百醜千拙草

何とかやっています

Nerd, Geek, Fulghum

2008-05-30 | Weblog
しばらく前にアメリカのTVシリーズで、「The Big Bang Theory」というシットコムがヒットしているという話題がScience誌(5/9/08; Talk Nerdy to Me)に取り上げられていました。物理学者が主人公のコメディーで、物理学ジョークが散りばめられています。私は見たことがないのですが、Science誌に紹介されている部分をみると、多少の量子力学についての知識が無いと面白いと思えないのではないかと思います。この番組は3大ネットワークの一つCBSでしかもプライムタイムに放送されており、毎週900万人が見ているらしいです。これは正直驚きでした。仮にアメリカ総人口が3億人、テレビのシットコムを見る人がうち一億人いたとして、その一割もの人々が、ジョークを理解するのに少なくとも理系の大学生なみの知識が必要な物理コメディーを見ているということは、理系ばなれが懸念されているアメリカでいったいどう説明すればよいのでしょうか。これが本当だとアメリカ人の知的レベルは実は高いのかも知れません。また理系ばなれは、理系の職業が経済的に不利であるからという理由だけで、本当はアメリカ人は科学が好きなのかも知れません。そういえばMariah Careyの新作アルバムのタイトルは「E = MC2」でした。中の曲は普通の恋愛ソングのようで、アインシュタインとも科学とも関係なさそうですが。無理して言うなら、「Love is Chemistry」ということでしょうか。この番組はUCLAの本物の物理学者David Saltzbergが参加しており、彼はこの番組が科学教育に役立ってくれることを望んでいると述べています。
 ところで、このScienceの記事のタイトルにあるように、余り一般的でない専門的な趣味に情熱を傾ける人、日本でいうオタクのことをNerdと言うわけですが、似た意味をもつGeekという言葉もあります。コンピュータオタクのことをComputer NerdとかComputer Geekといったりして、同意に使いますが、私の理解している範囲では、Geekの方がよりnegativeなconnotationが大きいように思います。もともとGeekはサーカスなどで、剣を飲み込んだり金魚を食べたりといった、グロテスクな芸をする芸人のことで、「変人」である部分がまず強調されているように思います。一方、Nerdは、ある趣味に対してのめり込み過ぎるために結果として変人となってしまったというような感じだと思います。見た目が変人でいずれもが特技をもっているという点は同じなのですが、NerdとGeekには変人に至った過程に差があるのだろうと私は理解しています。外向的変人がGeek、内向的変人がNerdと言えるかもしれません。しばらく前には、美女と野獣ならぬ、「Beauty and the Geek」というデート番組もありました。女の子は見た目は良いが頭が少し弱いタイプ、男の子は見た目は冴えないが何らかの特殊知識や技能を持っているというGeek/Nerdステレオタイプです。視聴者は、可愛い女の子がどんな変人を選ぶか(あるいは選ばないか)を見て、喜んだり、怒ったり、安心したりするわけです。私がGeekという言葉を覚えたのは、Robert Fulghum の本、「It was on fire when I lay down on it: 気がついた時には、火のついたベッドに寝ていた」の中の「Geek dancing」というエッセイででした。ワーカークラスの老いた男女が集う社交場での風景を描き、年甲斐も無く踊る彼らを愛情をもって、Geek、Geekessと呼んでいます。その本から20年もたって、現在Geekという言葉が指すものは、当時Fulghumの意図したものとは随分変わっているのではないかと思います。
 Robert Fulghumの代表作は、「 All I Really Need to Know I Learned in Kindergarten」と考えられていると思いますが、確かに人が社会の中で正しく生きていくのに必要な殆どのことは、幼稚園での生活から学べると思います。そのエッセンスが箇条書きにまとめてあります。「Clean up your own mess」、「 Don't take things that aren't yours. Put things back where you found them. 」、「Play fair. Don't hit people. Say you're sorry when you hurt somebody」などなど。 こういうことが出来ない大人が多いのですね。この「幼稚園児心得の錠」をすべてクリアできる大人は多分十人に一人もいないでしょう。最後にもう一つ、私の好きなFulghumの言葉、「 If you break your neck, if you have nothing to eat, if your house is on fire, then you’ve got a problem. Everything else is inconvenience.」
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人民は弱し、官吏は強し - 罪と罰

2008-05-27 | Weblog
