百醜千拙草

何とかやっています

シンクロニシティ

2022-10-28 | Weblog
朝の3時間をかけて3行。今やっている論文の作業はこのペースが続いています。この論文(というか、書き物)は、preprintに出して、時間ぎれになって終了になると思いますが、三年ぐらいはやっていたので、データはそれなりにあります。残念ながらストーリーとしてうまくまとまらず、もし雑誌に投稿した場合にはよくてMajor revisionで、追加実験を要求されるのは間違いないのですけど、それをやっている時間も材料も人もありません。そんな状況なので、モチベーションが湧かず、他にも色々と別の考えることなどがあって、グダグダしている間に時間が経って1日が終わるという状況になっています。この論文がどういう風に終わっても、研究分野の将来にも私の将来にも大きなインパクトもなく、個人的な満足感もないというのはわかっているので、何とか義務感だけでやっておりますが、発展性の見込めないことに時間を費やすというのはあまり楽しくはないです。ま、暇が潰せてよかったと考えるようにします。

先日発表した新規希少遺伝性疾患の論文について、共同研究者の人からメールが送られてきました。そこにあったPubMedのリンクを見ると、我々の論文と並んで、我々のケースと同じ遺伝子の変異に関する論文が全く別のグループによってJCIに発表されていました。このプロジェクトを始めたのは3年前ですから、今の時期に論文が発表になったのは全くの偶然です。多分、もう一つのグループも同様でしょう。このような激レア遺伝疾患を研究するプロジェクトが全く独立して行われ、何の打ち合わせもなく、同じ月に論文となって発表されるという偶然は、私は初経験なのでちょっと衝撃でした。あらかじめ知っていたら、こちらもJCIに投稿したのになあ、と思った次第。ま、雑誌はどうでもいいですけど。やっぱり、世界は誰かがシナリオを書いていて、我々は神の見えざる手に操られているのかも知れません。そう思っておくのが精神衛生にも良いように思います。

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甲板の椅子を並べ替える

2022-10-25 | Weblog
「(タイタニック号の)甲板の椅子を並べ替える」という表現は、本質的な問題の解決につながらないムダなことをすることの喩えによく使われます。これは愚かな行いへの批判ではありますが、本質的な問題に対してできることは何もないという絶望的状況を鑑みると止むを得ないと思わせる部分もあります。

一方で、できることややらねばならぬことは一杯あるのに、わざわざどうでもよい仕事に時間とカネを費やしたうえに、椅子の並べ替えでさえやってるフリしかできないという同情の余地なしの某国の与党政府もあります。が、今日の本題は某国政府の無能と腐敗の話ではなく科学出版の話。

先週末、ツイッターから流れてきてかなり大きな議論になったのが、科学雑誌のeLifeの出版ポリシーの変更についてでした。Natureなどの商業出版の金儲け主義に対抗してアカデミアが主体となってPLoSやこの雑誌が出来て、効率的な科学知見のdiseminationを目指して活動してきていますが、今回それをさらに変更するという話。

論文を有名雑誌に載せることは、研究者にとって研究費の獲得や昇進やポジション獲得に密接に関わっており、有名雑誌はの限りある紙面に論文を載せるために自然と競争は激しくなり、不必要に厳しいレビューアからの要求を満たすことが求められます。そのために重要な知見がタイムリーに発表されず、本質的にムダな実験などを強要され、時間とリソースが無駄になっているという現実があります。

この特に有名雑誌におけるピア レビューのシステムが、科学知見の速やかで効率的なdisseminationを阻害ししているという問題は随分前から問題視されており、その批判は正当なもので、現在のPreprintにとりあえず発表するというトレンドはそれに対する解決法の一つだと思います。eLifeもそうした科学出版の不条理に対して、レビュープロセスの公開など野心的な試みを従来から行なってきている雑誌です。

