百醜千拙草

何とかやっています

横糸、縦糸

2016-04-29 | Weblog
RNA関係の1日シンポジウムに参加しました。
有名どころを集めた豪華メンバーでしたが、多少、盛り上がりに欠けました。つまり、分野が、ある程度成熟してきて、今では、未知の大陸を冒険するようなワクワク感が乏しくなってきたのです。人々は、少しずつコアなテーマから外れていって、応用研究、ビッグデータを使った包括的研究、生物レベルでの各臓器での研究、という感じで、みんなで一つのテーマを追求する時代は終わり、今は、各々の家へ帰って、それなりにやる時期にきているのだなあ、と思いました。

私は、そもそも最初から家から出ていないので、スタンスは変わりません。ずっと、自分の分野であまり誰からも相手にされないながら、それなりに幸せにやってきました。研究の中身はむしろ以前よりは濃くなってきたように自分では思いますけど、逆に人々の興味は薄れていっているようです。(研究資金の獲得という点からは、これは大きな問題です)

かつて分子生物が急激に広がった時、研究は「分子」を中心に展開することが可能でした。例えば、WntならWntの研究を、脳でやったり腎臓でやったり、ガンでやったりしてもOKでした。今は、ほぼ完全に臓器別、疾患別です。ある臓器、疾患を研究する中で、特定の分子を取り上げるというスタンスでないと、「何屋」なのか、と思われます。それでも、安定してやっていくには、臓器/疾患と分子の二つを専門として持っていることは、必要なようです。臓器/疾患が縦の糸、分子が横の糸、そんな感じで自分の居場所を確保していくことになります。

RNAシンポジウムは、機能性RNAという横糸で広く基礎から様々な臨床までをまとめた会でしたが、縦糸の方がどうしても強いので、それで仕切られてしまうのです。縦糸が強いということは、流動性が乏しく、システムの柔軟性に欠けるということです。世の中が不景気になると、自分の利益の確保を第一に考えるので、排他的な傾向が強まって分野の硬直化が進むのでしょう。

私の現在の居場所もいつまであるかわからないようなものなので、新たに別の住処を探す必要があると感じています。まだ硬直のゆるい場所で比較的スムーズに移れる場所は、もうほとんど見つかりません。新たな住処は新たに作っていくしかありません。
新たに作って人に認識してもらうというのは大変なことですので、これは組み合わせでいくしかありません。思うに、そういう事情で、研究スタイルは従来の生物学から生命工学的な方面の方へと全般的に流れつつあるのでしょう。大手研究室では、新たな技術やシステムで古いものを研究するという研究スタイルを発明し、そこで何らかの(再)発見をするという戦略で、発見を継続させていっているように見えます。

非常に大雑把に研究スタイルという点から生命科学研究の過去の動きを俯瞰すると、形態学の時代、生化学の時代、分子生物学の時代、遺伝子学の時代と流れてきたように思います。そして、現在は一言では形容しがたい多様な時代となっているように感じます。遺伝子学からの発展としてビッグデータを扱うゲノム学、ニューロサイエンスでの必要から生まれた数々のイメージングテクノロジー、ステムセル研究から発展してきた工学的研究、そしてこれらを組み合わせたスタイルと種々様々です。十年後にどうなるのか、全く読めません。
思うに、本当にイノベーティブで多くの研究に影響を及ぼす発見や発明は約十年の潜伏期間をおいて突然、世の中に出てくるように思います。バクテリアでの遺伝子組換え技術、高等動物での遺伝子操作技術、大量シークエンシング技術、Crispr/Casなどです。そうした発見や発明が、研究界全体をドラマティックに変化させます。
だから、私もあまり先のことは心配せず、自然な流れに乗るつもりで、自分の興味をもっていることに集中しておくのが良いのだろうと感じています。先のことは誰にもわからないのですから。


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北国の春は遠からじ

2016-04-26 | Weblog
島影一つ見えない大洋の真ん中でボートを漕いでいるような日々です。
進んでいるのか、止まっているのか、正しい方向に向かっているのか、流されているのか、、、一生懸命に漕いではいるつもりなのですけど。
ま、昔ほどは焦らなくなりました。遠からずやってくる地上を去る日まで、楽しく生きるのみです。
最近は、これにフォーカスしています。毎日、楽しく生きること。
そのために、多少、将来に備えたりプランBを考えてたりはしていますが、それにあまり捕われないように注意しております。将来など本当にやってくるのかさえわかってはいないわけですし、よく緻密に考えてみると、失うものも大してありません。