日本の国にお金が無くなったと何年か前から折りにつけ聞かされてきました。国立大学では独立採算となり、大学は教育というサービスを売る商売となり、大学での学問の自由はどんどん失われていっているようです。少子化とゆとり教育の弊害もあり、平均学力は低下する一方らしく、このままでは、日本は十年後には三流国へリーグ落ちするであろうと考えられているそうです。そうなれば、メキシコやフィリピンのように、金持ちと貧乏人の格差が開き、中流層の地盤沈下から、一部の金持ちが大多数の貧乏人を搾取するという構図がますますあからさまになってくるでしょう。国にお金がないというのは、一般家庭と同様で支出が収入を上回っているということで、「日本の借金時計 (http://www.takarabe-hrj.co.jp/clock.htm)」によると、日本はお金がないどころか借金まみれで火の車というのが実情です。国が国民に売りつけた国債、地方債の額は約773兆円、平均すると一世帯あたり1600万円以上にのぼるらしいです。しかもこの借金は、一秒あたり約20万円ずつ増えていっているようで、この先進国の中で最大の日本の借金は減る気配はありません。足りない部分を増税や債券の発行で補っているのですから、銀行の借金をサラ金に借りた金で返しているようなもので、これでは永久に借金は返せません。ほとんど無能といってよいこの国の政治家、官僚が国民を搾取し続けてきた結果、この国の政府はますます信用を失っていっています。きっと年金もおさめた額は返ってこないでしょう。だからこそ政治家が年金をおさめなかったりするのです。もらえない可能性の高いとわかっている年金などおさめるのは馬鹿らしいですから。一般家庭であれば、収入が減ればやりくりして、節約してなんとか乗り切ろうとするでしょう。子供が餓えれば、親は自分の食事を減らせてでも、子供を養おうとすると思います。しかし、日本の政府には国民のためにやりくりしようとする姿勢が全くありません。借金を減らそうとしてやっていることは、ムダをなくする事ではなく、国民に負担を強いることばかりです。先先代の首相のあたりからこの借金対策として、日本がやってきたことは、昔の間引きと変わりません。生活が苦しくなってきたら、子供や老人を切り捨てて、経費を浮かせようとしようとしています。そもそも金がないのは政治家官僚が企業と癒着して無駄遣いを続けてきたせいなのに、未だに、彼らはあれこれと言い訳を並べ、誰も通らない道路を建設し、三十年以上も一時的である筈の暫定ガソリン税を取り続け、税金で官僚の天下り先をどんどん作り、政治家官僚の身内で国民から吸い上げた金を回しあっており、その根本原因を自らが作ってきたことに対しての反省というものが全くないようです。もっとも、彼ら自身の利益を守ることが、国よりも国民の生活よりも優先されるのだから反省しないのは当然ですが。言ってみれば、家計簿を握っている本人の浪費癖が借金の原因なのですから始末に負えません。身内で税金を浪費し、足りない分は国民にツケを回しているのですから、他人のクレジットカードで買い物しているような感覚なのでしょう。国民は彼らがよい仕事をしてくれて、自分たちの生活が向上しているのであれば、彼らが多少税金から高給をとろうと気にしないと思います。彼らが全く無能でありながら、国民の生活の向上を考えるどころか、搾取することしか考えてないから、国民は怒っているのでしょう。それにしても、前代の首相もお粗末でしたが、今の首相の脳天気さは、痴人の閾に達していますね。先日、自民党幹事長の伊吹某という人は、税金をさして「年貢」と言ったそうです。国民が殿様だと前置きしての発言ですが、年貢をおさめるのも国民なのだから支離滅裂な理屈です。国民から年貢をしぽりとって自分たち殿様の周辺の者で無駄遣いしようとおいう本音がこの失言に表れています。
 ところで、アメリカではジェシカ法という法律が2005年にフロリダで出来、以後42の州で同法が採用されています。これはJessica Lunsfordという小さな女の子がフロリダで性的暴行を受けた後に殺害された事件に端を発し、この前科持ちの犯人に極刑を望む世論を受けて立法されたもので、12歳未満の被害者に対する暴行によって有罪となった場合、最低25年の刑務所収監を義務づけるものです。現在、フロリダでは12歳未満に対する性的暴行は重犯罪であり、死刑もしくは出獄の可能性のない無期収監によって罰せられます。ゲーム理論には「囚人のジレンマ」という問題があって、個人の利益と全体の利益が相反する場合にしばしば最適解が選択されない例として知られていますが、これは現実社会にも数々の例が認められます。最近、このゲーム理論を使って、どうしたら犯罪を減らす事ができるかを考えたら、当たり前の結論に達したという話がScientific Americanにでていました。つまり、犯罪者が、犯罪をおかして得られるプラスと見つかった場合に罰せられるマイナスを考慮して犯罪を犯すか犯さないかを決めるとしたら、犯罪の発生率を減らすには、罰を厳しくすることが最も効果があるということです。一方、罰を厳しくすると、一件あたりの刑務所費用や裁判の費用が増加し、社会にとってのマイナス面があります。また冤罪の問題も大きいです。しかし、重罪にあたる犯罪は減少すると思われるので、裁判件数が減ることでそれは相殺されるかも知れません。善良な一般国民にとっては、犯罪が減ることがまず第一ですから、そういう点からも、私は犯罪に対する罰則を強化することに賛成します。これは日本のダメ政治家官僚をどうしたらよいかという問題の解決にも使えると思います。官僚政治家の汚職や収賄に対する罰則を極めて重く設定すればおそらくそうした犯罪の発生は減るのではないでしょうか。なんといっても保身にかけては彼らは一流ですから。いつまでたっても政治家官僚の不祥事が後を立たないのは、見つかった場合の罰に比べて、見つからなかった場合のうま味のほうがはるかに大きいからだと思います。一応三権分立ですから、うまく立法できれば、そういう法律は日本の借金返済に最も効果があるのではないかと私は思います。公僕でありながら権力を利用して私腹を肥やすことに対しては、私は死刑とは言いませんが、それに準じるぐらいの極刑を適用してもよいのではないかと思います。しかし、司法もグルのようですから、実現は困難でしょうね。
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学校教育と搾取構造

2008-05-23 | Weblog
