁政権の安定化と国民管理の強化を目論むのは、「国民いじめ」の結果として、将来起こりうる市民革命や一揆のような運動を予測しており、それを抑え込むためであろうと想像できます。

数々の物的証拠が示す通り、自民党議員が国民の代表だというのは建前としても正しくありません。彼らは利権団体の代弁者、宗主国の植民地管理者、韓国カルト宗教の手先であり、端的に言えば国民の敵であると認識されるべきであります。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

形式

2023-05-16 | Weblog
週末は法事でした。この一年に複数の身内が相次いで亡くなり、通夜、葬儀、四十九日、初盆、一周忌とこの一年以内に何度もほぼ同じメンバーで会食することになりました。残された人々が故人を偲び、思い出を分かちあう機会として、法事というのは悪くない制度だと思います。しかし、単なる儀式となってしまった日本ならではの葬式仏教そのものは仏教の実践とは無縁のもので、そこには違和感を感じずにはおれません。

お坊さんがほとんど意味不明のお経を唱えるのを聞いていると、いかに目を開けたまま眠ることができるか、という神経生理学上の難題に無意識に意識が集中されるのが意識されるという一種のトランス状態に入っている自分を客観的に観察している自分という存在が意識されるのでした。これはいわゆるヴィパサナー瞑想に近いのではないかと思いつつ、南無阿弥陀仏を聞きながら壇場の飾り物や蝋燭の火を見て見ました。

法事の後、午後の用事を済ませてから、義理の兄と居酒屋で晩飯。居酒屋のあとは、その近所の飲み屋に二十年ぶりに立ち寄りました。カウンターが10席ほどの狭い店で、バーテンのマスターは無口、まっすぐ家に帰りたくない中年親父が一人で立ち寄って、黙ってウイスキーをショットで飲んで帰っていくというタイプの店で、昨日は他に客もいたのに二人でダラダラと喋ってしまい雰囲気をぶち壊したので、酔いが醒めてからちょっと後悔したのでした。話題はいつもの話。今後、子育てが終わり中年が過ぎ老年期になったらどう人生を過ごすかという哲学的かつ現実的難題。

この店は、カウンターに置かれた樽に入っている特別にブレンドしたウイスキーが名物ですけど、数十年を経ても同じ位置に同じ樽がありました。ついでにその横にあったダイヤル式の黒電話も昔のまま健在でした。多分50年以上前に製造されたものでしょうがちゃんと機能します。

そのまろやかなウイスキーを完全に透明な氷と一緒にロックで一杯。昔は松の実がつまみでしたが、今回はナッツとカマンベール風のソフトチーズ。二杯目はマティーニ。三杯目は、目の前にラムのボトルがあったので、ラムベースのカクテルをと注文したらキュラソーとレモンジュースで作るXYZというのが定番ということで、それ。無駄のない動きで作って注いでくれるマティーニをこちらも帽子とスーツが似合う渋い中年男性になったつもりで啜ります。この瞬間、ホストと客の間に無言のコミュニケーションが行われるわけですが、それは「形式」に依存しているということがふと実感されたのでした。バーでマティーニを飲むということは、一連の形式を踏まえた儀式であり、ゆえに人は自宅の台所でコップにジンを注いで呷るかわりにわざわざバーに足を運ぶのでしょう。

すなわち、ショートグラスは液体を入れる部分だけをあらかじめ氷水で十分に冷やされる必要があり、それは冷蔵庫に入れておいたグラスを取り出して使うというのではダメなのです。マティーニはステアで正確に合わせたものを客の目の前で注がれる必要があり、ステアグラスの中の全量の液体を注ぎ切った時に水面がグラスの縁から5ミリ以内に収まらなければなりません。グラスに入れられるものは適度に塩抜きしたオリーブでなければならず、最後に控えめな「の」の字の腕の運動でオレンジ皮かレモン皮からの雫の霧が客の目の前でグラスの上に回しかけられなければなりません。

