百醜千拙草

何とかやっています

食と生活

2020-06-30 | Weblog
食習慣を変える話を前回しましたが、今のところは快調です。昼はナッツの入った袋を用意しておいて、そこから決まった量を取り出して、空腹を感じた時に食べるという風にしているので、お昼ご飯の心配もなくなりました。お弁当を作ったり食堂にいったりする手間も必要ありません。眠気も感じなくなり、とりあえず良いことづくめです。
食べることが好きという人にも朝昼を軽くして粗食にするのはおすすめできると思います。夕食がとても楽しみになりますからね。

ところで、食事の快楽といえば、私が肉食を基本的にやめたのは、動物性の脂が偏頭痛のトリガーになっているのではないかと思い始めたからで、主義的なものは何もなかったのです。いまでも乳製品や卵や多少の魚は食べますし。

しかし、地球の人口爆発がおこって、現在もかなりの勢いで地球の人口は増加しています。近代化が始まった200年前、地球の人口は10億、それが二倍になるのに100年かかっています。しかし、そこからは50年ごとに倍加しており、今や80億に近い数字です。特に人口増加の大きいアフリカなどの貧しい国々では食糧危機で栄養不足が蔓延している現状がある一方で、豊かの先進国や高エネルギー消費型の西洋のライフスタイルを取り入れようとしている地域が増え、地球の環境は急激に悪化しつつあります。

公害や温暖化ガスや放射性廃棄物を作り続ける西洋型ライフスタイルに関する反省は、まさに西洋、欧米から始まっています。車ではなく自転車、遠隔輸送の大量消費ではなく地産地消、それから菜食中心の食生活、を選ぶ人が増えてきました。菜食を選ぶ人には様々な理由がありますけど、なかでも大きな理由の一つは、肉食が高エネルギー消費型で、地球環境に悪いからという理由です。昔のフランス人同僚は、子供が二人いるが、家庭では菜食だし、大量の燃料を燃やす飛行機には極力乗らない主義だと行っていました。子供の成長に必要なタンパク質は学校給食で十分補給できるので問題ないという話。今回のフランス統一地方選挙では与党が惨敗しエコロジー政党(ヨーロッパ・エコロジー=緑の党)が大躍進しました。エコロジーへの関心はヨーロッパで広く広がっています。社会や地球のことを考えて個人の欲望を抑えることができるというのは、人間の成熟の一部でしょう。

一食分の食肉をつくるのには約20食分の植物性食品が必要と言われています。動物の餌になる分の飼料にかかるリソースを直接の人間の食糧用に変換すれば、20倍効率がよく、その分、飼料を育てたり牧草地を作ったりするために森林を切り倒す必要も少なくなるというわけです。人間が肉を食べる快楽のために地球の多くのリソースが使われていますが、その一方で貧しい国々では食べるものがなく栄養障害で死んでいく子供がおります。

もう随分前ですけど、とある東南アジアの病院に見学に行った時、そこではじめて栄養障害の患者さんをみました。その時に栄養障害の二つのパターンを聞かれて答えられず、恥ずかしい思いをしました。教科書には載っていたはずですけど、当時の日本では栄養失調や感染症は克服された病気(拒食症とか免疫不全時の感染を除くと)という感じでしたので。 ちなみに、タンパク質不足が主体の栄養障害はKwashiorkorと言い、もとはガーナの言葉で、二人目の子供が生まれた時に子供がかかる病気という意味のようです。

肉食によって得られる快楽や効果は理解できますが、一方で人間の欲望が地球環境を破壊してきたことを考えると、食事を含む欲望の節制は大切だろうと思います。
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食習慣

2020-06-26 | Weblog
コロナの外出規制以来、運動不足のせいか、生活が不規則になったせいか、あるいは精神的な疲労なのか、体のだるさや眠気に悩まされるようになりました。とくに困るのが最近は食後の眠気です。いろいろ考えた結果、昼食を軽くすることにしました。糖分やデンプンを避ける一方、高タンパク、高脂質が望ましいと思い、考えた末、お昼は、ミックスナッツとコーヒーにしました。木の実に加えてピーナッツやひまわりのタネ、カボチャのタネなどをつまんでいます。ポリポリとつまむぐらいでも計算すると高脂質のせいか、結構なカロリーになるようですが、眠くもならず、空腹感も感じません。ナッツやタネのタンパク質含有量は高く、必須アミノ酸も豊富なようです。

あと、食後すぐに軽い運動をするというのも眠気を防ぐのに有効なようで、私もそれは感じました。朝は軽く食べることにしているので、通勤などのついでに一駅余分に歩くようにしています。これで夕方まで空腹感も眠気も感じずに過ごせます。 若い時は食べないと低血糖になることもあったのでカロリメイトを常備していましたが、今はもうかなり代謝が落ちているので、おそらく最適なのは、多くの人々が実践している一日一食と思います。これによって、食事の時間とその消化に使われる体のエネルギーと負担が軽減され、肥満を防ぎ、より創造的になるそうです。