子供のころ、北杜夫の「船乗りクプクプの冒険」を読んで、私は文学に目覚め、医学部に行かねばならないと思いました。あんな面白い本を書いてみたい、そのためには、北杜夫のように、まず医者になって船医か保健所の職員になり、「ひま」のいっぱいある仕事につかねばならないと密かに思った記憶があります。医者になってから、普通の若手の医者はどえらく忙しく、冒険小説を書いているひまなどないこと、船医や保健所はちょっと本流から外れていて、その道を選択するにはかなり勇気がいることがわかりました。実は、小学校の高学年のころには、医者になってから小説家になるという道に既に興味は無くなっていたのですが、かわりに、漠然と学問を仕事とする人に対するあこがれみたいなものはあったようで、小学校の文集に将来は学者になりたいと書いたことを覚えています。一応、夢はかなったと言えばそうですが、単に学者になりたいと書かずに、学者になってかつ余裕のある生活をしたいと書いておくべきでした。その夢がかなっていれば今のストレスは多少減っているはずですから。
ところで、今のポスドク問題に見られるように、学歴を積めば積む程、職業的可能性は限定されてくるようです。大学院へ行って学問の道に進むと決めれば、学問の道以外の職業へ就く事は困難になってきます。なぜなら世の中の大多数の職業は学問とは直接関係ないわけですから。世の中には東大を出てラーメン屋をやっている人もいますから、実際には自ら作った心理的な垣根が職業選択の幅を狭くしているのは間違いありません。やはり頑張って有名大学に入り大学院まででたのから、それを生かせる仕事をしたいと思うのは人情です。例えば、大学院でサルトルのコップのことを毎日考えていたような人が、いくら哲学では飯が喰えないからといって、コップ売りやラーメン屋になろうとすぐ方向転換するのは難しいでしょう。急にラーメンに情熱を持てと言われて持てるものでもないでしょうし。
私はベビーブームの世代の境目にいるのですが、子供の頃は、それでも十分、競争は激しかったです。受験戦争という言葉もあって、入江塾とか、ほとんどカルト宗教なみの学習塾もありました。そこでは基本的には比較的安定して高収入の職業に将来つくという目的のために、つまり競争に勝ってよい大学に入り、一流企業のサラリーマンになる、という将来を目指して、子供たちは頑張っていたわけでした。医学部というのもポピュラーな目標でした。医者になれば喰いはぐれがないだろうし、当時は「お医者様」と呼んでくれる患者さんもいました。私は理系だったので地元の大学の理系の学部という理由で医学部に行きました。私は高校生当時、大学というのは学問をするところであると思っていました。しかし、医学部での医学教育というのは職業訓練であって、つまり知識を覚えてその応用を覚えるところで、基本的には自動車教習所と同じところです。大学とは言いながら医学部は医学生が学問する場所ではなく、学問は大学院に行ってからになります。そのことが分かったのは入学後数年も経ってからで、今更ながら自分のナイーブさが恥ずかしくなります。事実、現在の国立大学医学部の中には、戦時中の医師不足を補うための機関、医学専門学校から後に昇格したものがあり、私の母校も元を正せば、大学ではなくそういった医療教習所でした。
 ともあれ、多くの場合で、学問をするために大学に入る人というのは実は少数であって、大学に入るのは、「入試」のためのトレーニングをしたという証明を得るためであるというのが本音だと思います。企業は与えられた問題の答えを限られた時間内で見つけ出すトレーニングを受けた「使いやすい」新人を効率よく選択するために、有名大学卒者を採用するわけで、彼らが大学で学んできた知識が目的ではないのは明らかです。企業は「もうけてナンボ」の世界ですからサルトルが金に繋がらないとなれば、そんな知識は必要ないのは当然です。こういう観点からみれば、日本の一般学校教育は、「使いやすい」国民を作るという目的に沿ってデザインされていることが分かります。日本では(に限らずどこの国でも同じでしょうが)一部の「使う人」と大多数の「使われる人」によって社会が成り立っており、この階層構造を保守していくことが、「使う人」つまり、大企業と政治家官僚の利益を保証するわけですから、小さいときから、大多数の国民が使いやすい人になるように、学校教育で教え込まれるわけです。学校教育はある意味、集団洗脳といってもよいかもしれません。
 インターネットの時代になって、この傾向が変化していくのではないかと私は期待しています。TVや新聞といったマス洗脳媒体から人々が離れ、より多様なソースから情報を得るようになり、インターネットを通じたスモールビジネスが増加すれば、人は企業に入ってサラリーマンという使われる人になることで経済的安定を目指す以外にも道を見つけられるようになるのではないでしょうか。インターネットのように、個人どうしが、企業や政府を介在させることなく、直結していくことで、使う人と使われる人というrigidな搾取構造が変化していく可能性があるのではないかと思っています。
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ロレンツの蝶

2008-05-20 | 研究