しかし、先に述べたように、論文出版は知見のdisseminationという目的以上に、研究者の評価のメトリックスに使われるという現実があります。有名雑誌に数多く論文を載せることが、研究者の研究資金や職、つまり「カネ」に直結しています。現実に研究資金もポストの数も圧倒的に足りないという激しい競争があり、それに勝ち抜くためのポイントが有名雑誌に論文を発表することですから、有名雑誌に論文を載せることは簡単であってはならず、そのことが論文出版において本来の知見の伝播を非効率にしていると思います。とすると、科学出版の非効率さのそもそもの原因は、突き詰めれば、研究者の数に対して「カネ」が足りていないことです。そして、カネの不足という本質的な問題は、国家的政策を通じてでしか解決困難なものなので、ただちにそれを解決する有効な方法はないという状況にあります。

ですので、今回のeLifeの試み、「アクセプトもリジェクトもしないでレビューされた論文は直ちに出版する」は、論文出版の迅速化には多少有効かもしれませんけど、そもそも論文出版が非効率であるのは、カネの相対的不足による研究者間の激しい競争があって、その勝敗が論文出版にかかっているからであるという本質が無視されているように思います。(というか、この本質的問題に対して一出版社は何も出来ないという状況であると思います)結局、このeLifeの編集方針の変化が本質的に科学出版のあり方を変えるかと言われたら、これ他のツイッターでコメントを寄せている人々の多くと同じく、私も懐疑的ですし、正直、椅子の並べ替えレベルの話で、逆にメトリクス的に混乱を招くだけではないかと思います。

私は、原著論文はすべてPreprintサーバーのみに発表して、オンライン上で分野の専門家が相互評価をつけるシステムにすればいいと思っています。自分の論文を評価しせもらうためには他人の論文を評価することを義務付ければピアレビューはフリーのpreprintのプラットフォームでも成り立つでしょう。そして、商業雑誌や学会雑誌などは、二次的に原著論文を解説する場にして、基本的に総説論文のみを掲載するようにすればよいと思います。ま、このようなアイデアにこの巨大な科学論文出版ビジネス業界が賛成するわけないとは思いますが、それでもビジネスとして成立すると思います。

この記事の一部をDeepLします。
、、、
eLifeでは、査読したすべての論文を、査読と評価とともにReviewed Preprintとして公開することで、論文を独立させることにしました。、、、この新しいeLifeの姿は、著者がすぐに利用でき、1月からは私たちの唯一の運営方法となる予定です。
、、、
研究結果を精査にかけることは、科学的プロセスにおいて不可欠なステップです。そして、査読者に著者の方法、データ、推論における欠陥を特定し、修正する手助けをしてもらうことは、本質的な価値を持つものです。しかし、この精査を出版決定に結びつけると、プロセスが歪み、事実上、推奨が要件に変わってしまいます。その結果、著者はしばしば不要と思われる実験や分析を行い、自分が信じているアイデアや洞察を作品から取り除いてしまうのです。
、、、
最も重要なのは、論文を学術雑誌に掲載することに重点を置いた結果、学術雑誌の名前が事実上の研究キャリアにおける通貨となり、何を出版したかではなく、どこで出版したかに基づいて科学者を判断する慣習が制度化されたことです。、、、
このような病理に直面し、世界中の科学者が、科学出版と科学におけるその地位をより良くするために具体的な行動を起こしています。、、、

この新しいモデルの本質的な要素、つまりプレプリントを独占的に審査し、公開査読と評価を作成することは、すでにeLifeの編集プロセスの中核をなしています。現在行っている最大の変更は、査読後に採否を決定しないこと、そして当然ながら査読者に出版推薦を依頼しないことです。、、、

投稿されたすべてのプレプリントを審査する能力はありませんが、審査に出した論文はすべてReviewed Preprintとして公開します。これは、著者の原稿、eLife評価、個々の公開査読を含むジャーナル形式の論文です。、、、