そう思うと、投げやりというわけではないのですが、眉間にしわ寄せ、眥を釣り上げて、力むようなことはもうやめようという気分です。というか、世の中は、良くなったり悪くなったりして変化していくものです。高く飛ぶには低く屈めとも言います。アベ政権がこれまでの豊かで平和な日本を貧しく殺伐とした国に変えてしまうようなことがあるとしても、傲れる平家は何とやらで、アベ氏も自民党も遠からず消えていき、むしろ、その悪政ゆえに日本はより良くなる機会を与えられるのだと考えることも可能です。天気の良い日もあれば悪い日もある、そう思って天気の悪い日は、天気の良くなる日を楽しみに、悪いなりに過ごせば良いのです。

寒い北海道でも、ずっと続くかに思われるような冬も必ず終わり、春が来ます。そして春の近づきは、ちょっとした小さな出来事の中に感じ取ることができます。

北海道5区の衆院選補欠選挙、残念でした。おそらく当日の投票に関しては互角なので、期日前投票分の自民、公民の組織票(ここに不正がなければ)が、勝敗を分けたということなのでしょう。いずれにせよ、敵の地盤で大きく健闘しました。

この選挙に関して、東京新聞の社説から、

二〇一四年の第三次安倍内閣発足後初の国政選挙である。安全保障関連法や経済・子育て政策などが争点だったが、政権が積極的に信任されたというよりも、町村氏の地盤を娘婿である和田氏が守り抜いたといった方がいいだろう。
 通例なら、自民党候補が有利に戦いを進める「弔い合戦」だが、安全保障関連法廃止と立憲主義回復を掲げて共闘し、激しい選挙戦に持ち込んだのが民進、共産、社民、生活の野党四党である。
 敗北したとはいえ、野党共闘の有効性が確認された選挙戦ではなかったか。野党の力が分散しては安倍自民党の「一強」に対抗することは、とてもできまい。 、、、
 現政権の問題点を粘り強く訴えると同時に、安倍政治に代わるビジョンを示すことも重要だ。四党間に理念・政策の違いがあるのは当然だが、共通政策づくりに向けた協議も急ぐべきである。
 


残念な結果とは言え、これは北国の春の息吹を予感させるに十分なものでした。アベ政権という冬の時代も終わりに近づいていることを思わせるようなものでした。敵の地盤の弔い合戦で、圧倒的不利な状態から、あと一歩のところまで追い詰めたのですから。思うに、今回の健闘は、野党共闘の成果というよりも、これは候補者本人の力が大きかったと思います。

間もなく春の到来です。と思えば、しばらくは、アベ一座の下手くそな芝居も、真打前の前座の余興だと思って見守ってやるか、というぐらいの余裕も湧いてくるというものです。
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それでも原発は止まらない

2016-04-22 | Weblog
不思議だけれでも、皆、ウラの実情は多かれ少なかれ察していること、二、三、貼り付けます。

東京新聞社説、地震と減災 原発はなぜ止まらない

 過去にないような地震が起きた。ところが過去の想定に従って、九州電力川内原発は動き続けている。被災者の不安をよそに、責任の所在もあいまいなまま、3・11などなかったかのように。原子力規制委員会の田中俊一委員長は川内原発に「安全上の問題が起きるわけではない」と言う。、、、熊本地震は、その規模も発生のメカニズムも、過去に類例のない、極めて特異な地震である。複数の活断層が関係し、断層帯を離れた地域にも、地震が飛び火しているという。通説とは異なり、布田川断層帯は、巨大噴火の痕跡である阿蘇のカルデラ内まで延びていた。海底に潜む未知の活断層の影響なども指摘され、広域にわたる全体像の再検討が、必要とされている。正体不明なのである。未知の大地震が起きたということは、原発再稼働の前提も崩されたということだ。新たな規制基準は、3・11の反省の上に立つ。「想定外」に備えろ、という大前提があるはずだ。未知の地震が発生し、その影響がさらに広域に及ぶ恐れがあるとするならば、少なくともその実態が明らかになり、その上で「問題なし」とされない限り、とても「安全」とは言い難い。過去の想定内で判断するということは、3・11の教訓の否定であり、安全神話の時代に立ち戻るということだ。、、 その上、九電は、重大事故時の指令所になる免震施設の建設を拒んでいる。原発ゼロでも市民の暮らしに支障がないのは、実証済みだ。それなのに、なぜ原発を止められないの? 国民の多くが抱く素朴な疑問である。


黒幕は誰なのか それでも原発を止めない狂気 (ゲンダイ)