MIT気象学者、エドワード ロレンツの先月の死亡を伝える記事がNatureに出ていました。1917年生まれなので91歳です。多くの他の人と同様、私がはじめてロレンツの名前を知ったのは「ロレンツのアトラクタ」からです。彼は、1963年の「決定論における非周期的フロー」と題された論文で、上方の冷たい液と下方の暖かい液が交じり合う際におこる動きをコンピュータシミュレーションする実験結果を示し、流れは非常に不規則に起こり、そのパターンは初期条件の極小さな変化に鋭敏に影響されるということを発見しました。この実験でロレンツが温度と流れの対応グラフを描いてみると、このグラフは蝶の羽の型のように二つの焦点をもつような型となり、このグラフのパターンが「ロレンツのアトラクタ」として知られるようになったのでした。この初期条件に非常に鋭敏なシステムは自然の多くの例に見られ、このことがカオス研究の先駆けとなりました。カオス研究は、初期条件が決まれば運命は決定的に決まると考える「決定論」に対する批判となりました。事実、コンピュータシミュレーションを使った実験で、複雑な系では条件をより詳しく設定すればするほど、その結果はより大きく変動することがいろいろな例で知られており、長期に渡る気象の予想や環境の予想は不可能であると考えられています。このロレンツの仕事は、非線形系、複雑系の研究を巻き込んで、カオスブームとでもいうべき研究の流れを作り出しました。その様子がJames Gleickの「Chaos」という一般向けの本に描かれています。日本でもベストセラーとなり、新潮文庫にも収められています。この本が出たのが80年代の終わりで、(一連の宇宙ブームを始めとする科学ブームと重なっています)私のカオスに対する理解も殆どこの本によっています。その中でも紹介されているロレンツの言葉から、「バタフライ効果;butterfly effect」という言葉が一般にも広まりました。これは複雑系の初期条件への鋭敏な感受性を比喩的に述べたもので、オリジナルは1972年のアメリカ科学振興協会(AAAS)での彼のトークのタイトル、「ブラジルでの蝶の羽ばたきがテキサスで竜巻を起こすか?」です。このバタフライ効果をあらわす言葉にはいくつかバージョンがあって、私が最初に知ったものは、中国での蝶の一羽ばたきがアメリカで台風となる、というようなものでしたし、その後、ブラジルのかわりにアマゾン、テキサスのかわりにグアテマラなどに置き換えられたバージョンを目にしました。数年前には、アメリカのTVシリーズで人気が出て映画に進出したAston Kutcherという若手男優主演の「Butterfly effect」という映画も作られました。ロレンツの研究が火付け役となり、James Gleickの本を通じて市民権を得たカオス研究が社会一般に広く知られた結果だと思います。私の手元には、2冊の小学館のプログレッシブ英和辞典があって、一冊は1986年の第二版、もう一冊は第四版なのです。ちょっと見てみると、Butterfly effectは第二版には見当たりませんが、第四版には収載されています。おそらく、この言葉はJames Gleickの本のヒットによって広まったのでしょう。ロレンツは36年前にトークタイトルに使った例えが、現在のハリウッド映画のタイトルにまでなるとは 、予測できなかったに違いありません。はたして、36年前に彼が「蝶」というかわりに「蚊」と言っていたら、映画はヒットしたでしょうか。
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むなしい体面

2008-05-16 | Weblog
ビルマと中国の災害の様子には心が痛みます。阪神大震災の時のことを覚えているので、余計災害にあった人たちの苦しみが迫ってきます。中国での地震で倒壊した学校校舎に下敷きになって亡くなった多くの子供たちのことを考えると、子供たちや生き残った家族の痛みというのはどれほどか、想像するのも辛いです。壊れた学校のがれきの下からスニーカーを履いたままの小さな足が突き出している映像をニュースでみたときには胸がつまりそうになりました。
 しかしその大災害に対するビルマと中国の政府の対応には理解できないというより、憤りさえ感じてしまいます。ビルマはさんざんの非難を集めている軍事政権です。あのサイクロンによる甚大な被害のあとの物資困窮状態にありながら、外国の援助を拒否しました。同様に中国は日本からの人的援助を受入れると発表したのが、地震後三日もたってからです。地震に巻き込まれた人は、災害後一刻も早く手当てが必要なのに、三日もたってからでは助かる者も助かりません。両国政府に共通しているのは、災害の緊急時に外国に入り込まれて、見られたくない部分を見られたくない、という「やましさ」です。困っている自国の国民の命よりも、政治的な体面の方が大切という態度です。特に中国は今年のオリンピックを是非とも成功させて、国力のアピールをしたいという態度から透けて見えるように、国外ばかりをみています。中国ははっきりいって、オリンピックなどやっている場合ではまだまだないと思います。確かに中国には日本人よりももっと多くの億万長者がいますし、国全体としての経済力も上昇してきています。しかし、この国の経済は非常に偏っていて貧富の差が極めて大きく、中国という国家としての成熟にはほど遠いわけです。中国は、オリンピック会場周辺以外の、中国政府の考えている「恥部」を外国に見られるのを極端におそれているように見えます。その態度があからさまなのが、とてもみっともないと思います。三日も経ってから人的援助を受入れたというのは、災害直後の中国政府の緊急時対応のまずしさを隠し、被災者を通じて都合の悪い事を外国に知られたくないという理由でしょう。もう助からないとなれば、緊急対応は必要ないわけですから。世界の人は、中国政府の浅智恵を極めて冷ややかに見ています。中国が一流国として認められたいとアピールすればするほど、皆ひいていきます。どうしてそれに気がついていないのでしょうか。あるいは気がついていても認めたくないのでしょうか。このままだと、中国は世界の嫌われ者に向かってまっしぐらです。オリンピックの競技者の人には悪いですが、近代オリンピックは政治的な道具ですし、今回、妙にオリンピックが成功したりすると、中国政府はまた勘違いするでしょうから、後々のためには私はオリンピックは中止になる方が中国のためにも良いと思います。ほんとうの友達なら、見栄も恥もなく、そのまま自然体でつきあっていける筈です。みな、同じ人間なのですから。それが国というレベルになると、突然メンツとか威信とかなんとか、本来存在しないものが最優先となってしまうのですね。情けないです。
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It ain't over 'til...

