ガンバレ、ニッポン

なんか、不安定なニッポンですね。

ゆうちょ銀行にシールズが不正利用。。

2017-09-13 13:38:55 | 社会
政治団体をしている

シールズが無届でゆうちょ銀行で口座を開設している。

さらに 偽名である。

たくさんあるようですがニッポンこれでいいのか!?

政治団体(=収取報告が必要)が新規に開設するチェックがないのか?





ソースから


口座開設時の金融審査がずさんだった郵貯

郵貯では口座開設時の審査が行われてこなかったということで、素性の不明な口座が多く存在するといわれる。

 郵政民営化以前の郵便局には、普通郵便局、特定郵便局、簡易郵便局の3種類があり、普通郵便局は郵政公社の直営だったが、特定郵便局は地域の名士や有力者などの個人が経営する郵便局だった。

 これは、郵便局を全国的に普及させるためにとられた制度であるが、結果的に特定郵便局が全体の4分の3を占めるといった事態を招いた。特定郵便局は、「親が局長なら、その子供も局長になれる」といった世襲制も可能であり、いわば郵便局のフランチャイズ的な扱いであったが、そうした金融の素人が厳格な金融審査を行うことは、実質的に不可能だろう。

 そういった事情も弊害となり、郵貯では、口座開設時の審査がまともに行われてこなかった実態がある。

 日本では、銀行口座は「誰でもつくれるもの」という認識が一般的だが、欧米では「銀行口座を開設する=小切手帳が発行される」ということで、口座をつくる際には厳格な審査が行われる。そのため、必ずしも誰もが持てるというものではない。

 日本は基本的に小切手などを使わない現金主義のため、「お金を預ける=銀行口座を開く」という感覚であり、それは郵貯においても同様だった。しかし、「マネーロンダリングに関する金融活動作業部会」(FATF)の「資金洗浄に関する40の勧告」に基づき、犯罪収益移転防止法が強化されることになった。

 銀行に関しては、金融庁の指導もあって厳格な対応が進められてきたが、前述のような経緯から、郵貯およびゆうちょ銀行では対応が遅れていたわけだ。

違法状態だったSEALDsのゆうちょ口座


 ゆうちょ銀行に素性のわからない口座が多数存在すると同時に、その対応が遅れているという状況が判明した背景には、SEALDs(自由と民主主義のための学生緊急行動)の存在があった。

 昨夏、安全保障関連法の反対を訴えるデモ活動などで名を知られることになったSEALDsは、インターネットなどでゆうちょ銀行の口座を公開し、「カンパ募集」などと称してお金を集めていた。しかし、その口座名はSEALDsではなく、前身団体のSASPL(特定秘密保護法に反対する学生有志の会)だった。

 これは、実は違法行為にあたる。たとえ運営者が同じでも、口座の使用は名義人しかできないことになっており、名義が違う以上は他人名義の口座でお金を集めていることになるからだ。

 また、基本的に政治活動は政治団体として届け出た団体しかできず、届け出前にお金を集めたり払ったりすることはできない。そして、政治団体の届け出をするためには、代表者と会計責任者、会計責任者が辞任した場合などに備えるための代行者の合計3名が必要であり、代表者や責任者がいない組織というのはありえない。

元寇・文永の役 赤ん坊を股裂き、子供を奴隷として拉致、女性は手に穴開け数珠つなぎ…博多を血と炎で染めた蒙古・朝鮮軍の残虐・非人道行為

2017-09-13 08:51:50 | 社会
韓国人が残酷な民族だと

日本人は知らないといけない。

日本における在日の犯罪は残酷だ。



ソースから


九州・博多から侵略する2万人にのぼる元・高麗連合軍は、兵の数の優位と鉄炮(てっぽう)なる新兵器、集団戦法などを駆使し、日本の武士団を撃破しては町を焼き払い、逃げる民間人を殺すなどやりたい放題。また、捕らえた女性をひもで数珠つなぎにし、日本の攻撃から船を守る盾(たて)にしたほか、拉致した子供を奴隷として高麗国王に献上するなど、残酷で非人道的な行為も数限りなかった。
 侵略される町々
 文永11年10月20日、船で博多湾に集まった元・高麗連合軍の兵は早朝を期して上陸を始めた。日本側は鎌倉・北条時宗と京都へ敵襲来の知らせと援軍を求める急使を送ると、大宰府に本陣を置き、至急集まった周辺の御家人ら総勢5千数百人で待ち構えた。
 最初に戦闘状態に入ったのは午前10時ごろ。場所は上陸地点のひとつ、百道(ももち)原をさらに進んだ麁原(そはら)。相手はキム・バンギョン率いる高麗軍約4500人で、迎え撃つ日本側は約1300人とも。
 前日に元軍のホン・ダク率いる先遣隊が占拠した小高い「麁原山」周辺をめぐる攻防戦とみられるが、数で劣るのに単独で突っ込んでいく日本に対し、鉄炮などの新兵器と集団戦を展開する高麗軍にじりじり押される。
 ここで菊池武房らは約3キロ東の赤坂に撤退することを決め、途中に湿地帯が広がる鳥飼潟へ高麗軍を誘い込む。すると、術中にはまった高麗軍はぬかるみに足をとられて思うように進むことができず、戦闘は膠着(こうちゃく)状態に陥る。
 一方、元・高麗連合軍約5400人に上陸された箱崎には島津氏、少弐氏、大友氏などから1000人しか動員ができず、いきなり劣勢に立たされる。

