「館蔭の杜」を眺めつ つれづれに

窓外の森を眺めながら時々の想いを綴る

天皇寺と伊達宗清廟(大和町・吉岡)

2015年06月07日 | 日記
大和町吉岡の住宅街の中に広大な敷地を持つ「香積山天皇寺」がある。


この寺は、元和2年(1616)吉岡城の完成・城下町開府とともに鶴巣下草から現在の地に移されたといわれる。

寺の東側に参道の入口があり、寺の門柱の脇に、吉岡城主であった伊達宗清公と、伊達政宗公の側室で宗清公の養母であった飯坂の局の墓を案内する大和町の標柱が建てられている。



100メートル位参道を進むと大きな山門がある。
「仁王門」といわれる門で、相当な年数を経ているらしく、柱の根元は朽ちかけ、茅葺の屋根は修理中で覆いがかけられていた。



門の左の壁に
「二十番天皇寺 あまてら寿 わかおほ君の 道な良蕗 かを里は法話 庭も榮む」?
の和歌と思われる額が、



右には「薩波若」という額が掲げられていた。 



山門の右側に鐘楼の土台だけが露わになっており、



改築修理中の模様で山門の裏脇に鐘が置かれていた。



寺の本堂は、瓦葺きのどっしりと落ち着いた風格のある建物で、



大棟や破風など至る所に伊達の紋が取付られていた。



本堂前の池にあ菖蒲の花が咲き誇っていたが、



この池は「ひさご池」といい、本堂の前にこの池に関わる長文の説明が書かれていた。



秀吉が天下統一した後、諸大名が秀吉に恭順の意を示すため、秀吉のシンボルである「千成瓢箪」にあやかって盛んに瓢箪池を造ったという。
政宗も領内に瓢箪池を造らせたが、家康の天下となって、政宗は各大名と同様に家康の気持ちを慮って瓢箪池の取り壊したが、この池は木柵を用いて作ったために腐食が進んで瓢箪の形が崩れてしまったため、取り壊されずに後々まで残ったとのことである。



本堂に向って左手が墓地になっているが、吉岡城主であった伊達宗清公(政宗の三男)の墓は左の奥にある。
広い区画の中に意外と小ぶりな五輪の塔が建てられ、手前に宗清公の経歴などの説明板が立っていた。



伊達 宗清は、江戸時代初期の仙台藩一門の重臣。黒川郡吉岡城館主。
慶長5年(1600年)伊達政宗の三男として生まれる。
慶長9年(1604年)に飯坂宗康の養嗣子となる。
慶長15年(1610年)に11歳で元服し、後に伊達姓を賜り伊達河内守宗清と称した。
黒川郡吉岡3万8千石を領し下草城に入り、元和元年(1615年)に吉岡城の築城にかかり、翌年に吉岡城に移った。
子に恵まれないまま、寛永11年(1634年)7月22日に死去した。(享年35才)。
死去の際に大和田佐渡ほか7人が殉死した。




五輪の塔には、地・水・月・火・空 の5文字が刻まれていた。




「飯坂の局」の墓は墓地の中央奥にある。



左手前に「飯坂の局」の経歴などを書いた説明板が建てられ経歴の説明書きがあった。



伊達政宗の側室。伊達秀宗の生母、伊達宗清の義母。別名(松森の局、吉岡の局)
飯坂城主・飯坂右近宗康の次女として生まれ、伊達政宗の側室となって米沢城に入り「飯坂の局」と呼ばれるようになる。
1591年秀宗を産む。
後に疱瘡を患い、米沢から松森に移って隠棲し「松森の局」と呼ばれるようになる。
1604年、生母の新造の方を亡くした政宗の三男・伊達宗清を引き取って養子とし、翌年に実家の飯坂家を継がせた。
1616年、吉岡城主となった宗清に伴って吉岡に移り「吉岡の局」と呼ばれた。
1634年に66歳で死去した。


こちらの墓石も、五輪の塔で宗清公のものと同様に、地・水・月・火・空 の5文字が刻まれていた。



 
※ 地・水・火・風・空は「五大」といわれ、宇宙(あらゆる世界)を構成しているとするの五つの要素

  地 - 大地・地球を意味し、固い物、動きや変化に対して抵抗する性質。
  水 - 流体、無定形の物、流動的な性質、変化に対して適応する性質。
  火 - 力強さ、情熱、何かをするための動機づけ、欲求などを表す。
  風 - 成長、拡大、自由を表す。
  空 - サンスクリット語(アーカーシャ)の訳。虚空とも訳される。