2008-05-13 | Weblog
アメリカ大統領予備選、地方議会選挙も、何となく帰趨が見えてきたようで、先週のノースキャロライナとインディアナでは、オバマが10%以上の大差でクリントンを下しまいした。インディアナでは2%の差でクリントンが制したものの、ここに来て、super delegatesの中で更に数人が、新たにオバマをendorseした上、一人はクリントン支持からオバマ支持へと鞍替えしたため、選挙で選ばれる一般代議士数に加えて、クリントンの最後の頼みの綱であるsuper delegate数でもオバマがリードすることになりました。メディアの論調も、もうクリントンに挽回の可能性は殆どないのにどうしてクリントンは引かないのか、クリントンがいつまでも残っていると共和党との本戦に悪影響があるのではないか、というような調子になってきています。察するにクリントン陣営の中でさえも、勝つ見込みはないと思っている人も増えてきているのではないでしょうか。2%のインディアナでの勝利を受けて、クリントンは「勝ちは勝ちだ」と述べたらしいですが、一説によると、インディアナでのクリントンの勝利は、民主党候補選挙を長引かせて、民主党を疲弊させようと画策した共和党員の集団工作のためではないかとの憶測もあるようです。共和党はマッケーンで決まっているので、共和党支持者が予備選で、わざと民主党に投票登録してクリントンに投票し、オバマークリントン戦を長引かせようとしているのではという話です。もしそうなら、クリントンは本当は勝ってさえもいなかったのかも知れません。近頃はクリントン自身もおそらくメディアから進退について繰り返し訊かれているのでしょう。しかし、昨日あらためて、まだ撤退の意思のないことを表明し、「It is not over until the lady in the pantsuit says it is」と述べました。これは「It ain't over 'til the fat lady sings」をもじってあるわけです。ワーグナーなどのオペラでは、重量級のプリマドンナが最後にアリアを歌う山場があることが多いので、それまで劇は終わらない、つまり、勝負は最後の最後まで分からないという意味です。パンツスーツを着たクリントンは、自らをオベラのプリマドンナに例えて、「勝負はまだ終わっていない」と言ったのであろうと思います。しかし、穿った見方をすると、fat ladyが歌い終わったら劇は終わるのですから、単に「撤退するかどうかは自分が決める」ということをあらためて言っただけなのかも知れません。何人もの人が撤退のキューを出してきたのに、それを無視し続けたクリントンは、小さな州の予備選での敗退ぐらいでは、引くに引けないという状況に入り込んでしまったように思います。形作りをする機会を何度も逸してしまった今、すこし見苦しくなってきました。あきらめの悪い私が言うのも何ですが、「ダメなものはダメ」なのです。ただ、一般メディアがクリントンのあきらめの悪さが民主党にマイナスではないかという意見を持っているのに対し、当の民主党は、党内に強い候補者が複数いて、しのぎを削る戦いをしているのはマイナスではない、むしろ民主党の力をアピールすることになっているし、一端、戦いが終われば、民主党はより強くまとまると、「雨降って地固まる」効果をポジティブに捕えている人が多いようです。確かに一理あります。クリントンのような粘り強い党員がいるということをアピールする効果はあるかも知れません。ただし、粘り強さは頑固者の裏返しでもありますから、やはりほどほどということが必要なのでしょう。ハワードディーンは6月中には、最終候補をはっきりさせたいと述べており、おそらく、あと二三の予備選が終わった時点で、民主党内部でクリントンの形作りを助けるような芝居が演じられるものと思います。あるいは、ここで大統領選脱落以来、候補者のendorsementを保留しているジョンエドワーズが出てきてクリントンに引導を渡すという趣向なのかも知れません。
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楽器と音楽

2008-05-09 | 音楽
中学生になって音楽に興味がでてくると、楽器そのものへ対する興味をも私は持つようになりました。土曜の午後には楽器屋に行って、ショーケースの中に並べてある有名ブランドギターをガラス越しによく観察したものです。フォークギターは何といってもマーティンD45でした。当時のお金で50万円ぐらいはしたのではないかと思います。エレキギターでは、ギブソンとフェンダーが人気を二分していました。ギブソンレスポールモデルの優雅に盛り上っていく表板に塗装されたサンバーストの色合い、シンプルでありながら独特の曲線を描くフェンダーテレキャスターのお尻の丸み、子供心にも美しいものだと感じたものでした。最初はギターや弦楽器を主に鑑賞の対象にしていたのですが、そのうちピアノにも興味が移りました。といっても、子供のころバイエルから逃げ回っていた私に演奏家としての才能があるわけではなく、ピアノという楽器そのものに対する興味です。美しく黒光りするピアノのボディー、つやを帯びて光る鍵盤、その上に金色に輝くYAMAHAの文字。