というわけで、プロセスとしては、投稿された論文をエディターがレビューに回すかどうかの判断をし、レビューされたものはレビューが終わった時点で出版料($2,000)を取って、レビューを含めてをつけて出版し、reviewed preprintという体裁になるということです。この出版形式がどのように研究者のメトリックスに使用されるのかは興味のあるところですが、問題は最初の部分で投稿されたものはどうもエディターが取捨選択するらしいという点でしょう。つまり、レビューアは評価をするだけで採否の意見は言わない(この辺はNatureとかと一緒ですね。違うのはエディターも採否の判断を行わないという点ですかね)。詳細が不明ですけど、レビューに回りさえすればreviewed preprintとして出版するというのなら、これはエディターの独断だけで採否が決まるということを意味するのかも知れません。そういうことであれば、この雑誌の論文の質の保証が怪しくなり、雑誌の評価は下がり、誰もこの雑誌に発表したいと思わなくなるかもしれませんね。あるいは、reviewed preprintという出版様式が正式な査読付き出版であると評価されるのならば、投稿数は増えて評価が上がるかもしれません。
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ベーシック インカム

2022-10-21 | Weblog
前回の話を少し掘り下げようと思って書き始めましたが、政権批判のおかげで、本論に入る前に長くなりすぎましたのでBIの話はまたの機会に回します。

憲法で定められているように、国民は納税、教育、勤労の義務がありますが、一方で、国民の安全と生活を保障するのは国家の義務です。そしてパレンス パトリエの概念が近代民主主義国家に共有されるものとすれば、そもそも国民がその義務を果たせるように、教育を受けさせ、勤労機会を与えるのは国家の義務でもあります。

しかるに、今の日本政府はその義務を果たせていません。元祖ポンコツのスガは、国家が国民に果たすべき義務を果たせていない己の無能を恥じるどころか、自助、共助、自己責任だ、と開き直りました。税金泥棒と言われても仕方がないでしょう。(事実ですが)

単に無能というより、与党の党利党略のために故意にその義務を無視しているのが現状です。己が利益のために国を荒廃させ、国民の生活を破壊し、国富を売り飛ばす、ということをやり続け、結果として日本を社会、経済、環境において二流国にしてしまいました。権力は腐敗するものです。派閥政治が機能しなくなってきたこの20年ほどの自民党では、腐敗は進む一方で、その腐りに腐り切った政権が安倍政権とその後に続いた政権であったと言えるでしょう。しかし、そういう政党をのさばらせたのも日本人ですから、政治腐敗は民意であったと言われても仕方ないですが。

長期的に見れば、日本の国民が豊かで幸せであることは国力に直結します。日本の国際的地位や信用は上がり、ビジネスでも国防においてもプラスになります。事実、20年前は、日本人は信用できる、日本製は安心、日本は先進国、というイメージが海外にあり、日本円も強かったので、外国では日本人であるというだけで随分、得をしました。無論、そのイメージは私より上の戦後成長を支えた人々が築き上げたものです。例えば、紡績機械を作っていた会社が自動車を作り出し、そして北米で車を販売し出したのは60年代ぐらいでした。その信用ゼロの状況からたった二十年ほどで、海岸沿いの都市部では日本車でない車の方が珍しい状況に変化したのですから、これは日本企業がゼロから築き上げた信用と実績の一例です。

その日本への国際的信用が失われつつあります。その最大の理由は政治の無能です。少なくとも国際的に日本の失墜は「誤った経済政策」つまり政府の責任であると評価されています。そして、その政治の機能不全の原因は与党の腐敗であると断じて良いと私は思います。

例えば明石市が示したように、国民が喜ぶ政策をすれば、国民は豊かになり、結果として政府も税収も上がってWin-Winのはずです。しかし、結局与党の政治家は自分が死ぬまでの数十年の間だけ、自分さえよい思いができればよいと思っているのでしょう、目先に海老があれば貪り喰ってしまい、それで鯛を釣ろうとする知恵を出す気もないようです。長期の繁栄などどうでもいいと思っているから、20年以上かかる子育てというプロセスの支援でさえ、一回ポッキリのクーポンでお茶を濁そうとする。呆れ果てますね。これは本気で少子化対策をする気はさらさらなく、アベ式の「やってるフリ」をしつつ、クーポン事業者に票の見返りに中抜きさせるのが目的でしょう。好意的に解釈すれば一種の景気対策での公共事業とも言えなくもないですが、ほとんど本来の目的を達する効果がないのが問題です。