日本側の大将・少弐景資の放った矢が、元軍に2人いた副司令官のうち1人を射抜き、負傷させる戦果もあったが、博多の息浜(おきのはま)まで攻め込まれるなど、やりたい放題に暴れられる。
 この戦いで箱崎(筥崎)神社が焼失する。博多の中心部でも元や高麗の兵による殺害や略奪、放火などが横行したことで地は血に染まり、空は炎で真っ赤に染まったともいわれている。
 相次ぐ残虐行為
 このような行為は博多の前の戦場だった対馬と壱岐でも同様で、高麗の歴史書には、「入対馬島、撃殺甚衆」と、キム・バンギョンの高麗軍が対馬で島民を皆殺しにしたとする記録が見られる。
 日蓮宗の宗祖・日蓮が当時、関係者から聞いた出来事をまとめた文書にも同様のことが書かれている。
 生け捕りにされた女性は手のひらに穴が開けられ、ひもを通されると数珠つなぎにされ、日本の攻撃をかわす盾として船壁に並べられたという記述は残酷で生々しい。
 奴隷の手に穴を開ける行為は高麗以前から朝鮮半島にはあったとして、日蓮はこれを高麗の仕業と断定しているが、伝聞をもとにした記述のため、異論も出ている。
 ただ、山に逃れた島民をしつこく捜す元と高麗の兵士が、赤ん坊の泣き声などをたよりに見つけ出すと全員を殺害し、赤ん坊も股裂きなどにした残虐な話は数知れず。
 壱岐でも同様の行為があり、元・高麗連合軍が暴れ回った後は武士だけでなく一般島民の死体の山で埋まり、生存者はわずか65人だったともいわれている。
 さらに、元の総司令官が帰還後、日本から連行した少年・少女200人を奴隷として高麗国王と妃であるフビライ・ハンの娘に献上するといった拉致同然の行為が高麗側の記録で確認されている。

突然に消えた敵
 戦いは元・高麗連合軍が優位のまま夜に入った。ここで双方とも兵を引くのだが、元・高麗連合軍は陸地に前線基地を設けることなく、全軍、博多湾に停泊していた船に引き払ってしまったのだ。
 しかも、一夜明けるとあれだけ湾内を埋め尽くしていた船がすべて姿を消していた。まるで忍術を使ったように影も形もなくバッと消えていたのだ。
 当然、今日も戦いが続くと思っていた日本の御家人らは、キツネにつままれたようにあっけにとられたことだろう。
 元の記録には戦ったことだけが記述されているが、高麗の記録にはこのときのいきさつが多少なりとも書かれている。
 それによると、船に帰投後、元の総司令官、クドゥン▽副司令官、ホン・タグ▽高麗軍司令官、キム・バンギョン-が今後の展開について意見を交わしたとされている。
 キムが「敵地に入って士気も上がり、必死の覚悟で戦っている」と戦闘の継続を主張したが、クドゥンは「疲弊している兵士をこれ以上使い、日増しに増える敵と戦うのは良策ではない」として撤退を決めたという。
 その決断の裏には、少弐景資の矢で負傷した元の副司令官の存在や、武器・食料の補給の問題もあっただろう。
 でも、気象や潮の流れなどの条件が重ならないと船を動かすことはできず、しかも渡航に1カ月かかった時代である。900隻の大船団が遠くの沖合にいるならまだしも、すべてが忽然(こつぜん)と海上から消えたのはミステリーとしかいいようがない。
 これを“神風”、つまり台風を原因と見る向きもあるが、どうやら、それだけではなかったようである。