世界のヤマハ、日本が生んだ最高の品質を誇る楽器メーカー、当時の私にとってヤマハは、楽器製造業という大海を威風堂々と進む大艦隊のようでした。スタインウェイでもベヒシュタインでもベーゼンドルファーでもない、硬質で真面目なヤマハのピアノが私は好きでした。(因みにベーゼンドルファーは経営難のため、今年ヤマハに買収されたそうです)ベーゼンドルファーがロールスロイスで、ベヒシュタインがマセラティで、スタインウェイがベンツなら、ヤマハはトヨタです。全てのグレードでくるいのない高品質を達成しています。品質のブレを個性といってごまかしたりしません。高校生のころは、ヤマハに入ってピアノ職人になりたいと半ば本気で思っていました。今はクラビノーバの一オーナーであるという以外にヤマハとは何の繋がりもないのですが、それでも、世界に誇る楽器メーカー、ヤマハを生んだ国の日本に生まれたということを誇らしく感じることがあります。徹底した品質管理と細部にまで気を配った細かい仕上げ、行き過ぎることのない控えめな個性、ヤマハの楽器は上質を知る大人の楽器であると思います。(ところで、私はヤマハとトヨタの回し者ではありません。車はスバルです)
コンサートのピアニストであれば、自分のピアノを演奏の度に会場に運び込むなどというのは余程、一流の人に限られます。好き嫌いにかかわらず、その会場にあるピアノを弾くことになるわけで、いくらベヒシュタインの繊細な音が好きであっても、スタインウェイしかなければ、寿司にバーベキューソースをつけてでも喰わねばならぬのです。ピアノの音質の好き嫌いを問わない楽曲といえば、ジョンケージの「4分33秒」という曲があります。初演は1952年、この曲は三楽章からなり、各楽章の長さが、30秒、2分23秒、1分40秒で合計の演奏時間が4分33秒というわけですが、演奏者はピアノの鍵盤には触れません。各楽章の演奏の開始はピアノの蓋を閉めることではじまり、演奏中、ピアニストはじっとすわっているだけです。演奏が終わると奏者はピアノの蓋を開けます。ですから、基本的にピアノ曲でありながらピアノの音はしないという曲なのです。以後、この曲には多少のバリエーションがうまれ、現在では各楽章の長さは自由に決めてよいことになっているそうです。4分33秒という曲の長さは「易」によって決めたとあります。この曲はCDにもなっており、アマゾンで手に入るのは、ハンガリーのピアニスト、Zoltan Kocsisのものです。因みに彼はこの曲の初演の年の1952年に生まれています。脱線しましたが、ピアニストが必ずしも自分の楽器を弾くことができないというのと異なり、他の演奏家は大抵、自分の楽器を持ち歩くことになるので、昔の私のように楽器フェチになる人も当然ながら多いと思います。自分の愛器は子供のようにかわいいのが当たり前だと思います。弦楽器の中でもバイオリン系の演奏家は特にその傾向が強いのではと思います。それで、過去にもこういうニュースは何度かあったのですが、今回は、ニューアークの空港で、4億円する300年もののストラディバリウスをタクシーに置き忘れたバイオリニストが、善良なタクシー運転手のおかげで愛器を見つけることができて、(お礼に100ドルあげた)という話がBBCニュースで紹介されていました。もっとも、このストラディバリウスの本当のオーナーは別にいるらしく、ストラディバリ協会が演奏家に楽器の貸し出しを斡旋しているらしいです。演奏家にとっての楽器は、我が子に等しいということを考えると、タクシーに置き忘れるとは言語道断と思ってしまうのは私だけではないでしょう。少なくとも、楽器をタクシーに置き忘れるような演奏家の音楽を聞きたいとは私はおもいません。また、ロックバンドなどがステージで楽器を壊すパフォーマンスを見ると、家庭で虐待されている子供の絵が思い浮かんでしまいます。それにしても、どうして300年前のバイオリンの方が、現在のものよりも良い音がするのでしょうか。楽器の素材が成熟するのに300年という年月が必要なのでしょうか。きっと製造技術に関しては現在の方が進んでいるのでしょうし。あるいは、ワインと同じでストラディバリウスという有名楽器だと思うからよい音がすると感じられるだけなのでしょうか。調べてみると、以前に日本のテレビ番組でストラディバリウスのブラインドリスニングテストをやった結果がありました。4本のバイオリンのうち、一本が本物で残りはレプリカです。もっとも評価が高かったものは、約200万円の国産高級バイオリンで、その次は30万円のフランスの量産品、一億円の本物を当てた人は6人中1人だけでした。このテストで使われたストラディバリウスは1689年製とのことで、最も評価の高い18世紀初頭のものではなかったという点はあるにせよ、聞き手にとっては一億円の名器でも、30万円の量産品でも、大差はないということでしょうか。(演奏家にとってはまた別の話かもしれませんけれども)
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SPAM記念日

2008-05-06 | Weblog