これまでも、自民党政府は、経済対策、雇用政策として、必要もない道路工事、ダム工事、再開発などなど、金を利権業者に流して一瞬の雇用を作り出すということを長年やってきました。そうして、自然を破壊し、木を切り倒し、道路を渋滞に巻き込み、騒音を作り出して、要らないことをしてきました。しかし、経済対策が目的にせよ少子化対策が目的にせよ、最も簡単で最も効果の高い「直接現金給付金」や「消費税減税」は頑なにやりたがりません。思うに、これをやってしまうと、景気が良くなり少子化が解消されて、「問題」が解決してしまい、与党政府が理研業者に金を回すための口実がなくなってしまうからでしょう。利権団体と票、与党政府は、その権力維持のためには、むしろ問題が解決しない方が望ましいと思っている、それが経済政策の失敗の原因だろうと私は思います。

だから自民党は、アベ式、全てやってるふりで、いつも「道なかば」。国会では、のらりくらりと言い訳し、都合の悪いことは嘘とハッタリ、挙句に逆ギレ、証拠文書は、偽造、捏造、改竄、隠蔽のフルコース。自分の地位と権力が維持できれば、国民の生活も国益も政府のインテグリティもどうでもいい、それが彼らの本音でしょう。

そうした独裁政権の国々がどのようなことになったかを見てみれば、このまま自公政権をのさばらせたら非常にまずいことになると実感されるのではないでしょうか。ナチス ドイツ、フランコ政権のスペイン、イスラム革命後のイラン、中国共産党下の香港、プーチンのロシア、、、明日は我が身です。

前置きが長くなってしまいました。前回の話のベーシック インカムの話をしようかと思っていましたが、その時間がなくなってしまいました。ベーシック インカムはまだまだ実験的な制度で、実施に当たってはその受給資格、対象、給付額や財源などの問題の議論が必要ですけど、給付額を最低限の生活の保障ができるレベルに低く設定すれば他の社会保障財源のやりくりで実現は可能だと思います。続きはまたの機会に。
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マイナンバーとベーシックインカム

2022-10-18 | Weblog
マイナンバーカードに健康保険や運転免許などなど、個人情報を一括してしまおうという話が出て、先の国葬のように反対の声が上がり、署名活動まで始まりました。国民が真剣に危惧するにはそれだけの理由がありますが、中でも「政府が信用できない」、「政府がこんな事業を遂行できる能力があると思えない」というのが最大の理由でしょう。

そのほかにも、いくつか反対の理由はあります。

まずは法的な問題。国民皆保険制度の元では、これはマイナンバーの強制になるので、マイナンバーは任意とする法律に違反します。それから、保健証番号があれば保険診療が受けることができるという法律があるので、マイナンバーを取らないことを選択した国民が保健医療を受けれなくなることになる可能性があり、これは権利の侵害になるということ。
第二に、システムの問題。個人情報を金融口座情報などと一括して管理することになるが、その安全はどう保障するのか、という問題。
そして第三に、ロジスティックな問題。そのカードを紛失したり盗まれたりしたらどうするのか、あるいは個人情報が遺漏した場合にどう対処するのかという問題。
最後に、これはすでに報道されていますが、システムを作る業者の利権に絡んでいるといういつもの自民党の問題。つまり、税金の中抜きのための「やってるフリ」プロジェクトであるということ。

ソーシャル セキュリティー(社会保障)番号で個人情報を紐づけているアメリカでも、ソーシャル セキュリティーカード(ただの紙切れですが)を持ち歩くこともなければ、保険証も運転免許も別々に管理しており、SS番号がこれらに明記されることも今はありません。ソーシャル セキュリティーカードは大切に保管してむやみに持ち歩かないことを推奨されています。

このように多くの人が多くの理由でマイナンバーカードへの情報一本化に反対していますが、結局、この案に反対する最大の理由は「政府が信用できないから」なのです。
そりゃそうでしょう。国会で平気で嘘をつきまくり、憲法は守らない、法律は破り、国会を軽視し閣議決定で何でもやりたい放題、公文書は改ざんし、統計数字は操作され、情報開示請求をすれば、全部、海苔弁で出してくるような政府を信用しろという方が無理です。そもそも、前科が多すぎる。消えた年金問題、安倍は「最後の一人まで調べてお支払いします」と約束したが、やはり口から出まかせのウソ。年金台帳でさえまともに管理できないし、失態を犯しても知らぬふり。