奈良「飛鳥園」の文化財写真、韓国の民間機関が調査へ

2017-09-13 07:28:13 | 社会
当時の韓国は

生きるので精いっぱいでしたからね。

日本に感謝でしょうね。

だけど。。

民主党政権で返還された文化財が

今も放置されたままで

修復する技術もないから荒れたままとか。。




ソースから


「北朝鮮の高句麗古墳の写真もあるといいます。飛鳥園に保管されていた、1920-30年代の韓半島(朝鮮半島)全域の文化財に関する写真の宝庫が開かれたわけです」

 慶州学研究院のパク・イムグァン院長は8月30日、奈良市の文化財専門写真会社「飛鳥園」にガラス乾板の形で整理されないまま保管されていた写真およそ10万枚を、来年1月から3年かけて調査することで飛鳥園側と合意し、了解覚書(MOU)を結ぶことを明らかにした。飛鳥園は、慶尚北道慶州市九黄洞の皇福寺址(し)三層石塔(韓国の国宝第37号に指定)周辺に配置されていた十二支像(十二支の動物を形象化した像)が植民地時代にどのように発掘調査されたのかを示す、建築家の故・能勢丑三(1889-1954)の貴重な写真(1月31日付本紙既報)を保有している。今回調査が行われる写真は、飛鳥園の創業者で写真の専門家でもあった小川晴暘(せいよう)=1894-1960=が、1920年代から30年代にかけて韓・中・日を踏査して撮影したもの。

 小川晴暘は朝日新聞の写真記者として働いていたが、仏像に関心を抱き、1921年に飛鳥園を開いて転業した。彼は26年から10年近くにわたり、年に1、2カ月は韓国に滞在して各種の文化財を撮影した。パク・イムグァン院長は「生前彼が残した踏査記録を見ると、北朝鮮を含む韓半島全域やシルクロードの敦煌なども撮影していたことが判明した。韓国国内の文化財の写真は1-2万枚に達するものとみられる」と語った。文化大革命で損なわれる前の、本来の姿を収めているシルクロードの仏像写真も出てくる可能性が高い。
 慶州学研究院は2014年から、能勢丑三の写真と共に小川晴暘の写真の存在を知り、飛鳥園と話し合ってきた。今年に入り、奈良国立博物館や東京芸大なども小川晴暘の写真に関心を抱いて調査を提案し、中国も関心を示した。しかし飛鳥園は、これまで信頼を積み上げてきた韓国の民間機関、慶州学研究院をパートナーに選んだ。慶州学研究院は、必要な予算3億ウォン(現在のレートで約2900万円)ほどを自治体などと協議して確保する方針だ。

 能勢丑三の写真を調査した文化財専門の写真家、オ・セユン氏は「当時、およそ2000点ほどあると聞いて飛鳥園を訪れたが、ガラス乾板は3000枚以上残っていて、そのうちおよそ700点が韓国国内の写真だった。今回も、期待以上に多くの韓国文化財の写真が出てくることもあり得る」と語った。

 また慶州学研究院は韓国国外文化財研究院と共に、慶州エキスポ文化センターで9月1日から10月31日まで、能勢丑三が慶州地域で撮った韓国文化財のガラス乾板写真を初めて一般公開する。「90年前のモノクロ写真に収められた韓国文化財展」だ。慶州・遠願寺址、皇福寺址、感恩寺址や神文王陵、聖徳王陵、憲徳王陵の写真など78点と醴泉・開心寺、求礼・華厳寺、開城の高麗王陵の写真9点の合わせて87点を展示する。

盗難文化財、20年ぶり韓国へ=日本人男性知らずに入手

2017-09-13 07:09:39 | 社会
韓国人が盗んで

日本人に売った

たぶんね。

韓国の歴史をみても文化財はどうとも思わない。

新しく権力を持ったら過去の歴史は一掃している。

神社やお寺は自分たちで破壊した。

韓国に歴史がない理由。

ファンタージーが真実なのだ。

日本人を見習ってほしいね。



ソースから


韓国南部・光州で盗み出され、日本人男性の手に渡っていた李氏朝鮮時代の磁器製の墓誌が8月、男性の遺族によって約20年ぶりに韓国に戻されていたことが分かった。

 韓国の国外所在文化財財団が12日、発表した。男性は経緯を知らずに墓誌を入手しており、墓誌はソウルの国立中央博物館に寄贈されたという。

 財団によると、墓誌は、高官として活躍し、「朝鮮王朝実録」の一部をなす「太宗実録」の編さんに関わった李先斉(14~15世紀)の事績を刻んだもの。盗難後、1998年に日本へ運び込まれ、長野県にゆかりのある収集家、故等々力孝志氏が所蔵していた。

 財団関係者が日本に墓誌があることを知り、等々力氏と交渉。同氏は昨年11月に死去したが、その遺志を尊重する形で遺族が韓国側に寄贈した。財団は墓誌の保存状態が良好で、資料としての価値も高く、国の文化財として指定される可能性もあるという。