ハワイのゴルフ場のレストランから始まったと言われる、アメリカ-日本クレオール食品、「スパむすび」は、なかなか癖になる味わいです。ご飯のおむすびの上に薄焼き卵とみりん醤油で甘辛に味付けした缶詰ハムのスライスが乗っているのですが、今や、ご飯にハンバーグと目玉焼き卵を乗せてグレービーソースをかけた「ロコモコ」と並んで、ハワイB級フードとして定着していると思います。スパむすびに使う缶詰ハムは勿論、Hormel食品のSPAMを使わねばなりません。SPAMは1937年にミネソタ州で生まれ、ランチョンミートとしての不動の地位を築きます。戦時中は兵士食として活躍し、アイゼンハワーは第二次世界大戦の勝利はSPAMのおかげであると述べたらしいです。そのSPAMがもっとも多く消費されているのがハワイで、代表料理としてスパむすびや寿司ロールをHormel食品のホームページでは紹介しています。少なからぬ量がハワイの日本人観光客によって消費されているのではないかと思います。
ところで、戦時中のイギリスでは食料不足から政府による食料配給があったようです。SPAMはプロセス肉食品の中でその食料配給の制限を受けなかったため、プロセス肉を使った肉料理の多くにSPAMがつかわれていたらしく、イギリス国民はSPAMには飽き飽きしていたようです。その様子がイギリスの人気コメディーであったMonty Pythonでのスケッチに使われています。SPAMは食べたくないのに、レストランで朝食を食べようとしたら、殆ど全てのメニューにSPAM使われていたという話で、このスケッチから、欲しくもないのに送られてくるe-mailのことがSPAM mailと呼ばれることになったそうです。Monty Pythonのこのスケッチは1970年のものですが、SPAM e-mailという言葉が最初に使われたのは1993年らしいです。日本でパソコン通信から始まって、e-mailが広く使われ出したのは、多分90年代の始めごろだと思いますが、それから考えると、e-mailが電話なみに普及したのはここ20年ほどということになります。しかし、BBCニュースによると最初のSPAM mailは30年前にさかのぼるらしく、今月は最初のSPAM mail から、ちょうど30年になります。最初のSPAM mailは1978年、5月3日に、今はもうないコンピューター製造会社、DECの広告が400名に送りつけられたものだそうです。30年後の今、SPAM mailは一大地下産業となり、毎日兆単位のSPAM mailが発送されており、85%以上のe-mailはSPAMもしくはJunk mailであるという数字もあります。
というわけで、急にスパむすびが食べたくなったから5月3日はSPAM記念日、となりました。
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生物の尊厳

2008-05-02 | 研究
以前から生物研究界では、実験動物に対する動物活動家による妨害行為などがありました。実験動物をこっそり逃がしたり、動物実験施設を襲撃したりといったことです。他人の立場になって気持ちを考えるというのは、現代社会において欠くべからず資質であると思いますし、その気持ちが他の生物まで拡張するのも自然なことであると思います。ペットとして犬や猫を飼っている人が、実験のためだけに育てられて利用される犬のことを「可哀そうだ」と思うのは自然なことだし、実際、大切なことだと思います。エリザベス キューブラー ロスは、子供の頃、可愛がっていた家畜のウサギが晩ご飯のおかずになってしまったことが強いトラウマとなったと述べていました。ここに、生存のためには、他の生物を利用し、食べざるを得ない人間のジレンマがあります。可哀想だと思う、思わないに関わらず、人は他の動植物を殺して、食べることなしには生きていけません。仮に牛乳と果物だけで生きている人にしても、食べる以外にも、気づかない間に虫を踏みつけて殺していたり、殺菌ソープで体表面の細菌を殺したりしているわけで、殺すという行為と無関係に私たちは生きていくことはできません。ただ、可哀想だと思う気持ち、食物になった他の生物に対する感謝の気持ちを持つことは、人間自身にとって重要であろうと思います。そういう気持ちを持つ事で無用な殺生はしなくなるでしょうし、人間同士の間の思いやりも育つでしょう。実験動物に対しても同様の気持ちを持てないなら、生命科学研究者としては失格であろうと私は思います。動物は私たちに近いし、感情移入しやすいので、彼らの痛みや苦しみは想像しやすいと思います。それでは植物はどうでしょうか。ベジタリアンであっても、生物である植物を殺したり、その一部を取って食べたりすることには違いありません。動物と違って、殺される時に血を流したり叫んだりしないので、私たちが彼らの苦しみや痛みを余り感じなくて済むという点はあると思います。以前、植物の声を聞く事ができる人の話を読んだことがあります。知り合いの人の家を訪ねたときのこと、家中に満ちている悲鳴をその人は感じたのですが、それは、しばらく水やりを忘れていた数々の鉢植えの枯れかけた植物が発していた声なのでした。もし、私たちが、動物の場合と同様に、食べられるためだけに栽培され、収穫される植物の気持ちが理解できるなら、植物解放活動みたいなものが現れる可能性もあるでしょう。