さて、政府の無能と利権の話は置いておいて、アメリカのように国民背番号制を導入するのは、国と国民の双方にとってメリットとデメリットがあります。国民にとってのデメリットは、この番号が銀行口座、納税情報、運転免許などのさまざまな個人情報と結びついていることでしょう。今の日本政府の能力では個人情報の漏洩は最大の懸念ではないでしょうか(情報がきっちりと守られるなら、メリットでもあるわけですが)

アメリカでの社会保障番号は、基本的に社会保障を受けるのに必要な番号で、納税記録から納めた社会保障税(年金)の総額とクレジット数に応じて支払額が決まります。国からの年金給付やサービスを受けるのに必要な番号です。然るにマイナンバーに国民は不安は感じてもあまりそうしたメリットが目に見えません。なので、この背番号制を普及させるには、国民にとってメリットがあると納得してもらう必要があります。

その比較的簡単なやり方があります。ベーシック インカム(BI)を導入することです。BIは国が国民全員に給付金を振り込むわけですから、振り込み口座に納税記録とリンクしたマイナンバーが必要であるといえば、拒否する国民はまずいないでしょう。つまり、保険証も運転免許もマイナンバーカードに一本化するからマイナンバーを使わないと困ったことになるぞ、と脅す北風戦略をやめて、逆にお金をあげるからその口座に番号をつけてください、という太陽作戦をやれば良いのです。

それで、本題、BIは実現可能かという話。日本の現在の税収でBIが可能かどうかは専門家がすでに多くの議論をしていて、簡単に言えば、社会保障制度(年金と生活保護)の大部分をBIによって代替させることで可能と考えられているようです。BIで労働意欲が削がれるのではないか、という懸念はおそらく杞憂でしょう。BIは精々今の国民年金支給額レベルぐらいに設定されることになり、それだけでは生きていくので精一杯というレベルなので、労働のインセンティブが損なわれることはないと思われます。もう一つ、BIは破綻を防ごうとすると、給付はその国民または永住者に限る必要があるので、自然と外国人の受け入れは制限されることになります。あるいは、外国人にはアメリカの社会保障と同じく、10年以上のクレジット数の納税がなければ受け取れないという縛りをつける方法もあります。外国人の受け入れが制限されることは良い面も悪い面もありますから、ここはもう少し考える必要があります。また、BIは公平に国民に給付され、生活保護の大部分をなくしてしまうわけですから、生活保護の不正受給問題や逆に生活保護支給拒否問題も解決し、ワーキングプアと貧困の問題を改善するでしょう。

もうすでに長くなったので、続きはまたの機会に。

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パレンス パトリエ と パターナリズム

2022-10-14 | Weblog
キシダ政権、これまでではっきり見えてきたことは、キシダはスガ以上のポンコツであり、アベ以上の厚顔無恥ということです。露骨な利権のための政策を躊躇いもなく次々に繰り出してくるこの政権に、私は強い危機感を感じています。この政権が国民にやってきたこと、やろうとしていることをみると、無表情で子供を気絶するまで殴り続ける精神異常者を思わせます。国葬、統一教会、国防費の増加、高齢者の健康保険負担の増額、消費税増税、健康保険証の廃止、、、ここまで国民をボコリ続けてきた自民党をまだ支持する日本人って異常なM体質なのでしょうか。M体質の大人がプレイを理解した上でいじめて欲しいと言っているなら何もいうことはありません。普通に幸せに暮らしたいと思っている我々は、そんな人々の住むところからはなるべく離れて暮らすという選択をするまでです。しかし、そのような自由がなく、無理矢理に苦しい生活を強いられる弱い立場の人々や子供は守られなければなりません。

つい最近も統一教会の二世の方が、親に信仰を強制され生活をコントロールされて非常に不幸な未成年時代を過ごされたことを発表されて、統一教会を解散させて欲しいと訴えていました。安倍の殺害容疑者も同様です。未成年の子供であった頃には人生の選択の余地なく、この団体に家庭と自分の人生を破壊された人です。