しかし、習慣というのはおそろしいもので、時間になると別に空腹でなくても何かを口に入れたくなります。それで、何か食べ物を食べたくなったら、空腹かどうかを自己確認し、空腹でないなら食べないという習慣をつけようとしているこの頃です。
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差別について

2020-06-23 | Weblog
コロナの影響で止まっていた雑誌がまとめて配達されたので、パラパラと見始めました。3/19号のNatureの訃報欄でKatherine Johnsonが今年二月に亡くなったのを知りました。
数年前の映画、Hidden Figuresの主人公のモデルになった数学者です。この映画はその年に見た映画でベストだと思ったので当時のブログにも書きました。
まだ人種隔離政策が続いていたアメリカの宇宙開発計画を陰で支えた黒人計算部隊の話。当時、ロケットの計算は主に手動でやっていて、発射直前にコンピューターの計算の問題に気づいた主人公が手動で計算をして窮地を救うあたりが山場となっています。一つの大きなテーマになっているのは、人種差別のある社会に黒人として生まれた才能ある女性数学者がその社会的制約の中でどのような人生を生きてきたかということです。現在でも根強くのこる人種と性の差別。生まれ持った特性によって社会的に生まれながらにして制裁を加えられる人生という理不尽はなかなか無くなりません。当時、有色人種と白人はトイレもコーヒーも別々。今から思えばつくづく愚かしいと思いますけど、奴隷制という非人間的制度が常識であった過去をもつ欧米諸国ですから当時はそういうものだったのでしょう。他の特性の異なる人間を差別し利用し搾取するというのは欧米に限ったことではないし、日本も朝鮮人の連行とかひどいことをしてきました。アメリカではいまだに外国人移民の搾取と差別は続いております。アメリカの社会のカーストにおいては、同じ教育レベルと英語力ならば、白人と非白人(黒人、ヒスパニック、アジア人)の間に社会的な地位の差と言葉にされない差別意識が存在しています。自らの縄張りを確保するために意識的に差別する場合もあれば、自らの不満をぶつける先として半無意識的に非白人系アメリカ人や移民を嫌悪する場合もあると思います。

Katherine JohnsonがNASA(の前身のNACA)に入ったのが1952年、Rosa Parks事件で黒人公民権運動が大きくなったのは1955年です。映画のNASAプロジェクトの話は多分、1961年ごろで、ワシントン大行進の年、Martin Luther King, Jr.が250万人の聴衆の前で「I have a dream」スピーチをしたのが1963年、そんな時代の話です。
(ちなみに数日前オクラホマではトランプの大統領選キックオフ集会の聴衆は1万人 - 追記あり)
そのスピーチで、Martin Luther King, Jrは、トーマス ジェファソンがさらに二百年前に起草したアメリカ独立宣言の最初の言葉、「すべての人間は平等であり、幸福と自由を追求する権利を持つことは自明と考える」という言葉を引用しています。奴隷制の時代、奴隷主であり、奴隷の愛人とに間に子供を残したジェファソンにとって、黒人はその「人間」のうちに含まれていたのかどうか、どういうつもりで独立宣言を書いたのかわかりませんけど、二百年後にking 牧師は、黒人は神の前に平等な人間である、と改めて宣言したのでした。

さて、Hiden Figures の映画の中では人種差別や隔離政策を当然とするような典型的白人、反対する白人らが出てきて、当時の変わりつつある社会を映し出しています。その中で人種を超えた人間の結びつきなどが描かれます。黒人専用トイレが遠くて仕事に支障が出ることを知った上司、ケビン コスナーは、トイレの人種隔離サインを破壊して、「小便の色はみんな黄色だ」と言います。

今では人種隔離政策は無くなりましたが、白人の心の中にある有色人種や性別に対するアメリカでの差別は根強いと思います。性差別も問題になっています。最近、とある大学の歯学部の学部長になった女性研究者の人と今年はじめの学会で会った時に話をしたとき、学部長になって驚いたことは、大学の学部長会議の召集で回ってきたメールのドレスコード欄に、ネクタイの着用は不要、と書いてあったことだ、と呆れた調子で言われました。つまり、彼女以外の学部長は全員、白人男性だった(現在も多分これまでも)ということです。社会で力をもっている組織は、旧体制を維持したがるもので、アメリカでも表立って口にはしないですが、そういうところでは、黒人、アジア人、女性は、差別の対象であり、部下や奴隷としてならばよいが、同僚、仲間には入れたくないという意識があるようです。

もう随分前になりますけど、MITで黒人ステムセル研究者(James Shirley)がテニュアポジションを得られなかったのは人種差別だとデモをしたのが科学雑誌のフロントページの話題になったのを覚えています。テニュア審査に通らなかったのは業績不足だと大学は説明しましたが、もし白人で同じ業績なら違った結果になった可能性もあるのではないかと私は感じました。MITの言語学者でactivistのノーム チョムスキーは当時、Shirley側に立って発言していたのを覚えております。そして数年前、同じMITでは利根川進氏が女性教官を採用することに反対して、脅迫ともとれるメールを候補者に送って辞退させたことがスキャンダルになりました。その結果、確か利根川氏は施設長を降りたように思います。この女性はこれに嫌気がさして、当時新しくできたバージニアのハワードヒューズの研究施設でのポジションを取りました。