一体、黒幕は誰なのか。その黒幕の狙い、思惑は何なのか。思わず、こう問いかけたくなる。これだけの巨大地震が起こったのに、再稼働している川内原発を止めようとしない安倍政権に対してである。
、、、なぜ、国は川内原発を止めないのか。なぜ原発再稼働を急ぐのか。冒頭の疑問に立ち返るのだが、元経産省のキャリア官僚の古賀茂明氏の解説が分かりやすかった。
「これだけの巨大地震が起こったのに川内原発を止めないのは、ここで止めたら、日本全国の原発再稼働が不可能になるからでしょう。日本全国に断層が走っている。それらが活動期に入っている。どこでも直下型地震が起こり得る。そのたびに原発を止めていたら、再稼働が不可能になってしまう。だから、川内も止められないのです。加えて、川内原発には一応、想定した安全基準がある。それを下回っているのに止めたら、国民が騒ぐと止める前例を作ることになる。それも嫌なのでしょう。この政権がいかに国民と向き合っていないかの証拠です。米国では少しでも心配なことがあれば、原発を造らないし、止めてしまう。断層が近くにあるだけでダメです。しかし、日本では福島原発の事故が起こった後も、最初に再稼働ありきで動いている。原子力規制委員会が“世界一”の安全基準を作り、そこが認めた原発しか動かせない前提ですが、政府は規制委を隠れみのにしている。再稼働させるために規制委を作ったのが真相ですよ」、、、
、、、その規制委は一応の安全基準は作るものの、再稼働の判断は事業者任せにし、安全性への責任を逃れている。万が一の避難計画の策定は自治体任せ。絶対に自分たちに責任が及ばないように仕組んでいる。そこで、住民が裁判を起こすと、その判決は地裁によって割れてしまう。

参議院議員、山本太郎氏のブログ記事

予測不能の度重なる地震に対して、人々の生命・財産をどう守るか。最大限の予防原則に立つ事が、危機管理の鉄則。
原子力規制委員会委員長 田中俊一氏は、「予防的に原発を止めるかどうかは政治的判断」と言う趣旨の発言をしている。
ならば、申し入れ先は官邸以外あるまい
党を代表し、政府に対して書面で申し入れをしたい、と内閣総務官室(総理・官房長官への橋渡し)に連絡。
官房長官、官房副長官、官房副長官の秘書官、など全てスケジュールが埋まっており、無理との事。そんな事もあるだろう、当日の申し入れなんだから。
では、申し入れを受ける側は政治家ではなく、事務方でも結構です。これから官邸に向かいます、と伝えたところ、
先方はパニックになり、電話でたらい回しになった。
「上層部の理解が得られないから官邸の敷地内には入れられない」などよく判らない話が続き、結局3時間半後には、
「官邸の管理運営上のルールに則って入れる入れないの判断をする」と言う新基準を完成させた模様。
官邸に申し入れができないなら、官邸前で申し入れで良いです。
申し入れの所要時間3分。
たったこれだけの為に、何をそんなパニクっているんだ?
たかが山本太郎が官邸に向かって来る、と言う不測の事態にも対応できないらしい。  (筆者コメント、役人のバタバタが、目に浮かびますな)


山本太郎氏のブログ、他の記事も読んでみて感心しました。優秀なブレインもいるのでしょうが、記事の内容も文章も立派です。少しずつでも仲間を増やしていって大きな勢力となって貰いたいと、期待はずれの岡田民進党を見ていて思いました。
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苦難に際して

2016-04-19 | Weblog
熊本の地震は5年前の悪夢を思い出させます。今回の地震が熊本から中央構造線に沿って東へと広がったことが、今後もあるかもしれない余震、本震が、その先にある伊方原発それから同線の逆方向にある現在稼働中の川内原発へ与え得る影響を想像すると戦慄するばかりです。

世の中、嫌なこと、起こってほしくないこと、心が傷むことに満ちあふれております。そんな苦しみに満ちた人生を高い山に登るかのように、だんだんと薄くなる空気の中を、一歩一歩、その終わりに向けて歩むのが人間です。それは頭ではわかってはいるのですが、突然の厄災にみまわれた時、人は、苦しみや悲しみに打ちひしがれることを避けることはできません。

遠藤周作氏の「イエスの生涯」を古本屋で見つけて、しばらく前に読みました。幼いころに着せられたキリスト教という「ダブダブの洋服」を脱ぐのをやめて和服に仕立て直すことにした、と言った遠藤氏にとってキリスト教は大きなテーマで、「イエスの生涯」でも、人間としてのイエスその弟子の心情を正面から深く考察してあります。

世界中でベストセラーになった氏の「沈黙」は、キリスト教での大きなテーマである「神の沈黙」がモチーフです。信仰厚い人々が理不尽な苦難に見舞われるとき、助けを求める声に対して、神はしばしば沈黙します。どうして熊本や福島で大勢の罪のない人々が死ななければならないのか、どうして神は彼らを助けなかったのか、という問いです。