自己責任論を押し付けられない子供や弱い立場の人をその人権を尊重しない親や社会から守るのは国家の責任です。これはParens Patriaeと言葉で知られる国家の義務です。然るに、本来、人々の基本的人権と生活を守るべき国の行政の長が自らの票と権力の欲のために、率先してカルト集団の広告塔となって、弱い立場の人間の人生の破壊に加担してきたということは、どんなに強い言葉で非難してもし切れぬ言語道断の所業であり、その一事のみを以ってしても自民党は地獄の業火によって焼き尽くされるべき極悪反社集団である、と私は感じています。

これまでの他の自民党の悪事、すなわち国民から税金を吸い上げる一方で、票を持っているオトモダチ企業に国家事業を通じて国家の富を付け替えるという自民党の売国政策に比べて、統一教会問題がこの3ヶ月あまり、ずっと追求され続けているのは、弱者の人権蹂躙に政権与党が積極的に加担してきたというただのカネの問題以上の問題だからではないかと思います。

パレンス パトリエの義務を日本政府は果たせていない上に、自民党政権はこのいわば、親としての保護義務、を似て非なる概念、パターナリズム(家父長主義)に意図的にすり替えようとしています。子供の権利保護のための支援をする義務が前者であるなら、後者は(父)親は「子供のためを思って」という建前によって子供(国民)の意思に無関係に行動などを強制する独裁主義のことです。

この家父長主義は日本の封建時代の社会システムであり、擬似民主国家である日本とはよく馴染みます。こうして腐敗した自民党政権は、その権力をとことん非民主的、利己的に行使してきました。

思うに、同様にこの手口を使ってきたのが、統一教会(世界平和統一家庭連合)です。なぜこのカルト集団が「家庭」にこだわるのか、それは父親が頂点にある権力構造(家父長権)によって力の弱いものを支配する構造を作っていくことが教団のヒエラルキーを維持する上で都合が良いからではないでしょうか。つまり教主を頂点に信者を搾取するこの団体は、「子供のためを思って」という建前で、絶対権力をふるう家庭の父親という下の単位とフラクタル構造になっているのです。教団がこの搾取構造を正当であるとするためにはその下位構造である家庭の中にも同様にヒエラルキーを存在させる必要があるいう理屈ではないでしょうか。だから、この教団の信者はその子供の意思を蹂躙することを躊躇わないのでしょう。親が子供にすることは全てが善いことであり、それは教団が信者にするのが正しいのと相似だからである、そのように洗脳されているのでしょう。

安倍はかつて、国民的から税金を「吸い上げる」と口を滑らせました。これがこの男の本音をよく語っています。政府与党とそれに絡む利権友達は国家における家長であり、その子供である国民を搾取するのは「正当」だと思っているのです。そしてその理由は、それは子供のためのことを思ってだからだ、というわけですが、その詭弁がまかり通るのは根拠は選挙の票です。民主主義の手続に則って選ばれた政党、政治家が行うことは民意であるから正しいのだ、と自民党は主張するわけです。しかし、実際に自民党を支持しているのは全国民のせいぜい20%に過ぎません。しかもその多くの票は、利権と引き換えに国民の税金で「買った」票です。

国家の一方的な権力を国民に受け入れさせようと詭弁を弄する自民党と信者からカネを巻き上げて献金するのは信者のためだと強弁するこのカルト教団が強い親和性を持っているのは、そもそもこれらの集団が同じ体質(家父長制度による非民主的独裁主義を目指す)だからでしょう。
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マクドの話

2022-10-11 | Weblog
どうでもいい話。

日本の長期にわたる経済停滞と先の見通しがたたない円安で、日本はどんどん安い国になってきています。ものの値段が安いということは賃金が安いということを意味するので、世界中で売られている物の価格を比較することによってその国の賃金レベルが推測できます。

ビッグマック指数で世界の国々を比較すると、ビッグマックがもっとも高いのがスイスで日本円では925円、ドルで$6.7という値段。フランスを含むユーロ圏やアメリカで650 - 700円程度。かつてはかなりの経済格差があったアジア諸国でも日本と変わらないか高いぐらいになっています。フィリピンでは380円。数十年前はフィリピンの田舎ではビールが40円、コーラは10円で飲めました。今は日本との差がかなり小さくなってきているようです。