今回、ミネアポリスで白人警官による黒人殺害を機に大きくなった反差別運動ですけど、「Black lives matter」という言葉は、7年ほど前の黒人殺害事件をきっかけに作られた全米的組織の名前が由来のようです。初めてこの言葉を知ったのは、白人が大多数のとある州立大学の壁に大きなバナーが掲げられているのもみた時です。その時からこの言葉に対する違和感が拭えません。「matter」という言葉のニュアンスだろうと思います。日常会話でよく、否定形で”it doesn't matter"(どうでもいい)という言葉を聞きますけど、"Black lives matter"という言葉に感じるのは、「黒人の生命は大切だ」ではなく、「黒人の生命はどうでもいい、ということではない」というような消極的なニュアンスです。この言葉は黒人が自らの権利の向上のために用いたのではなく、人種差別に反対する白人グループが白人人種差別主義者に対する抗議の言葉として使ったのではないのか、という感じがずっとしています。言葉は悪いですけど、ビーフステーキを食べながら環境保護と動物愛護活動を語るような感じですかね。(私、肉食の人は環境保護や動物愛護を語るな、と言っているわけではありません。環境や動物を食糧にするということに全く無関心な人よりははるかによいと思います)「Black lives matter」という言葉を、当の黒人の人がどう考えているのか、聞いてみたいとは思います。

関連して、ツイートでしばらくまえにBroad Instituteの黒人女性研究者のエッセイが紹介されてました。(黒人はCOVID19での死亡率が高いというデータがあります。それが医療現場での人種差別なのかどうかは知りません)表立っての制度としての差別はないはずですけど、有色人種であり、女性であるということに対する白人男性社会の無意識的差別というのは根強いと思います。

一方で、社会的な面で不利益をうけている黒人側も白人に対する偏見や差別意識があるでしょう。例えば、かつて黒人のマルコム Xのように積極的に黒人と白人を隔離することで黒人の権利を守るという思想もありました。私は、多くのこの運動に関与している白人たちが考えているように、いろいろな人種や性別の人々がお互いに公平な権利を享受しつつ混じり合っている社会がいいと思います。そのために、まずは、社会的に明らかに不利益を被っている黒人、ヒスパニック、アジア人、女性、ゲイといった被差別者側に立って、差別やを行う側を糾弾し、教育していくことが最初の一歩であろうと思います。

25年前の歌ですけど、Gladys Knightで "Guilty".
黒人で女性に生まれついたというだけで、二重の差別をうける黒人女性の歌。
"One strike for being a female, one strike for being black... female and black to the day I die,  (I am) guilty for just being me...."

追記。
オクラホマでのトランプ集会の実際の参加者は1500ほどだったというツイートがありました。残りはサクラと関係者だそうです。
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山本太郎氏の都知事選立候補に思うこと

2020-06-19 | Weblog
ちょっとだけ東京都知事選の話。
数日前、山本太郎氏が立候補を表明しました。支持者も驚いた人が大半ではなかったかと思います。というのは、その前に宇都宮氏が野党の支援を受けて立候補を発表していたからです。ちょうど、知事選を目前にして、現知事の暴露本(といっていいのでしょうか)が話題となり、学歴詐称問題が再燃し、かつ四年の都政で何一つ公約を達成できず、築地移転問題はあとを引き、オリンピックのためにコロナ対策は遅れ、東京アラートとかいうパフォーマンスに終始したということもあって、宇都宮氏とその支持者にとってはチャンスと思われました。野党で候補を一本化すれば勝てる可能性が高くなるという状況で、山本太郎氏が立候補を考えているというニュースが流れました。
多くの人がこれは野党候補を勝たせるための山本流の戦略で、最後は宇都宮支援に回ると思ったと思います。

だから山本氏の立候補表明は驚きでしたし、宇都宮氏と支持層が被っているせいもあり、支援者の反感を買ったと思います。私もよく意図がわからなかったので、会見をちょっと見てみましたが、事情を知って、正直、気が滅入りました。

この数年、私は立憲民主党執行部、つまり反小沢派の旧民主党の残骸、に不信感を抱くことが増えました。というか、もとを正せば、福島原発事故の時の枝野氏への不信感が再発したと言った方が正しいでしょう。思い返せば、あのときも枝野氏はメルトダウンの事実を誤魔化そうと「ご飯論法」的会見をし、「だだちに健康に影響はない」といいながら、全身防護服とガスマスクをつけて視察に行っていたのを覚えています。再び、野党となり、アベ政権をするどく批判はするものの、結局はアベ政権と似たようなことを与党時代はやっていたのです。その民主党は狸にバカされて壊滅し、行き場を失った枝野氏が立ち上げた立民に国民は期待したわけですが、結果、期待は裏切られ、執行部に不信感や違和感を募らせた有望な人材、山尾氏や須藤氏らが離党し始めました。どう考えても、立民幹部連中のゴールは保身であるとしか思えなくなりました。五十五年体制時の社会党、プロレスに欠かせない脇役、結局はショービジネス、やってるフリです。