ウィキペディアには、遠藤周作しの晩年に関して次のような記載があります。

1993年5月に腹膜透析の手術を行った。一時は危篤状態までに陥ったが、奇跡的に回復する。最初はなかなか苦痛に耐えられず、愚痴や泣き言を繰り返していたが、自分とヨブの境遇を重ね合わせ、「ヨブ記の評論を書く」と決心してからはそれがなくなった。


ヨブ記は聖書の中でも最も不可解であると言われます。この信仰厚い善良な男に神が与えた理不尽な厄災の数々を読むと、なんと神とは意地の悪い存在なのか、と思ってしまいます。

しかし、ヨブ記の評論を書くと決心してから泣き言を言わなくなったというこの遠藤氏のエピソードは、人はたとえ苦難に満ちたものであっても与えらえた人生を拒否するのではなく前向きに受け入れるという選択しかない、ということを示しているように感じます。

聖書には、「柔和なるもの(従順なるもの; the meak)は幸いである、彼らは地を引き継ぐであろう」ともあります。この柔和なるものについて、検索したところ、

しかし、新約聖書ギリシャ語の「柔和な」(プラウス)と言う言葉は、飼いならされ、調教によって、以前野生の手に負えない性格が、従順になった時、その動物は「プラウスである」(柔和である)と言われるのです。従って、聖書が言う「柔和な人」とは、生来が鉄のような固い意志を持ちながらも、神の力によって完全にコントロールされている人を指します。


という解説を見つけました。

イエスは処刑されるにあたり、最後に「神よ、どうして私をお見捨てになったのですか」と言ったといいます。私はながらくその意味がわかりませんでした。

遠藤氏の本を読んで、これが実はイエスの心情を表した言葉ではなく、旧約聖書の詩編の冒頭の句であり、この詩が神を讃え信頼する詩であるということを知って、その意味がようやくわかりました。生来、鉄のような固い意志を持ちながらも神の力によってコントロールされている者、即ち柔和なる者、がイエスでありヨブであるというだったということなのでしょう。

晩年の遠藤氏がヨブのような柔和な者となることを選択したように、様々な苦しみや厄災に際して、固い意志を持ちつつも天を信頼し、その意志に任せる、そのような人間でありたいと私も思います。

被災された人々の心にも遠からず平安が訪れることを願います。
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立ち止まること

2016-04-15 | Weblog
中国ではCrispr/Cas9でヒトの胚の遺伝子操作がすでに行われました。ヒトの手で自らの遺伝子を操作するということにあまりためらいのない人は大勢います。ヒトを含む生物も交配と自然変異によって、多くの遺伝子多様性を獲得してきました。自然界がやっていることを人間が意図的にやったからといって何の問題があるのか、近年の環境の変化は凄まじく、自然が行う変異と淘汰を待っていたのでは、人間の進化は遅すぎる、積極的に遺伝子操作をすべきだ、というような意見のヒトもおります。例えば、George Churchなどはこういう立場ではないでしょうか。この、自然は(人体も含めて)コントロールするべきもの、とでも考える傲慢な西洋的自然観は、自然は人間を育んでくれる母とでも考える東洋的自然観を持つ日本人には、なかなか受け入れがたいものです。人間の浅智慧が推し量れることなど知れています。環境がどんどん変化しているのは、長期的視野を持つこともなく、その浅智慧で短期的な欲望を満たすべく、自然をどんどんと破壊してきた人間そのものの愚かな行いゆえでしょう。遺伝子操作技術で人間をどんどん人工的に進化させるなどということをシラフで言えるのは、そうした歴史への反省がないからではないのか、様々な見地から世界を見ずに、自己の立ち位置のみから主観的に物事を狭く考えてしまうからではないのか、と私は思わざるを得ません。「深いが、狭いために危険」なMad Scientistのような人というのは意外に大勢おります。

しばらく前の内田樹の研究室の中の一節から。

世界史的スケールで見ると、世界は「縮小」プロセスに入っていると私は見ている。「縮小」と言ってもいいし、「定常化」と言ってもいいし、「単純再生産」と言ってもいい。「無限のイノベーションに駆動されて加速度的に変化し成長し続ける世界」というイメージはもう終わりに近づいている。別にそれが「悪いもの」だから終わるのではない。変化が加速し過ぎたせいで、ある時点で、その変化のスピードが生身の人間が耐えることのできる限界を超えてしまったからである。もうこれ以上はこの速さについてゆけないので人々は「ブレーキを踏む」という選択をすることになった。別に誰かが「そうしよう」と決めたわけでもないし、主導するような社会理論があったわけでもない。集団的な叡智が発動するときというのはそういうものである。相互に無関係なさまざまなプレイヤーが相互に無関係なエリアで同時多発的に同じ行動を取る。今起きているのはそれである。「変化を止めろ。変化の速度を落とせ」というのが全世界で起きているさまざまな現象に通底するメッセージである。
そのメッセージを発信しているのは身体である。脳内幻想は世界各地で、社会集団が異なるごとにさまざまに多様化するが、生身の身体は世界どこでも変わらない。手足は二本、目や耳は一対。筋肉の数も骨の数も決まっている。一日8時間眠り、三度飯を食い、風呂に入り、運動し、酔っ払ったり、遊んだりすることを求める。それを無視し続けて、脳の命令に従わせて休みなく働かせ続けていれば、いずれ身体は壊れる。そして、いま世界中で身体が壊れ始めている。


