国道48号線(愛子バイパス)から錦が丘団地への道路に入り、左側道から右折して県道132号線に出ると200メートル位の正面に「諏訪神社」がある。(132号線は神社の前を左に曲がりサイカチ沼を経て秋保湯本へと続いている)
真っ赤な一の鳥居に「諏訪神社」と書かれた黒っぽい社額が掲げられ、右に「県重要文化財国分一宮諏訪神社」と書かれた御影石の碑が立っている。
その脇に神社の由来沿革説明書がある。
この神社は、国分一の宮、仙台市青葉区で一番の古社で、延暦年代(782~826桓武天皇の時代)に修験道の山岳信仰により「山神社」の祠が西山(御殿山)山頂に祀られていたものを、文治年中(1185~90)に源頼朝が平泉の藤原泰衝を討伐した際、この社に祈願し戦勝を得たので、家臣伊沢(留守)四郎家景に命じて社殿を造営し「建御名方命」を祀り改称したものとされている。
その後、康正3年(1457)に国分氏が西山より現在地に遷座したと伝えられ、国分氏領地の総鎮守として信仰されてきたという。
朱の鳥居から整備された砂利敷きの参道を進み、二の鳥居からは急な長い石段となっていてその先遥か上に社殿が見える。
石段を上った所が大きな長床が迫り、
長床を潜って更に石段を上った所に社殿があった。
「諏訪社」と書かれた扁額の中に本殿があり「右宮」「中宮」「左宮」と掲げられた3社の扉は固く閉じられていた。
覆いの中に守られた本殿は、その歴史を感じさせるが、数百年前のものとは思われない保存状態だった。
拝殿に向って右側に「平和の鐘」と表示された鐘楼があった。
石段の登り口の周りには、古い石灯籠や石碑があったが、「国分一宮諏訪社」という石碑に
「是より南 すわみや江七丁二十歩 ?
秋保ゆもと江二里余」
と書かれていて「みちしるべ」ではないかと思われる石碑があった。
日付は天明七歳(1787)・・・」であった。文の内容から愛子の町中(北の方向)の道路にあったものではないかと推察される。
また「小牛田山神」の碑もあり、
この神社の前身が「山神社」であったとの説明書も自然に納得できるような気がした。
真っ赤な一の鳥居に「諏訪神社」と書かれた黒っぽい社額が掲げられ、右に「県重要文化財国分一宮諏訪神社」と書かれた御影石の碑が立っている。
その脇に神社の由来沿革説明書がある。
この神社は、国分一の宮、仙台市青葉区で一番の古社で、延暦年代(782~826桓武天皇の時代)に修験道の山岳信仰により「山神社」の祠が西山(御殿山)山頂に祀られていたものを、文治年中(1185~90)に源頼朝が平泉の藤原泰衝を討伐した際、この社に祈願し戦勝を得たので、家臣伊沢(留守)四郎家景に命じて社殿を造営し「建御名方命」を祀り改称したものとされている。
その後、康正3年(1457)に国分氏が西山より現在地に遷座したと伝えられ、国分氏領地の総鎮守として信仰されてきたという。
朱の鳥居から整備された砂利敷きの参道を進み、二の鳥居からは急な長い石段となっていてその先遥か上に社殿が見える。
石段を上った所が大きな長床が迫り、
長床を潜って更に石段を上った所に社殿があった。
「諏訪社」と書かれた扁額の中に本殿があり「右宮」「中宮」「左宮」と掲げられた3社の扉は固く閉じられていた。
覆いの中に守られた本殿は、その歴史を感じさせるが、数百年前のものとは思われない保存状態だった。
拝殿に向って右側に「平和の鐘」と表示された鐘楼があった。
石段の登り口の周りには、古い石灯籠や石碑があったが、「国分一宮諏訪社」という石碑に
「是より南 すわみや江七丁二十歩 ?
秋保ゆもと江二里余」
と書かれていて「みちしるべ」ではないかと思われる石碑があった。
日付は天明七歳(1787)・・・」であった。文の内容から愛子の町中(北の方向)の道路にあったものではないかと推察される。
また「小牛田山神」の碑もあり、
この神社の前身が「山神社」であったとの説明書も自然に納得できるような気がした。