そこへ、山本太郎が本音を丸出しにして出てきました。参議院時代から空気を読まない、ガチンコ真剣勝負と言ってきたのは、与野党含めた日本の政治ゴッコ、プロレス ショーに心底、怒っていたからでしょう。原発問題から政治に入り、国民が求めていることを実現したいという真摯な思いに共感した人は多かったでしょう。一方、プロレスの興業主は徹底的に圧力をかけてセンセーショナルな山本氏の活躍の報道を抑制し、冷笑し、ネガティブキャンペーンを流して、予定調和的プロレス興業の世界から追い出そうとしてきました。

彼は地盤も看板もなく、反原発を主張したがために芸能界から干された一芸能人です。議員の間、永田町の常識(すなわち世間の非常識)にとらわれることなく、正論を真正面からぶつけました。そして、悟ったことが、参院の一議席ではどうにもならないこと、一人でできることは限られているということでした。その結果の決断として、あえて自由党から出て、選挙前に新たな政党を作り、街頭演説で直接市民と語って、資金を集め、二人の重度障害者を議会に送り込むという驚くべき仕事を成し遂げました。そのうえで、政党代表者として、野党共闘をよびかけ、消費税減税を共通政策にして闘うことを訴え続けてきました。

デフレの不景気に消費税を増税するのは自殺行為です。増税の結果は最初から見えていて、やはり、その通りになりました。結局、目先の大企業の減税のために貧乏人も含めた国民全員から消費税を取り立てて穴埋めし、大企業にカネを集めた一方で、大多数の国民生活をますます厳しくしました。親の代から支持しているという理由で自民や公明を無批判に投票する盲目的支持層に支えられる与党に本気で勝つつもりなら、国民の生活を直接豊かにするような政策を主張し、政治には無関心だが生活が苦しいと思っている層にアピールしない限り勝てません。内需が六割の日本経済、消費税を減税(そして廃止)することで生活は10%ラクになり、結果として消費が増えて景気がよくなる、誰にもわかる当たり前の理屈であり、日々の生活こそが国民の最大関心事なのだから、「消費税減税」を野党が一斉に叫べば、必ず勝てます。なのに立明も国民もそれをしない。

しない理由は政治屋である立民執行部の算盤勘定です。悪く言えば、「与党にはまだなりたくないけど、政治屋は続けたい。そのためには支持母体の連合の機嫌を損ねるわけにはいかないし、財務省と霞ヶ関とは仲良くしたい。とりあえず、国民生活は後回しでよい、野党で有る限りは責任はないし、、、」てな、ところでしょう。結局、自分たちの保身、縄張り確保が第一なのでしょう。だから消費税減税も言わないし、本気で政権をとる気もない。

立民は山本太郎を野党統一候補としてかつごうとしたのに、消費税減税を次の国政選挙で共通政策にすることはできない、「れいわ」の名前を出すのも許さない、では、山本太郎氏としては話にならないでしょう。一方、宇都宮氏と言えば、都知事選では何度も惜しいところで敗れてきたり、統一候補のために出馬を断念した経緯もあり、是非とも勝ちたい、という意志は強いと思われます。その宇都宮氏が、立民の支持を得るために、いくつかの自分の主張を引っ込めるのも理解できます。勝たなければ何もできないのだから、勝つためにはなんでもやるというのはもっともです。しかし、それがために万が一のしがらみで理想とする都政が実現できなくなったのでは困ります。

山本太郎は次の国政選挙それからその先のことを考えて、知事選の野党統一候補として担がれることを拒否しました。ならば、なぜ都政に出るのか、筋違いではないかという話もあるでしょう。ただ、私が思うに参議院時代に、あれだけ政権をするどく批判し、野党にも語りかけて変えようとしたのに、議会はまったくピクリともしなかったのです。というのは、議会にいる多数の議員がタダの政治屋、プロレス業界の住人に過ぎないからでしょう。結局、彼らは自分の議席とそれに付随する利得しか考えていない。結果、彼らは議会をバカにし、情熱をもって世の中をよくしたいと行動する人間を白けた目で眺める障害物になってしまっている。そんな議員を、山本氏がいくら熱弁をふるっても変えることはできないし、却って「パフォーマンス」と冷笑系の有害無益の人々に笑われてしまうのが今の日本の残念なレベルです。そして、国会議員一人ではできることはわずかです。

東京都知事のパワーは大きいです。国政で言えば内閣総理大臣に匹敵する。思うに山本太郎の理屈は、地方自治というのは結局、カネを出す政府に紐づけられ思うような政策が実現できておらず、地方の首長の不満は大きい。東京知事というポジションを利用して、東京を変え、そして地方の首長と共闘できれば、政府をも変えていけるのではないか、ということなのではないかと思います。また東京知事という立場で人々を啓蒙していくことができるのなら、国政の選挙にも影響を及ぼすこともできるでしょう。この辺は、私が勝手に想像していることですけど。