これは、茶席の茶と同じですし、法事でお坊さんが鐘を鳴らし香を焚いてお経を唱え、出席者が焼香するのと相似であります。重要なのは形式であり、それが人間同士の関係の安定性を確保しているのだとあらためて感じたのでした。お坊さんが袈裟を着て剃髪するのも、医者が白衣に聴診器をぶら下げるのも、実験をしなくなっても研究者がピペットマンを握って写真を撮りたがるのも、そういうことなのでしょう。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ゴールデンウィークが終わって

2023-05-09 | Weblog
休日出勤のせいで、いつもよりも忙しかったゴールデンウィークが知らぬ間に終わっていました。しばらく祝日はなさそうなのが残念ですが、ゴールデンウィークだからといって何か特別なことをする計画もなかったので、ヒマを持て余して昼間からビール飲んでるよりはよかったかなとは思います。

5月3日は憲法記念日、憲法の精神に立ちかえり、国のコア バリューを再確認する日のはずが、権力側の連中が手前に都合の良いように憲法を改悪しようと、平和憲法に言いがかりをつけて戦争の脅威を煽り、それをメディアが垂れ流す。自民党、公明党、国民民主に維新、所謂、反社会集団、その手先のNHK、そして政府広報の金欲しさに政権与党にゴマをするTVメディアに新聞社。厚かましすぎる。日本は立憲君主制の国、まずは政権与党の人間が率先して憲法遵守を宣言するのが本来のあるべき姿です。

立憲君主制と言えば、イギリス。五月六日には戴冠式、先代のエリザベス女王の70年に渡る王位の後、ようやく75歳にしてキングに昇格。どの分野でも高齢化は世界のトレンドのようです。遠からず代替わりになるのでしょうが、次にキングとなるウィリアム王子は、新約聖書の最後にあるヨハネの黙示録の中で預言されている7つ首の獣の「666」という数字で示される人間、アンチ キリストであると解釈されているそうで、ハルマゲドンも近いのかも知れません。

ゴールデンウィーク中、普段の休みと違うことをしたのは、トイレと洗面所の壁を漆喰風に塗ったことです。壁をペンキで塗ったことは何度かありますけど、漆喰風塗料はペンキの5倍以上は大変でした。仕上がりもちょっと不満、おまけに無理な姿勢での作業での筋肉痛と腰痛で、もう2度とDIYはやるまいと心に誓いました。ちなみに、今回で学んだうまくやるコツは、計画と下準備を綿密にやることです。下地の処理とマスキングを丁寧、正確にやること、道具を揃えてその使い方に習熟しておくこと、でしょうか。(当たり前のことですが)

これは実験でも同じで、まず、全てのステップを思考上で細部までシミュレーションしてみて、各工程で準備を確認し、注意点を洗い出し、できるならその予備実験を行ってから、本実験に臨むのが、結局は近道です。そうした面倒な準備や細かい作業をするとき、思い出すようにしているいくつかの言葉があります。「安全第一」、「急がば回れ」、それから、昔、Robert Fulghumのエッセイで学んだ英語表現、”Anything not worth doing is not worth doing well"。これは"Anything worth doing is worth doing well"をもじったもので、これらの言葉は、研究者時代の私の仕事上の原則でした。やる価値のあることはベストを尽くしてやる価値があります。また逆に、やる価値がないことには時間と労力を使わない。この趣意は、まず「やる価値があるかどうか」を見定めよ、ということだと思います。また、初めてやることに関しては「明らかに悪い結果が予想されない限りは、どんなことでも一回はやってみる価値がある」と私は考えるようにしております。
結局、漆喰塗りは初めてにも関わらず、これらの原則を軽んじたことが原因で、満足のいかない結果となってしまいました。でも初めての経験で学んだこともあったので、やってみる価値はあったと思います。

それ以外は特記すべき出来事もない連休でした。多少有意義だったのは、教育系Youtubeでフランス語を少し、それから、左心耳の存在意義についての蘊蓄を少し学んだこと。左心耳は3つぐらいの生理的役割があるようですけど、ないと困るというものではなさそうで、大人ではむしろ無いほうが病気の予防には良さそうです。発生学的な意義があるのかも知れません。

