天皇寺後の直線道路を北に500メートルほど進んだ右側の吉岡小学校と同じ一角に「吉岡八幡神社」がある。
石畳の道路の交差点角に大きな石造りの鳥居が建ち、その先に赤い山門が見える。
右脇に「黒川総鎮守八幡神社」と題する由緒等の説明書きがある。
祭神は「応神天皇」。家内安全、商売繁盛、交通安全、縁結びなどにご利益があるといわれる
この神社は、信夫地方(福島県福島市)を治めていた飯坂氏の氏神であったという。
伊達政宗の三男宗清が飯坂氏を継ぎ、鶴巣下草(しもくさ)を経て吉岡城に移った後、元和4年(1618)に現在地に遷宮し、黒川郡の総鎮守としたといわれる。
境内に入ると真っ赤な山門が目に鮮やかだ。
この山門は「随身門」といい明和元年(1764)に造営されたものだといわれる。
山門を通りぬけると近年造営されたと思われる比較的新しい社殿がある。
社殿は、もともと拝殿と本殿を繋いで一つの建物にした「石の間造」で、県の重要文化財に指定されていたが、昭和63年(1987)落雷により焼失してしまい、現在の社殿は平成元年に再建されたものだという。
社殿の正面には「黒川鎮守八幡宮」と書いた扁額が掲げられている。
本殿左脇に赤い小さな社が建っているが、当神社の末社「春日大社」で武甕槌命(たけみかづちのみこと)を祭っているという。
参道の中間あたりの右側に「芭蕉の句碑」がある。
高さ2メートル弱で、横からは達磨風(だるま)に、正面からは徳利風に見える自然石である。。
碑面は不鮮明であるが
芭蕉墳「藤の實は 俳諧にせん 花の阿と」
という句が刻まれ、寛政十一年(1799)三月建碑とある。
脇にこの碑の刻字を解説する札が立っていた。
※ 出典は「藤の実」(素牛編)
句意は「藤の花の風流は、すでに逢坂の関(三重県)で宗祇が連歌に読んでいる。花の後の素朴な実については私が俳諧の素材といたそう。」というものだそうだ。
もう一碑、拝殿横の「神楽殿」の脇に並ぶ碑の中に、芭蕉の句を記したと思われる碑があった。
「・・・友春(す)ゝめ」風羅翁と刻まれている。
上部が欠けているが「花にあそぶ虻なくらいそ友雀」の句と一部と思われる。
※ 出店は「続の原」
句意は「無心に花にわたる虻は境涯を楽しんでいる。雀たちよ、どうか虻を啄ばまないでおくれ」
この神社は特に縁結びにご利益があるといわれ、毎年12月14日に催される島田飴まつりは良縁を求める人の参拝が絶えないといわれる。
石畳の道路の交差点角に大きな石造りの鳥居が建ち、その先に赤い山門が見える。
右脇に「黒川総鎮守八幡神社」と題する由緒等の説明書きがある。
祭神は「応神天皇」。家内安全、商売繁盛、交通安全、縁結びなどにご利益があるといわれる
この神社は、信夫地方(福島県福島市)を治めていた飯坂氏の氏神であったという。
伊達政宗の三男宗清が飯坂氏を継ぎ、鶴巣下草(しもくさ)を経て吉岡城に移った後、元和4年(1618)に現在地に遷宮し、黒川郡の総鎮守としたといわれる。
境内に入ると真っ赤な山門が目に鮮やかだ。
この山門は「随身門」といい明和元年(1764)に造営されたものだといわれる。
山門を通りぬけると近年造営されたと思われる比較的新しい社殿がある。
社殿は、もともと拝殿と本殿を繋いで一つの建物にした「石の間造」で、県の重要文化財に指定されていたが、昭和63年(1987)落雷により焼失してしまい、現在の社殿は平成元年に再建されたものだという。
社殿の正面には「黒川鎮守八幡宮」と書いた扁額が掲げられている。
本殿左脇に赤い小さな社が建っているが、当神社の末社「春日大社」で武甕槌命(たけみかづちのみこと)を祭っているという。
参道の中間あたりの右側に「芭蕉の句碑」がある。
高さ2メートル弱で、横からは達磨風(だるま)に、正面からは徳利風に見える自然石である。。
碑面は不鮮明であるが
芭蕉墳「藤の實は 俳諧にせん 花の阿と」
という句が刻まれ、寛政十一年(1799)三月建碑とある。
脇にこの碑の刻字を解説する札が立っていた。
※ 出典は「藤の実」(素牛編)
句意は「藤の花の風流は、すでに逢坂の関(三重県)で宗祇が連歌に読んでいる。花の後の素朴な実については私が俳諧の素材といたそう。」というものだそうだ。
もう一碑、拝殿横の「神楽殿」の脇に並ぶ碑の中に、芭蕉の句を記したと思われる碑があった。
「・・・友春(す)ゝめ」風羅翁と刻まれている。
上部が欠けているが「花にあそぶ虻なくらいそ友雀」の句と一部と思われる。
※ 出店は「続の原」
句意は「無心に花にわたる虻は境涯を楽しんでいる。雀たちよ、どうか虻を啄ばまないでおくれ」
この神社は特に縁結びにご利益があるといわれ、毎年12月14日に催される島田飴まつりは良縁を求める人の参拝が絶えないといわれる。