いずれにしても、その「大義」が正しいものであるならば、あらゆる手をつくせばよい、と私は思います。しかし、山本太郎にとってみれば、これは大きな賭けであり、とくに、現職の再選を許してしまえば、宇都宮支持層や野党からも批判を受けることになりかねない。(強いものに媚び、弱いものはいじめる文化の日本ですからね)。

ただ、現在、彼以上に建前を本気で通そうとする政治家を見ないし、その驚異的な行動力と戦略性は類を見ないです。是非とも凡庸な政治屋と白けた国民に潰されないようにと願うばかりです。これまでも、世の天才をつぶしてきたのは、愚かなエゴに満ちた凡人の群れですから。
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流行のつづき

2020-06-16 | Weblog
前回に続いてもう少し。コロナの活動抑制を機に、生化学を学び直していました。知れば知るほど前世紀の生化学の時代の研究の緻密さやその成果に感動しますね。

厳密科学を生物学に応用することで、生物学は博物学から科学に進化しました。それによって、生化学、それから分子生物学はおどろくべき発達を遂げました。その歴史を振り返ると教科書に書かれている一行の記載には、気の遠くなるような先人の努力が込められているのを実感します。そして、教科書に当たり前のように書かれていることがらが私にとっては目からウロコ的な気付きに溢れています。

私が学生のころは生化学的分析手法の流行が終わりつつあり、分子生物学、つまり生命を遺伝子のレベルで理解しようとするのが流行となっていました。そのレベルとなると分子はすでにかなり記号化されており、物理的化学的実体として扱われることは少なっていました。私が研究を始めた頃は遺伝子組み換え技術を学ぶところから始まりました。AdenosineとThymidine, GuanosineとCytosineが水素結合して二重鎖DNAを作るという言葉は知っていても、どの原子の電子がどこの水素とどれぐらいの距離でどのように反応しているのかということについては知りませんでした。ちょうど、コンパイラの原理を知らなくてもコンピュータ言語を知っていればプログラムは書けるようなもので、通常の分子生物の実験をするのに必ずしも生化学や物理の知識は必要ではなかったです。

それで今回、生化学をちょっと学びなおし、記号のレベルから物理的実体としてのエレメントのレベルへ降りていって眺めたら、驚くような世界が広がっていたという感じです。

月日が経って、分子生物の流行は過ぎ、その後の分子遺伝学の流行も過ぎ、現在の流行をどういえばいいのかわかりませんけど、ただ生命現象の記号化と抽象化はますます進行しているように感じます。ものごとを「理解する」ということはほぼイコール記号化し抽象化して一般化するということではあるのですけど、その過程で除かれる実体としての生命の手触りとでもいうものの欠如、それが、どうも私が現在の流行としっくりこない理由なのではないかと感じているのです。

というわけで、生命を記号化することで生命は科学となり生命科学は進歩したと私は思っているわけですけど、だからといってそれで「生命」そのものが理解できたわけではないです。結局は理解というものは論理を積み上げるだけではダメで、最後は直感的飛躍というものが必要なのだと思います。それを保証するのは実体の手触りではないかと思います。

実験にしても同じで、自分の目で細胞や動物を見て、触って確かめることが生物学であって、それが様々な解析のデータと結合した結果として科学があるという形でないと、私はしっくりこないのです。生命の記号化がどのように生の生物から行われるのか、そこの手触りなしに大量の記号データをいじって新たな記号や方程式を生み出すのは、私にとってはヴァーチャル リアリティーであって、どんなにリアルにすごい世界が示されても、「すごいね」とは思いますけど、やってみたいとは思いません。

かつて、サイバネティクスというのが60年台ぐらいに流行となりました。それから30年ほど経って、コンピュータ技術の進歩でリバイバルしたのが、Artificial Life(人工生命)でした。それは、現実には存在しないが論理的にありえる生命の形を考えることで、生命とは何かという疑問に答えようとした試みでした。その流行も去って、また30年ほど経とうとしていますから、そろそろまた復活するかも知れませんが、そもそもなぜこうした試みが一過性の流行で終わってしまうのか、私はそれが手触りの欠如ではないのかと思うわけです。

同様に、昔、Unpluggedというアコースティック音楽が一時、流行りましたが、それは合成音楽や電気音楽に対するアンチテーゼでありました。それ以前、シンセサイザーができて様々な音色を模倣したり新たに作り出したりすることができ、音を人工的に変えることが流行りました。みんな「すごいね」と言って、これからはオーケストラがなくても一人でストリングス セクションもホーン セクションもできるし、自然に存在しない音も合成できるし生身の人間が演奏できないような曲もできる、と言ってテクノ音楽なんかも流行りました。でも昔ながらのオーケストラも無くならなかったし、テクノ音楽も一時のブームで去っていきました。そして、アコースティックへの回帰が起こりました。つまり、これも「手触り」の問題であったのだと思います。一旦電気信号に変えられた音が、様々なプロセスを経て加工されるあいだに、「手触り」が失われることに音楽家や聞き手はしっくりしなかったのではないでしょうか。