大昔の高校時代、学校のそばにマクドナルドハンバーガーが出来ました。当時で、ビッグマックが400円弱ぐらいだったと思います。現在410円だそうですから、この数十年、日本の経済が停滞していたことを示すのでしょう。

学校のそばだったので、自然と溜まり場になりました。その店は2-3階に食事席があって文化祭などがあったりすると打ち上げと称して大勢で3階を占領してして騒いだり、ポテトのタダ券を集めて、みんなでテーブル一杯に積み上げたフライドポテトを貪り食うというようなイベントをやったりしてました。そのうち店がタダ券をあまりくれなくなりました。それからアルバイトの店員のお姉さんにありえない注文をするという遊びも流行りました(男子校だったもので)。「メロン豆腐といちごどんぶり」とかオーダーするわけですが、当時は鷹揚なもので、店員も素直に笑ってくれたり、悪ノリしてくれたりして、楽しかったです。今だったら、冷たい目で見下されて、二度と来れなくなってたかも知れません。ま、関西だったので。

それで、当然ですが、われわれはマクドナルドのことをマクドと呼んでいました。これは私の想像ですけど、関西で「マクド」と呼ぶのは、関西での挨拶の「まいど」に発音が似ているからではないかと思っております。当時のちょっと砕けた友人は「まいど!」とやってきては「マクドでイモでもしばかへんか?」と誘って来たものでした。

それで、最近、例によっていつものフランス語教育ビデオを見ていたのですけど、そこでマクドナルドはフランスでもマクド(McDo)と呼ばれていることを知りました。この場合「マ」と二音節で発音されるので、関東の人が話す「なんちゃって大阪弁」のような音になります。

確かに「マクドナルド」は長くて言いにくいです。ちょっと調べたら、世界でも色々に呼ばれていることを知りました

アメリカ:Micky D's
カナダ: McDick's
オーストラリア:Macca's
ドイツ:Mekkes
香港:Mak Kee
フランス:McDo
メキシコ:McDona's
ルーマニア:Mec
スコットランド:McD's
日本:マック、マクド

やっぱり「マクド」がシンプルで間違えにくいと思いますね。マクディーズ、マッキーもわるくないですけど、メッケとかは、どういうヒネリなのでしょう?
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クリック ケミストリー

2022-10-07 | Weblog
ノーベル化学賞はClick chemistryでした。
正直、ん?という感じ。確かに有用な技術開発ではありましたけど、ウチの分野、生物学研究への応用という点では、例えば、過去のGFPの発見ほどのインパクトはないように思います。あるいは、医学生物以外での化学の分野でのインパクトはもっと大きいのかも知れません。まだ多少の時間がかかるでしょうが、この技術が将来に疾患治療などへ応用されることも期待され、それが実現されるとその意義は広く認識されることになるのでしょう。

昨年のPiezoを思い出してみても(何らかの裏事情があったとの噂もありますが)、ノーベル賞は少しずつ発見のインパクトが小粒になっているような気もします。これは、学問分野の細分化、専門化が進んで、ユニバーサルに大きなインパクトを持つ発見というものが相対的に少なくなったからでしょうか。あるいは私の無知ゆえなのかも知れません。

単にテクノロジー開発という点で見れば、20年前の遺伝子の大量並行シークエンシング技術の開発は、非常に大きなインパクトがありましたし、8年前のシングルセル シークエンス技術の開発も現在の生物学研究に大きな影響を与えています。シングルセル技術といえば、数十年前に開発されたフローサイトメトリーのインパクトも非常に大きいです。ただし、こうした技術的イノベーションというのは、何らかのブレークスルーを起こした「発見」の組み合わせによって生まれるもので、そこにオリジナルな発見があるかどうかがノーベル賞の基準になっているのかも知れません。無論、ノーベル賞受賞の条件が生存者のみ三名までという制約も受賞対象研究を限定することになっているでしょう。