破壊し尽くす前に世界はスローダウンしていって欲しい、と私も思います。破壊のスピードが速すぎて生身の人間ではついていけない、だからもっと遺伝子操作して人間を改造しよう、という考えに普通の人なら強い嫌悪感を抱くでしょう。東洋人であれば、その破壊の理由を考え、先人の知恵に学び、環境の変化にあわせて人間の体を変えるのではなく、その環境の変化の原因となっている人間の欲の方をなんとかしようと思うのではないでしょうか。

しかしながら、人間は欲の塊です。過去の行いを反省したところで、ほとんどの人はすでに、エネルギー高消費型、大量廃棄物産生型の「ラク」なライフスタイルに慣れ過ぎていて、環境に悪いから、江戸時代の生活に戻るという選択はしません。現実は、人間がどんどん己の欲で環境を破壊し続けて、かなり厳しい状況に追い込まれるまで行動を変えることはないのでしょう。

いずれにせよ、人間は「できることはやってしまう」という困った性質を持っております。遠からず、ヒト胚の遺伝子操作も広く行われることになるだろう、というのは世界の人々の予測です。(悲しいことながら)その時、遺伝性疾患を治すというような明らかな目的に加え、オプションとしてなんらかの形質を親の都合の良いように変えるというような目的で遺伝子操作が行われることがおこるでしょう。たとえば、眼の色を変えるというような遺伝子操作は比較的簡単にできるはずです。(ただ、今のCrispr/Cas9の技術では、最高のFidelityのシステムをつかっても、想定外の変異も導入されてしまうので危険すぎて、すぐには使えないだろうとは思いますが)

この間、とある高名な研究者の人が、もしも子供の性質を一つだけ遺伝子操作で変えることができたとしたらどう変えたいか、というアンケートを一般の人,
数百人にとったという話を聞きました。詳細は明かしてもらえませんでしたが、男女間で明らかな差があったということで、男性は「成功してほしい」という意見が多かったのに対し、女性は「良い子に育って欲しい」という意見が多かったそうです。そして、誰も、子供に「長生きして欲しい」とは願わなかったのだそうです。

明らかに目に見えるような形質ではなく、彼らの望んだのは、人間的、社会的な背景における優秀さでした。私、それが救いだろうと思います。良い子になって欲しいという願いは、肉体的、物質的なものではなく、「人間性」という人間を動物から隔てている属性に関するものです。一方で、我々ができることは、遺伝子という物質にごく初歩的な変化を加えることぐらいです。そのような技術は、「人間性」の向上には何の役に立たないでしょう。なぜなら「人間性」というのもは物質の性質ではなく、無形でかつ変化していくものだからです。(逆に、人間性を失わせるような遺伝子変異を入れることなら比較的簡単にできるのではないでしょうか。作るのは難しくとも壊すのは簡単です)

同様に、自然の破壊は簡単です。しかし、人間はそれを元に戻すのはできません。原発で有毒な廃棄物を作るのは簡単です。それを無害化することはできません。遺伝子操作を加えることは簡単です。しかし、それを戻すことは容易ではありません。突き進むことは容易です。しかし、立ち止まってじっくり考え、恐れを持って一歩を踏み出すことははるかに難しい、私はそう思います。
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若い才能

2016-04-12 | Weblog
研究費をどう獲得していくか、研究者にとって最大の問題です。競争が激しくなり、技術がそこそこ出揃い、かなりの部分の知見のデータベース化が進んできた今、研究界全体が、昔からある問題は難しすぎるし、新たな問題は小さすぎて意義を強調しにくい、そういう状況にあるような気がします。研究では意義がなにより大切ですから、そうすると主に生物系の人は、意義を強調しやすい疾患の治療などに直結するような研究をプロポーズするようになり、生物学の発見というより、技術開発、エンジニアリングの方面がもてはやされるようになるわけです。現在流行りのSynthetic biologyというのも、こういう傾向を反映しているのでしょう。新興雑誌であったNature Biotechnologyのインパクトファクターは、今や、本家Natureを超えているらしいです。