また、変に長くなってしまいそうなので、続きは(あれば)また後日。
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流行

2020-06-11 | Weblog
数年にわたるスランプに加え、コロナの活動抑制で思うように仕事もはかどらず、時間だけが経っていくというのは、精神に悪いですね。この数年、何かと投げやりな気分になることが多くて参ってました。長年面白いと思ってそれなりに情熱を注いできた研究も、最近の業界の動きを見ていると、興奮を覚えることが少なくなりました。だんだんと自分が時代の流れの外にいることが実感されます。困るのはその今の時代で流行っているようなスタイルの研究がしっくりこないことです。大量データをコンピュータ上で解析して記述的な論文というのが多く、確かにデータを集めるのも人手と労力がかかっているのはわかるし、解析もいろいろな方法を駆使してやっているのもわかるので、「すごいね」とは思いますけど。自分ではやりたいとは思いません。やはり研究も客商売的なところがあり、唯我独尊で我が道を行くでは認めてもらえないし、流行はある程度積極的に取り入れていく必要があるのはよくわかるのですけど。、これは好みの問題だろうと思うのですけど、流行になっているものにあまり興味がわかないとちょっと困ります。

音楽のジャンルのようなもので、私が学生のころはフュージョンというジャンルが流行っていて、ロックやファンクのリズムにジャズっぽいメロディーをのせてたりするやつで、多分、マイルス デイビスなんかが電気楽器を使いだしたあたりから始まったのだと思いますけど、その系統でWeather Reportとか日本だと、ラテンとのフュージョンのナベサダとか松岡直也とか、ロック系だとカシオペアとか、流行っていました。私も当時はそういうのが好きでした。それから月日が流れ、私はジャズもロックもソウルも聞かなくなり、クラッシックと民謡系の方が好みになったわけですけど、一方で、若い世代で流行っていた音楽、ヒップホップとかラップとか、に全く興味がもてませんでした。レセプターがないのでしょう。趣味ならいいのですけど、時代の流れにシンクしていないというのは研究ではかなり問題です。

話がズレましたけど、要は、私はまだそれなりに研究に興味をもっており、自分がやろうとしていることは意義があることだと思っているわけではありますけど、一方で、それを評価する世間の流行は変化していっており、私と世間とのズレがこの数年のスランプで、実感されてきたということなのです。つまり、流行というのは、世間の大勢の人々が欲しているもののことで、今なら例えばコロナウイルスとCOVID19関連の研究です。そういう情報を世間が求めているので、科学的に必ずしも優れた研究でなくても、話題性で一流紙に載ります。流行がおこると大勢の研究者が我先とその分野に参入してきて驚くべきスピードで多くの研究成果を出します。そうして数年たつといろいろなことがわかってきて、答えるのに難しい部分のみが残されます。そうした問題は重要でないわけではないのですけど、あえてそれを追求しようとする人は少なく、そして流行が終わります。

問題は、時代とシンクしなくなりつつある私はどうすればよいのかということです。若い人々が新しいアイデアを持ってきて独自に発展させるのを補助するようなことができるのなら喜びですけど。あいにく、そんな優秀な若者は滅多にいないし、いたとしても、そういう人は私のような人間の助けを必要としません。ちょっと寂しいですね。
愚痴っぽくなってきたので続きはまたいずれ。


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経済成長は良いことか

2020-06-09 | Weblog

感染が長期化すると悲観的に見た場合、景気回復は「著しく力強さに欠ける」ため、20年の実質成長率はマイナス8%に落ち込む。早期に収束し「急激な回復が始まる」楽観シナリオでもマイナス4%近くとなり、リーマン・ショック後の09年よりも悪化する。

という記事。

カネの話は前にもしました。私は専門家ではないので気楽に思うところを言いますが、経済成長を目指すことこそが地球を破壊し人類を滅亡に導く原因ではないかと思うようになりました。経済成長、つまり経済活動の規模の増大がよいことである、と普通は考えられているのでしょうけど、地球規模でみれば、経済活動の増大は環境破壊を促進するし、またまた人々の生活にカネが必要で自由競争を是とする社会では、それはインフレと格差を招き、多数の弱者に生きづらい世の中にしていっていると思います。

そもそも、どうやって経済が成長していくかを考えればいいです。経済の成長は借金によってなされます。この話は前にもしましたが、借金ができない世の中では家や車をローンで買うなどということはできないので、経済活動は低くなります。しかし、借金で増えた経済規模は借金を返すことによって縮小します。だから、消費者の収入と借金の規模が共に増大していき、常に借金をし続けるという自転車操業的経済サイクルが成長には必要です。然るに、このような高回転型の経済は、一つ歯車が狂っただけでクラッシュします。歯車が狂わなくても、高回転型経済でインフレとなっていきますから、そのコントロールのために中央銀行は金利を上げます。これは負の連鎖を容易に起こします。経済成長が高ければ高いほど、落差は激しく、国民は借金を控え、消費を控え、モノが売れなくなって、リストラされ、借金が払えなくなって破滅するということになります。