インパクトという点では、「RNAワクチン」は、発見とかアイデアのオリジナリティーの点でちょっと難がありますけど、少なくとも社会における影響は非常に大きかったので、今後、RNAワクチンがその他の感染症やがんへの免疫療法に広く使われていくことになれば、将来的にはノーベル賞になる可能性は高いのではないかと思います。

さて、ノーベル文学賞も先ほど発表がありました。フランス人作家Annie Ernauxが受賞とのこと。思えば最近のノーベル賞作家で私が知っているのは、ボブ ディランぐらいですね。文学賞と言えば、村上春樹が毎年名前に上がりますし、作品は外国で広く読まれているのでインパクトは十分と思うのですが、来年はどうでしょう?
相性というのがあるのでしょうけど、残念ながら私は村上春樹の良さが理解できず、読んでいていても途中で「ムリ」と感じてしまうレベル。サリンジャーとかは今読んでも楽しめるので、村上春樹もイケてもいいような気がするのですけど、何ででしょう。どうも、私は村上春樹とはクリックせず、ケミストリーも感じないようです。

しかし、彼が大勢の外国のファンを通じて日本のイメージを上げてくれることで、日本人の私も彼のおかげを被っているとも言えます。受賞する日がくれば、素直にうれしく感じるだろうと思います。
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受賞

2022-10-04 | Weblog
ようやく論文がアクセプトになりました。この雑誌は2年前にできたもので、この間初めてIFらしい数字がついたのを見ましたが今のところ1未満です。そもそも希少疾患を扱う研究が多い分野なので、N紙姉妹紙を除けば、この雑誌の親雑誌は分野トップですがIFは10ちょっとしかないような分野ですからIFが低いのは仕方がないです。今後、我々の論文のように親雑誌にリジェクトされた論文が流入していくと、雑誌のレベルは上がっていくのではないかとは予測されます。大手企業がバックにいるベンチャーのIPOを買ったみたいなものでしょうか。

論文がアクセプトになったからと言って、昔のように数年の努力が形になって純粋に嬉しいという気持ちは感じなくなりましたけど、共著者の若い人のキャリアや学位にも多少関係することなので、義務を果たしてホッとはしました。机の上をちょっと整理しました。あと、二つ三つ書かねばなりません。一つは一応雑誌に投稿するつもりですけど、フォローしている時間がないのでPre-printで終わるかもしれません。何からの形にできればそれでいいと思っています。

先週受賞式が行われた今年のラスカー賞はインテグリンでした。つい先ほど、今年のノーベル医学生理学賞はヒトの進化遺伝学のSvante Pääbo氏と発表されました。ヒネリが効いていますな。昨年のDS氏のスキャンダルで芽が消えたmTORはそのうち賞になるのでしょうか。こういった学術賞によって学問研究の意義が多少なりとも世間に知られて若い世代や多くの人々を刺激するというのは人間の社会にとって有用なことだと思います。日本の国際学術賞では、最も知られているのは、先日亡くなった稲森さんが創設した稲盛財団による京都賞ではないでしょうか。京都賞の授賞式はノーベル賞に先立って来月行われる予定です。

かつては自分も賞に値するような発見をしたいと思ったものでした、論文もハイインパクト雑誌に出したいと思っていましたが、今となっては、なぜそんなことを大切にに思っていたのか、不思議です。多分、名誉欲とか承認欲求とかエゴとかそんなものなのだったのでしょう。アントニオ猪木が亡くなる前の映像で、無欲の境地について語っていましたが、欲があるということは人間が生きていく上での大きな推進力なのでしょうけど、年を取ってそれを失っていくというのは果たして幸せなのでしょうかあるいは不幸なのでしょうか。

先週は、久しぶりに昔一緒に働いていた複数の人々からコンタクトがあったり、サプライズで研究室に立ち寄ってくれたりしてくれました。振り返れば、かつて彼らと一緒に共に時間を過ごし、何らかのことをしたということは私の人生の一部でもありました。彼らが昔のことを忘れずにいてくれて訪れてくれたりすることは私にとっての何よりの賞であることを実感しました。そういう賞ならもっと欲しい欲求はまだあります。

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