 最近のスイスでは、植物の気持ちを思いやることを考えはじめているようです。実験動物をあつかう研究プロトコールには、実験動物に無用な苦痛を与えないことや、必要のない実験を行われていないことなどを示す事項が含まれています。このたび、スイスのヒト以外を対象としたバイオテクノロジーにおける政府の倫理委員会は、植物研究において「植物の尊厳」を損なう研究を支援しないためのガイドラインを策定したとのことです (Nature 2008 452, 919)。スイスでは2004年発行の遺伝子技術法に「生物の尊厳を尊重すること」という条項が既にあるのですが、今回、具体的に植物にも生物の尊厳を拡張しようとしているようで、植物研究の研究費申請には、どのように「植物の尊厳」が考慮されているかを明記しないといけなくなるらしいです。研究者側は、「植物の尊厳」を尊重するとは一体どういうことなのかと頭をひねっているようです。植物の気持ちを理解することができない人間が、自分たちの立場で考えた「尊厳」なのですから、その「尊厳」がどれぐらい植物を満足させるのか、わかるわけがありません。植物の気持ちは植物に聞けでしょう。また、あるものの尊厳とはそのもの自身によって判断されるべきであろうと私は思います。実験生物の「尊厳」云々は、私は人間の場合の安楽死のケースからの拡大ではないかと思うのです。脳などに傷害などを受け、自分自身で生命活動を維持していくことができなくなった状態で、呼吸器と栄養補給チューブに繋がれて心臓だけが動いているという不幸な人がおられます。そういう自立性を失ってしまった人から生命維持装置をはずして死を迎えさせることを、最近は「尊厳死」と言ったりすると思います。生物の尊厳と言う場合には、実験などによって、自立的な生命維持ができなくなるような状態にすることが、どうも尊厳をそこなうということになるようです。しかし、そう言い出せば、遺伝子変異を導入して致死性の形質が出るようになった生物は全て、尊厳が損なわれていることになってしまいますし、そうでなくても、意図的に生物を交配し、操作し、飼育室で管理するわけですから、そこに自立性などないも同然で、基本的に全ての生物実験は尊厳の尊重の違反であろうと私は思います。あたかも実験生物の側に立ったかのような形式的な「尊厳」を云々するよりも、私たち自身が、他の生物を利用し、殺し、食べることなしに生きていけないという事実を真摯に見つめ、その上でそうした生物に感謝するという自分たちの側からできる事をすべきであろうと思います。「尊厳」だ何だといっても、生物の側にとっては、利用されて殺されることには違いはないのですから。聖書に言うように、もし、動物たちは明日何を喰わん、何を着んなどと思い煩うことなく、日々栄光に満ちた生をただ生きているのみなのであれば、彼らは彼らの毎日に起こってくることを、判断なくそのまま受入れて生きている存在なのかも知れません。もしそうなら、そんな彼らの生命のどこに人間が言う「尊厳」などというようなものの入り込む余地があるのでしょうか。彼らの生はそんなものは超越しているのです。人間以外の生物の「尊厳」を云々することは、ある意味、生命の頂点にいるとでも思っている人間の傲慢さの表れなのかも知れません。
 人間であっても「尊厳」の定義は、人それぞれで違うと思います。昔、乳癌の脳転移で麻痺をおこした患者さんがいました。治療も一時的な効果しかなく、残された日々が限られているということが明らかになってきた時、患者さんは一人暮らしながら自宅に帰ることを希望されました。私は希望をかなえて上げるべきだと思いましたが、神経内科の主任は、このまま自宅に帰っても身の回りのことをするのもままならない、惨めな状態になるのがわかっているのだから、病院で「尊厳」を保った状態で死なせてあげるべきだと主張しました。私はこの時、神経内科主任が繰り返し使った「人間の尊厳」という言葉を非常によく覚えています。死ぬ間際になっても希望どおり自宅に帰ることさえもできないのに、「尊厳」が保たれてるとは思えない、と私は何度も抗議しましたが、神経内科主任の頭の中には、絶対的な「尊厳」の定義がすでにあって、患者さんの意志よりもその「尊厳」が保たれる方がもっと重要だという考えがあったようでした。あるいは、以前に患者さんの意志を尊重したばかりに悲惨なことになった例を経験していたのかも知れません。しかし、私は今になっても「尊厳」などというものが、本人の気持ちの外に独立してあるとは考えられません。しかし結局、人生を生きるとは、ままならない不自由を肯定的に受入れていくことに他ならないのですから、その患者さんにとってどっちが良かったのか、その本人以外に判断のしようもないと思います。例え選択肢に限りがあっても、その中で本人がベストであると思うことを自らの意思で選ぶことができないなら、肉体ではなく精神の自立性が損なわれていると言ってよいのではないかと私はと思います。それはまさしく「尊厳を損なう」ことではないでしょうか。
生命を尊ぶことは大切なことであると思います。それは自らの内側からでてくる感情に基づいていなければならないと思います。それなしに、外側から「尊厳」を尊重しろというのは、一方では、体裁だけつけておればそれでよいというような態度を間違いなく生むでしょう。生命の大切さや神秘さを感じ、尊重できない人に生命科学をする資格はないと私は思います。
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