この借金に依存する経済成長というメカニズムは人々の生活の安定と地球環境を犠牲にしています。そのことが、このコロナの間の活動抑制でよく実感されたのではないでしょうか。目指すべきは経済成長ではなく、生活の安定と環境破壊の抑制ではないかと思います。すなわち経済活動を抑制した上で人々の生活を安定させる工夫だと思います。というわけで、また同じ話ですけど、ベーシックインカムによって生活に必要なレベルの収入を国民全員に保障することが、その処方箋ではないかと思います。加えて税制の公平化。トリクルダウンのような詭弁で金持ちの大企業に減税して消費税で貧乏人からも取り立てるというようなものは辞めないといけません。企業にもベーシックインカムを払いましょう。社会を回すのにに必要な仕事をしている会社は潰れないように保障し、環境破壊に繋がるような過度の活動は法制と税制などで抑制すべきだろうと思います。

現代の資本主義という非常に動物的、原始的なシステムは変えるべき時に近づいていると思います。なぜ、日本もアメリカも国家収入をはるかに超える予算を組み、借金で賄うことで、利息が積み上がって、永久に返せないような状態になっているのかを考えてみればいいです。役に立たないマスクに何百億というカネを使い、電通とパソナに予算を回すためにトンネル会社を作る。官僚はかつては箱物を作って天下りする。そこに群がる人々が税金を盗んでいるからでしょう。植民地の番頭政権が宗主国に国の富を貢いでいるからでしょう。こういう中世のような原始的社会はいい加減終わりにするべきです。世界規模で人々の意識は変わりつつあると思います。過去を振り返れば、人権の尊重、地球環境の尊重、大多数の人々が自らの不自由と引き換えに世界の人々のことを考えるようになってきました。人間が単に他の動物よりも多少ずる賢い動物であるだけではなく、人間は他の動物とは異なった人間特有の人間らしさという点において成長すべきだと多くの人々は考えるようになっていると思います。

現在の資本主義、新自由主義が肯定しているのは、動物の社会であり、経済成長ばかりを目指すのも同じことだと思います。人間らしい社会は、成長しないが低め安定し、よって人々の生活が保障される経済システム、つまり、サステインナブルなシステムのある社会だと私は思います。 今回のコロナ一発では難しいでしょうけど、そういう議論が活発化すれば遠くない将来に、今の破綻するのがわかっている経済システムは人々の力で変わっていくのではないでしょうか。
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コロナとベーシックインカム

2020-06-05 | Weblog
ちょっと前の続きみたいなものですけど、今回のロックダウンによる地球環境の改善を見ても、地球の環境を急激に破壊してきたのは人間のカネ儲けのための活動であると結論できると思います。人間も生きていくために地球のリソースを使うのは当然ですけど、すでに年間300種の生物が絶滅していっており、海洋汚染が深刻なために遠からず海産物は有害すぎて食べれなくなり、温暖化のために南アジアや世界の沿岸部の主要都市はそのうち水没するとか言う話を聞くと、その原因となっている人間の活動が行きすぎているのは明らかです。なぜ行きすぎるのか、復元する方法も知らないのに地球を破壊しつづけ、処理する方法も知らないのに放射性廃棄物を延々と作り続けるのか、その動機は単純にカネでしょう。人々が人間らしく生きていくために必要なモノが効率よく生産され分配されているなら、あのアベ一味のように、「今さえ、自分さえよければいい」という醜悪な利己主義者も少なくなるでしょう。とりあえず、最低限の生活の保障があるならば、何も、満員電車にのって毎日会社に行って必要もないモノを作ったり、欲しがっていない人に売ったりする必要もないです。働きたい人が働けばよいです。やりたい仕事をやればいいです。病院も経営のためにでベッドの回転数を計算する必要もなく、病気で苦しむ人のケアと治療に専念できるでしょう。必要なモノが効率よく生産されるテクノロジーはあります。その価値の分配が効率よく行われないことが問題です。できない理由は、その分配をカネとの交換によって行っているのに、カネが偏在しているからです。そのカネもそもそもが幻の実体のない口座の数字にしか過ぎないわけです。どうせ無から作り出した数字なのですから、みんなの口座の数字を毎月、一定の割合で政府が増やしてやれば、モノの分配は効率化するでしょう。口座に一定の数字が保障されるのなら、その数字を増やすためだけのために、とくに必要もないものを、環境破壊してまで作る必要もないでしょうし、売り込みのために大の大人がパワーポイントでお絵かきして一日を過ごす必要もないと思います。

今の世の中では、カネの力はその偏在性から生まれていると思います。世の中全員が金持ちならば、カネに何の力があるでしょうか。札束で頬を叩けば、叩き返されるだけのことです。そのパワーはカネのない人間をカネを持つ人間が支配できるからこそ生まれます。資本主義とは持てるものが持たざるものを支配し彼らが作り出す価値を搾取する動物的なシステムです。市場原理とか自由競争が効率化を促進するとして小泉政権ぐらいからネオリベが跋扈し続けてきた結果、格差はどんどん広がり、弱者は自己責任と言われて見捨てられる世の中になってしまいました。人はさまざまに姿を変えた資本家の奴隷となり、Karoshiという英語も広がりました。国民のために使うべき国の予算はトンネル会社を通じて、その国民を洗脳し搾取している会社に流れました。表向き年間3万人、多分実体はその数倍という自殺者を出す日本の世の中で、社会システムは中世と変わりません。自殺のもっとも高い理由は経済的困窮です。

そういう事情で、私もはベーシックインカムのアイデアに賛成です。これはカネの話ではなく、人間性の話です。せっかく生まれてきたのに、大勢に人々が自ら命を断つところまで追い詰められてしまう現在の非人間的な社会は、人間としての責任で、変えなければならないと思います。今回、スペインがこのコロナを契機にベーシックインカムの導入を決めました。チラッとツイートしたのですけど、この際の問題はスペインがEU加盟国であることではないかな、と思いました。EU中央銀行はスペインの管理下にはないので、当面の財源を確保するのにもしEU中央銀行から借金をする必要があるなら、利息を払わないといけなくなるので、ベーシックインカムは短期で破綻する可能性があります。スペインが自給自足できていているのなら、独自通貨を復活させるという手も使えると思いますけど、それは大多数の国民が現在の金融システムの根本的問題を理解しなければ難しいかも知れません。
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理性を失わないこと

2020-06-02 | Weblog
ここ数日話題になっているのがミネソタでの警官による黒人男性傷害致死事件。全米でプロテストが巻き起こり、それに悪ノリする連中が出てきて暴徒となり無差別破壊行動にでています。「これはプロテストではなく、カオスだ」、黒人人口が多い南部の中心地アトランタでは黒人市長が涙ながらに暴動に出る人々を諫める映像が話題になりました。

こういうのは世界同時多発するもので、東京では職務質問に応じなかったクルド人への警官の暴行が動画で拡散され、デモになりました。また、イスラエルではエルサレムで丸腰のパレスティナ人がイスラエル警官に射殺されるという事件も二日前に起こっています。日本の入管での外国人への虐待は、度々、ニュースになっておりますし、イスラエル建国以来、連綿とつづくパレスティナ問題については、近年ますます攻撃的になったイスラエルは世界的反感を買っています。つまり、世の中が排他的、差別的、攻撃的、になってきているとだと思います。つまり、人間性の退行であり、その理由は人間の動物的な欲求が満たされていないからではないでしょうか。残念な傾向です。独裁者にとっては都合がいいのでしょうけど。

今回の警察の殺害とプロテストと続く暴動は、コロナでの外出抑制でストレスが溜まっていた人々の吐口となったという理由もあると思いますけど、人が集まって感情的になっていると、理性というのは簡単に吹っ飛ぶものだなあ、と思います。人間は感情の動物ですが、その動物性を制御することができるのが、人間に与えられた理性というものです。感情が豊かであれば、なおさらそれを制御できる理性が必要です。権力や力を持つものにとって、理性による感情のコントロールが重要なのは言うまでもないです。まして、意図的に権力を利用して他人を傷つけることによって鬱憤をはらすなどもってのほかです。

残念ながら、この手の権力を利用して他人を傷つけて鬱憤をはらす輩はどこにもおります。パワハラですね。そういう人は自分が何をしているのか理解していないところが厄介です。わかっていたら、普通はやらないでしょうからね。問題は同調圧力の強い日本の社会で、受身的にいじめに荷担してしまう人々でしょう。この同調圧力が日本のいじめ問題を陰湿なものにしていると思います。

私、昔から、権力をふりかざす連中が大嫌いで、つらつら思い起こせば、中学生のころに読んだ星新一の「人民は弱し、官吏は強し」に衝撃を受けたからではないかな、と思い当たりました。陰湿で悪意のある人が組織の権力をもった場合には、普段は善良な人でも個人の良心よりも組織を優先させて、悪事に荷担してしまうのでしょう。モリカケでの財務省の偽造、捏造は記憶に新しいです。

しかし、生まれながらに邪悪な人は2-30人に一人ぐらいはいるらしいです。生まれ持った性格異常のそうした人はどうしようもないですけど、そういう人間が強大な権力をもつようになるというのは、世界の悲劇でしかないです。どこかの法務大臣のように、本来普通の人間でも、邪悪な人間が権力を持つ組織に属して、追い詰められると見え見えのウソを国会でつくようにもなります。

感情という動物を制御できるのは理性です。理性を働かせるには立ち止まって考えることだと思います。宮澤喜一は「保守」とは立ち止まって考えることだと定義しましたが、それは、保守とか革新とかいう以前の問題であると思います。考えずに現状を肯定するのも、考えなしに破壊行動にでるのも、人間としては、ダメだと思います。


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