生物学上の疑問というのは大小、様々、残っているのです。しかし、現在の技術で簡単にやれる範囲をやり尽くしたあと、その分野そのものが注目を失い、人々は次の流行を追って目新しい所へ移っていき、人の集まるところに当然、資金は投入されるということになります。焼畑農業のようなものですね。

人々の関心のあることをする(流行しているものをする)ということは、それだけで「意義」がある程度あるわけですが、こういう傾向は、長期的視野に立てば、専門分野を深く極めていくという観点からはマイナスであろうとは思います。流行は廃れるものですから。しかし、腹は減っては戦もできず、研究費がなければ研究者は何もできませんから、「流行を追う」ことはある種の必要悪です。己のアイデンティティーを保ちつつ、ユニークな視点から流行を、その早い段階で取り入れていくことが必要です。

こんな事情で、私もこの数年以内に、私なりの新しいシステム、新しいリサーチプログラムの基礎を作り上げていかないといけないことはわかってるのですが、何をどうやるべきなのか、限りあるリソースと時間の中で、現在進行中のプロジェクトとどう折り合いをつければ良いのか、悩んでおります。あれこれ論文を読んだり、データベースを眺めたり、そんなことばかりで過ぎていく日々です。

新しいことというのは、自分の研究スタイルそのものも含みます。ノックアウトマウスを作って表現形を解析し、その分子メカニズムを探っていく、という従来のリバースジェネティクスのスタイルは、もはやマウスの作成と解析技術が汎用化されてきたために、最近はむしろネガティブな評価さえ受けるようになったような感じがします。ここ数年はpharmaco-genetics/chemical geneticsみたいな感じで、genetic toolとbiologic compoundsを組み合わせたようなスタイルで何とか、説得性のあるデータを得ることができていますが、このスタイルも別に目新しいわけでもありません。

いくら研究の知見の生物学的価値が重要なのだだと言っても、厳しい現実を生き延びていくためは、論文をそこそこのジャーナルにコンスタントに発表していかねばならず、グラントでは、予想される知見の価値以上に、そこに至るアプローチ法を買ってもらわねばならないわけです。そのためには、研究のいろいろな面でユニークさを出せないと、私のような超零細では生き延びていけません。

この週末も、そんな感じでうじうじとアイデアを求めて、コンピューターをいじっておりました。
が、気がつくと、youtubeで音楽を聴いてました。ははは。

しかし、世の中には色んな才能のある人が沢山おりますな。わが身の凡なることを改めて思い知らされます。

2年前のオランダのタレントショーからデビューした10歳のAmira WillighagenちゃんのO mio babbino caroを見つけました。正式なトレーニングは受けたことがないそうです。確かに荒いところがありますけど、表現力豊かで情熱的な歌い方はMaria Callasを思い出させますね。なぜか妙に心に響きました。

ちなみにMaria Callas版はこちら。

ついでにRenatta Scottoのベルカント


もう一つ、若い人の才能はうらやましい。同じく10歳の時の高尾奏之介くん。この2年ほど、私が自己流で週末に練習しているPartita 2番です。Sinfoniaは三部構造で最後のアレグロのフーガの部分は、Partita2番全曲の中では、最も難しい部分の一つかと思いますが、奏之介くんの演奏には、大変、感心しました。正確なリズムを刻みながら、豊かな表現力を持って右と左のメロディーラインが奏でられています。グレングールドの演奏よりも私は好きです。いつか奏之介くんのように弾ければいいのになあと思いますが、音楽には練習では越えられないものがありますからね。
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田舎でダーチャ

2016-04-08 | Weblog
やや低調です。平坦なのが何よりですけど、人生、山あり谷ありするからこそ意味がある。この数年、関西弁でいうと、色々しばきたおされて精神的にはタフになったかなと思いましたが、ま、絶えざる訓練は必要ですね。

IMFトップ、世界経済の見通し「一段と悪化した」というニュース。4/12に正式表明されるようです。

世界恐慌の予感はこの数年ずっとありました。さて、果たして近代資本主義は崩壊するのでしょうか。世界のためには資本主義は崩壊したほうがよいとは思いますけど、そもそも人間の欲がつくったもので、現在の資本主義が崩壊したからといって、混乱期の後は、結局、別の資本主義もどきが出てくるだけのような気もします。これまで、散々、近代の管理通貨制度というイカサマ(といわせてもらいましょう)を批判してきましたが、結局、今はカネが武器よりも人を支配するのに使いやすいので、使われているわけです。その根底にある「人間をコントロールしたい」という非人間的な欲がなくならない限り、帝国主義であろうが資本主義であろうが、いろいろな形態を使って、他人をコントロールしようとする人間は出てくるでしょう。資本主義が崩壊したからといって人間性豊かな社会にはすぐにはならないとは思います。一部の人間が大勢の人間を支配しやすいように作られた近代の経済システム、本来、無くても良いものですが、今や、社会がそれに沿ってデザインされてしまっているので、人間として生まれたからは否が応でも経済活動に参加せざるを得ません。アホらしいことです。そして恐慌となれば、カネへの依存度が高いほど、ダメージも大きくなります。やっぱり、これからは田舎に土地を買って自給自足できるようにしておくことも必要ですかね。ソ連崩壊後のロシアに学ぶべきです。