そして、ゴールデンウイーク最後の日曜日は雨で昼間から飲んでダラダラしました。アメリカの大学では、卒業式が始まる季節。日本は「卒業式」ですけど、アメリカでは「開始式」。過去を振り返れば長い学生生活の終わりだが、今後を考えれば新しい社会的役割の始まりということで、視点を置く位置が違うのですね。若い時は未来を見ており、年を取ると昔を懐かしむ。私の人生、その間に色々あったはずですけど、今だに大学を出た頃のことを昨日のように思い出します。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今日の聖書

2023-05-02 | Weblog
拘束時間はあるものの時間的に比較的余裕のある職場に移って二ヶ月、暇な時間は調べ物をしたりツイッターを覗いたりして過ごしています。
前の職場では、コロナ前は昼間に抜け出してジムで三十分ほど走っていましたが、コロナ後行かなくなり、その後病気もしたので、体を動かす習慣はなくなってしまいました。また水泳でも始めようと思っています。体同様、年々、悪くなる頭に対しても多少は負荷を加えねばならないと思って、2年半ぐらい前からの一日10分のフランス語と週末のピアノ練習をしています。しかし、いずれもマンネリ化してしまい、始めた頃の楽しさはすっかりなくなってしまいました。何かを成し遂げるのは「やる気」ではなく続ける「習慣」だともいいますから、歯磨きするのと同じように、一応、坦々と続けています。フランス語の進歩は初級のまま、後退していないだけましというレベル。ピアノもご同様。それで、何かもう少し楽しい毎日のプロジェクトをと思って思いついたのが、実家にあった聖書を読んでみることでした。妹が通っていたキリスト教系の学校で買わされて、卒業後、実家に放置されていたものようで、日本聖書協会が発行した1955年度改訳版です。

実は、聖書を読もうと思ったことは若いころにも一度あって、その時は英語の練習も兼ねて英語版を買いました。思えば、それが失敗でした。日本語で読んでもしばしば理解困難なのに"Thou shalt not steal" みたいな英語で、加えて、当時はその他にもいろいろ忙しかったので、数ページ読んだあと積読になって、そのうち本そのものもどこかに行ってしまいました。

しかし、この「世界的ロングベストセラー 」を読まずに一生を終えるのはマズいのではないかという気持ちはずっとありましたし、この中東での物語が、なぜこれほどまでにヨーロッパの文化に入り込んで、音楽や文学をはじめとして数々の芸術作品のモチーフとなったのか、そして、この物語が繰り返し繰り返し語られるようになった後、2000年たってもその代わりとなるような新しい物語が生み出されないのはなぜか、それを知りたいとも感じました。

キリスト教がヨーロッパに広まったことは、近代に生きるわれわれのライフスタイルに大きな影響を及ぼしています。ヨーロッパに代わって世界の中心的役割を担うようになったアメリカ合衆国もキリスト教国家として始まりました。欧米の文化が世界中に広がるにつれて、東洋の我が国でも、キリスト教由来の文化が定着し、クリスマスは国民的行事となり、教会で結婚式をするのもスタンダードになりました。この調子だとそのうち復活祭も始まるでしょう。

キリスト教がヨーロッパの精神に組み込まれたことは、芸術や文化の面でも数々の素晴らしいものを生み出すことになりました。おかげで、我々はヨーロッパの美しく圧倒されるような大聖堂など宗教的建造物の数々や絵画や彫刻やバッハのミサ曲やクリスマス オラトリオを楽しむことができます。もし、キリスト教ではなくワビとかサビとかヨーロッパで流行っていたなら、欧米が世界の覇権を取ることはなかったでしょうし、キルケゴールもニーチェも生まれることなく、おそらく「科学」という学問も生まれていなかったであろうと想像されます。近代の世界を作り出したヨーロッパとイスラム世界の精神の原点が聖書の中にあると思えば、やはり聖書は読んでおくべきだろうと思いました。

この聖書は一ページが二段で、旧約が1300ページほど、新約が400ページほどなので、一日に一ページ読めば5年ぐらいで読み終えることになります。それぐらいのペースで読むことにしました。

現在、旧約の最初の創世記の前半を読んだところです。神が世界と人間を作ってから、とりあえず、おこったことは、虚言に謀略、裏切り、差別にエコ贔屓、嫉妬に怨嗟、兄弟殺しに子殺し未遂、強姦に近親相姦、といったところです。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする