熱帯ゆるゆる日記

マレーシアでの期間限定生活日記。
2008年駐在開始、そして2011年 本帰国しました。

絵が好きではなくても いいのです

2011年06月08日 20時36分42秒 | マレーシアの風景

私は 絵を描くのも 絵を観るのも 大好きです。

絵で人生が まわっているようなものです。

このことは 物ごころついてから ずっと ぶれないのです。

 

たまたま 私の家族・親戚 血族は 芸術が好きで、特に 絵や芝居が 好きな人たちでした。

そんな一族だからこそ 私のような「もの好き」が 育ったとも 考えられます。

 

 

幼いころから 絵に関する環境が あったことは 私の幸せです。

 

 

 

 

 

長じて おとなになり 結婚して 血族以外の人たちとも 親子になり、 親戚関係になります。

すると 私の「絵が好き」で「絵の学校を2つも出た」ことは

「まっとうではない」ことになり 「やくざな嫁」と呼ばれることに なったのでした。

 

 

 

 

私は 芸術は すてきなものだと信じていたので  人に 「まっとうな人間のすることではない」と

言われるとは 思ってもみなかったので 驚きました。

 

 

とても驚きましたが 怒りも哀しみも さして 感じませんでした。

 

 

 

大人になるまで このような言葉に出会わず 「絵を描いて 良い子だ」と 言われ続けてきたことに

我が血族に 感謝しました。

 

ありがたかったな~と思いました。

そんな言葉を 12,3歳で聞いていたら 私は きっと 悩んだと思うのです。

絵を否定されたら 自分のすべてを否定されるようなものですから。

 

 

もう おとなになっていれば 冷静に聞くことができるし 私は 幸せだと思いました。

 

 

 

絵が好きかどうか というのは とても個人的なことで 好きではないことも 多くあります。

また どんな絵が好きで どんな絵がきらいか ということも 千差万別です。

ですから たまたま 大人になって 義理の親子関係になった人たちが 絵が嫌いでも

それは おおいに 有りうることです。

 

 

 

残念ではありますが 価値観が まったく同じ人とだけ つきあって生きると言うのは 不可能です。

絵が嫌いでも 親切で 良い人は 山のようにいるし、 絵が好きかどうかで その人の人格が決まるのでは

ありません。

 

 

 

ですから それは それ なのです。

 

 

 

価値観が同じ人に出会いたいし で会えば それは 幸せです

でも 100%同じ人なんて ぜったい いません。

自分の中の 価値観のなかの どこか一部が 似ている人に出会うことでさえ 貴重なことです。

 

 

結局 人それぞれ、違うのだから 私の人生に 「絵がきらい」な人も かかわってくるのは

自然の摂理です。

 

 

 

 

お互いに 価値観が合うところを 見つけて それに感謝して その部分を大事にする

これが 私の考え方です

価値観の合わないところは あきらめる。

深く追わない。

 

説得したところで 嫌いな人は 嫌いなわけで 私が説得しても 絵を好きになることは ないでしょう。

 

 

あきらめて 合うところに感謝すると なんだか なんでも ラッキーに思えてきます。

 

 

相手から見たら 不埒な絵描きの私の存在が 「いやらしい」かもしれません。

 

 

 

お互いに 「ここは 合う」ということを大切にしたいのです。

そして 合わないところは 「待つ」か「あきらめる」と 楽ちんです。

 

 

みんなと仲良くしたいと こどものころは想いましたが

そんなことは 不可能だと わかりました。

いじわるされたら 「なんでだろう」と 悩みましたが 理由は わかりませんでした。

みんな それぞれの価値観を信じているから それから はずれると 摩擦熱が発生します。

それが 不協和音になって 悩む気がします。

 

 

絵が嫌いでも 親友たり得る   

そうすると 世界は 無限に広がります

 

 

 

 

 

☆ 写真は マレーシアの工芸  そえぞれでしょう?

 

 

 


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4 コメント

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難しい問題です (butarin2)
2011-06-08 23:11:59
私の場合は、自分の好き勝手な事に時間をついやしている。ということが許されなかったのです。
私が物語を書いていたりすると、母はあからさまに不機嫌になりましたし、元夫は私が何か書く事や、本を買う事など絶対に許しませんでした。
それでいながら、同僚の家の作文を預かってきて代筆するよう強要しました。
これは「まね」以上にまずいことだと私は思いましたが、家庭内暴力を振るわれていたので反対できませんでした。
思い出すとあまり楽しい事はありませんでしたが、それでもチラシの裏に物を書いたり、小さい草花をスケッチするのは大好きでしたね。
それと、それこそ「まね」ですけど、「それっぽい絵」を描くのが好きだったのでした。
返信する
butarin2さま (まーしゃ)
2011-06-08 23:39:05
こんばんは

いろいろなことが お有りだったのに
それでも 創作にまい進されたことに
さすが 今のbutarin2さまに 現れていらっしゃいます。

ご自分の芸術に根っこが ある

だから burtarin2さまのお書きになる文章は
魅力的なのですね。


私は この日記に 書いたことは
現実とは ずいぶん 違うことも含んでいます。
とても 公にできないような
いろいろなことが ありました。
いえ 現在進行形で あるのです。

しかし 七転八倒したあげくに たどりついたのは
「あきらめ」でした。
いくら あがいても 現実は変わらなかったのです。


自分が壊れるか 否かの 瀬戸際で
選んだのが 「見ないことにする」でした。
人の価値観なんて 変えようとおもって 変わるものではないことを
知ったのです。

もう 多くを求めなくなりました。
自分が 自分で有れば それで 幸せは
いくらでも 見つけられると思ったのです。


わかってほしい
とは 想わなくなりました
わからなくていいから 私に 怒りをぶつけないでね  と 言う感じです。


誰も わかってくれなくてもいいのです私。
人間は ひとり  です
返信する
うぅ… (むつ)
2011-06-09 08:25:26
頭ではわかっているのだけど…
修行が足らないようです。
返信する
むつさま (まーしゃ)
2011-06-09 08:47:25
おはようございます。

なかなか 割りきれませんよね
それが あたり前です

私は もともと おめでたい。
「あああ そうう価値観なんだ、
 私とは 違うな= まあ いいか」


仲良くしようとか
好かれたいと思うと
苦しいですね

私は 100人のうち1人 仲よくなれば
それでいいし
あとは ひとりでも 大丈夫なんです

義理の親子の場合
大人になってからの関係なので
難しいですね~
自分が 楽になるためには
自分から 変わるしか ないと思っています。

自分の納得できる対応をして
それが通じなくても 気にしないし
後悔も反省もしません。
それより 明日  です
返信する

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