さて、嫌でも耳に入る北海道五区の衆院補選。結果次第で、衆院解散ができなくなるかもしれないという話。ダブルになって自民党がぼろ負けしてくれるのが最高のシナリオですが、そうはうまくはいかないだろうと思います。この補選で自民党候補が負ければ、いくら強引、無法のアベ政権でも解散はできないでしょう。

参院選の前哨戦として注目を集める衆院北海道5区補欠選挙(12日告示、24日投票)。安保法制=戦争法や環太平洋連携協定(TPP)、格差と貧困などを大争点に「戦争をさせない北海道をつくる市民の会」と野党が推す統一候補の池田まき候補(43)=無所属=が、自民党公認候補を激しく追い上げ激戦になっている。

「日本史上初めて、野党共闘と市民の連合が自民党と対決する国政選挙」ということです。対する自民/公明/大地(それにしても鈴木ムネオは何を考えているのか)が推す和田氏は、同区で死去した町村議員の娘婿、そもそも義理の親の地盤での弔い合戦でした。圧倒的に有利なはずが、蓋を開ければ、池田氏の猛追で、どうもすでに情勢は逆転したとの話。

人間の中身は外見に現れることが多いです(無論、人は見かけによらないという言葉を実感することもありますが)。そして、私は笑顔の美しい人が好きです(誰でもそうですね)。こういう人がこの選挙に勝てば、野党、市民にとっては、大変、よい景気付けになると思います。是非、勝利してほしいと思います。
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年金、5兆円スリました

2016-04-05 | Weblog
週末は、とあるサイエンスシンポジウムでのポスター審査員をしました。全国から150ほどの演題が集まり、大学、院生、ポスドクといった人々が参加。この審査員をやるのは二度目です。前回も感じましたが、彼らの発表は、私が普段参加している学会よりもレベルが高いです。自分の割り当てのポスターのところに行って、演者と話し、あとで審査員が集まってランクをつけて賞を出します。普段は見ないような内容の研究がいろいろあって楽しいです。高評価をとったのはロドプシンの融合蛋白を使って光を使って遺伝子操作するOptogeneticsを使ったneuroscienceの二つの演題。一つはNatureでレビュー中との話。それから、同じくneuroscienceでExosome解析と電気生理を組み合わせた演題。私が担当した演題の一つ、自閉症での脳の炎症の起こるメカニズムの解明とそのインターベンションも最終候補に残りました。演者の人は大学院生でしたが、大変優秀で、卒後ポスドクをしたいからいい話があれば教えて欲しいと名刺を渡されました。彼女のような優秀な人ならもっと有名研究室から引き手数多だろうなあ、雇えるようなお金もないしなあ、とついネガティブな方向に思考が向いてしまう生来の貧乏性。

夜は、久しぶりに会った遠来の友人と晩御飯。いまだに研究している人はなぜかわれわれの年代に多いような気がします。私が大学院生だったころは、まだ研究者というのは現実性のあるキャリアチョイスだったような気がします(少なくとも当時はそう感じました)。今は、芸能界ほどではないにせよ、研究職は不安定でリスクが高く(しかも低収入職)という認識ではないでしょうか。友人は医学研究者として重要な仕事を出してきて、その分野では一人者と認識されていると思いますが、やはり悩みは同じで、研究費の問題、administrativeな雑用、規制などが多すぎて、研究環境が劣化しているというような話。私も人々の幸福と社会の安定のためにはルールや規制は必要だとは思っていますが、年々、厳しくなっていく規制のための規制としか思えないような規制、それをクリアして研究環境を確保するために使わざるを得ないバカにできない時間と労力の増加には、何か間違っていると思わざるを得ません。本来の研究以外の雑用に5割の時間を割かざるを得ない状態で、倫理とか規制とかはあってないような地域からの研究者と戦わざるを得ない現実があるわけです。

さて、話は変わりますが、やってくれるぜ、アベ政権。国民のカネでバクチ打ち、負けたらツケは国民に回し、福祉のカットと消費税増税で埋め合わせ。役人の給料だけはなぜか増えていく。いつもの手口、というニュース。株式や債券で「運用」とか「投資」というと真っ当な経済活動のように聞こえますが、早い話がその活動から何の価値も生み出さないただのバクチです。誰かが得をすればその分、誰かが損をしているわけです。投資というのであれば、そのカネを使って本当の価値を生み出す活動を支援すべきでしょう。役人や政治家にそのようなな活動を評価してそのリターンを読むというようなことをできる能力がないので、安易に株を売り買いして5兆円負けました、という情けないことになるのです。

東京新聞。15年度年金運用赤字5兆円超か 5年ぶり、株重視裏目に
 国民年金と厚生年金の積立金を運用する年金積立金管理運用独立行政法人(GPIF)の2015年度の運用損益は、赤字幅が5兆円を上回る見通しが強まった。4日までに金融の専門家が試算した。GPIFは例年、年度の運用実績を6月末から7月上旬に公表してきたが、今年は参院選後の7月29日に公表する。運用が赤字になれば、10年度以来、5年ぶり。
 SMBC日興証券の末沢豪謙金融財政アナリストは「株価の低迷や円高進行による海外資産の目減りが響いた」と分析した。GPIFは14年10月、運用資産に占める国内外株式の割合を5割まで増やすことを決めた。


株式などインチキバクチでは胴元が勝つようにできているのです。生活の保障となる年金をバクチにつぎ込むぐらいなら、何もせずに置いておく方がマシでしょう。外資系投資銀行に日本人の血税をタダでくれてやったようなものですな。
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イノベーションの本質

2016-04-01 | Weblog
なかなかグラントのアイデアが煮詰まらず、鬱屈の日々です。興味深い予備データもあるし、方向性として悪くはないと思うのですが、華がないというか、押しが弱いというか、レビューアの快感中枢を刺激するような興奮惹起要素が一つ欠けているのです。ここで「なるほど」と唸らせるような新規アイデアを盛り込まないとダメなのは分かります。ネタの鮮度も落ちていくので、この一年以内に応募しないともうチャンスはなさそうな気がします。

それで、レビューアの快感中枢を刺激して高評価を得るような因子とは何か、というようなことを考えていました。当たり前ですが、それは新しいこと(もの)で、かつその重要性が示唆されるものを扱うということです。評価のポイントとなっている「イノベーション」ですね。私のこれまでのグラントは、全部この手できました。ところが、新しいもので、重要そうで、かつ自分の専門に合致しているようなものが、そうそう出てくるわけでもありません。力のある大手研究室だと、新しいものを自力で見つけ出し、その重要性をある程度示した上でグラントを応募するということが可能でしょうが、弱小ラボではとてもそうはいきません。かといって、偶然、棚から落ちてくるぼた餅を当てにするわけにもいきません。

それで、そもそも「イノベーション」とは何ぞや、ということを嫌でも考えざるを得なくなりました。新規性と言いますが、よくよく考えてみると、世の中に本当に「新規」なものはほとんどありません。ほとんどすべての発見、発明に至る過程は、新しくないものの組み合わせることによってなされているようです。つまり、新しいものは、新しくないものの新たな組み合わせという過程から生まれるということのようです。

私のような遺伝子中心スタイルでやってきた人間にとっては、「重要そうな新しい遺伝子」というものはもう簡単には見つかりません。新しい遺伝子はゲノムのアノテーションが進むにしたがって増えていっているわけですが、それが重要かどうかは実験をしてみるまでわかりません。結局、新規性を示すためには、遺伝子同士を組み合わせる、異なる手法を組み合わせる、組み合わせの工夫をすることになります。どのような組み合わせによって新たな興奮(インパクトのある発見)につながる可能性が高いかを考えて、グラントではそれをうまくプレゼンしていうということでしょうが、言うは易し行なうは難しです。

グラントや論文で多い批判の一つに、研究成果が「incremental」というのがあります。しかるにイノベーションの本質をこのように考えてみると、基本的に研究というものはincreamentalにしか進まないもので、イノベーティブと言われる研究でも、結局incrementalな研究活動の結果をretropectiveに評価された結果にすぎないのではないかと感じます。つまり、ある目的地に至るには、現在ある手段を使って距離を縮めていくしかないわけです。しかし、そうこうしている間に高速移動手段が開発されたりして、それを自分の目的にあわせて組み合わせることで、目的地への到着を早めることができたりします。そうすると突然イノベーティブだと評価されたりするわけです。古いものを組み合わせて、他人よりも早くやる、イノベーティブであるということは、結局、そういうことでしょうか。ちょっと馬鹿らしい気持ちがします。

馬鹿らしいといえば、メリットベースでプロジェクトを審査して研究資金を配分するというシステムは、よく考えると馬鹿げていると思います。絵に描いた餅に値段をつけるのですからね。応募時点では、餅そのもが評価されるわけではなく、餅の絵がうまく描けるかどうかで決まるわけですし。
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