「館蔭の杜」を眺めつ つれづれに

窓外の森を眺めながら時々の想いを綴る

龍門山洞雲寺(泉区山の寺)

2015年06月17日 | 日記
泉区の山の寺にある「洞雲寺」を訪ねた。
泉中央駅から国道4号線に出て、上り方向に500メートルほどのところを左折し、300メートル位進むと、団地に囲まれた一角とは思われない、周りを緑に囲まれた広い空間が待っていた。
左側入口に「古跡山之寺洞雲寺」と書かれた大きな門碑が立っている。



そのすぐ後ろに、この寺の縁起・沿革などを紹介する板があった。



それによると、
慶雲年中(704~708)釈定慧法師(藤原鎌足の子供)が「蓮葉山円通寺」として開山。慈覚大師(794~864)が中興し「山の寺」と称した。
その後荒廃したが南北朝時代に加賀の大乗寺3世明峰素哲禅師によって曹洞宗の寺として再興し現在の寺号となった。
後に再び荒廃したが、応永7年(1400)梅国祥三禅師が時の領主国分盛行に請いて再興し、七堂伽藍及び25院の塔中を擁する大道場となった。
しかし、明応・文禄に二度の大火で焼失し三度荒廃した。
享保17年(1732)輪王寺牷たつ和尚が藩主伊達吉村公に請い再びの再興に着手し、以後第三世天厳和尚の天明初年に至るまでの40余年にわたり諸堂を造営,再び奥州の一大禅宗道場となった。
仏殿・開山堂・仁王門・山門・方丈庫裡など大伽藍を有する荘厳な寺院であった。
しかし,これらの諸堂も昭和18年(1943)当時近くを運行していた仙台鉄道の火の粉による山火事で全て焼失し、現本堂は昭和35年(1960)再建された
 
とあった。
日本三山寺の一つ(山形市の立石寺、滋賀県大津市の石山寺)とされているが、平成11年の東日本大震災の地震により本堂が壊れ、現在全面改築している段階にあった。


入口からすぐの左側に2つの洞窟があり、石仏や祠が祀られている。
「岩谷観音洞」という。
脇に、説明板が立てられていて、洞窟にまつわる古事記にも似た伝説風の解説が綴られていた。



「釈定慧法師が開山した「蓮葉山円通寺」の近くに住む長者の妻と寺にいた童が道ならぬ恋におち、世を儚んで淵に身投げしたところ、2人は大蛇になり、湖が出来て寺はその中に沈んだ。
2匹の大蛇は湖に棲んで近づく人々を威嚇して困らせるようになったという。
市名坂村の佐藤藤佐衛門が白髪の老人の引き合わせにより、この地を訪れた加賀国の明峯素哲禅師に頼んで、法力で大蛇を飛散させ、湖の水を干してみると昔の寺跡が出現した。
禅師はここに寺を建てて「龍門山洞雲寺」とした。」


その際、定慧の観音像が納められたのが手前の岩窟だという。



禅師と藤佐衛門を引き合わせた白髪の老人は、洞雲寺の狐が化けたもので、奥の洞がその狐の祠だという。



「岩谷観音洞」には、さらに遡るもう一つの伝説が伝わっている。
この地に住む「大菅山・佐賀野という夫婦」が定彗を一晩泊めた際「この地は霊地に適しているので寺を建てたいこの土地を貸してくれないか」と頼まれた。夫婦は断ったが「錫杖の及ぶところだけ」との再度の依頼を受け入れた。
建立された寺は「佐賀野寺」といったが、後に「蓬莱山円通寺」と改められた。

というものである。
大菅山・佐賀野の夫婦はその後、根白石山中の「銅谷」(泉パークタウン紫山近く)に移り住んだという。


本堂へは200メートル位の距離であったが、途中、左側に中程に洞穴のある断崖があった。
この洞穴は「座禅屈」といって梅国祥三禅師が篭って座禅を組んだところだと云われる。



その先に寺の建物が連なっている。
最初の建物は住職の住まい「庫裡」と思われる。玄関に「庫院」と表示されていた。



その奥が「会館」という建物で、渡り廊下で山の上の大きな建物と連なっていた。
(入口に「梵鐘」が据えられているのが見えた)



そこから「不老橋」という赤い欄干の橋を渡った所に「洞雲寺」の本堂があるはずであるが、全面改築中でコンクリートの土台ができている段階にあった。



その前に大きな鐘楼があった。
梵鐘は平成元年製のものだった。

※この寺には、宮城県指定文化財(工芸品)の銅鐘がある。
「銅鐘」は永正15年(西暦1518年)製の銘文を有す梵鐘で県内最古のものといわれている。
 高さ91.25センチ、最大径56.2センチ龍頭高は19.4センチ
(会館の玄関に据えられているもの)



このあたりに「古碑」といわれる石碑があると聞いてきたが、見当たらなかった。
随所で説明されている、この寺に纏わる縁起・来歴をより詳細に刻した大きな石碑といわれるが、本殿改築中のために近寄ることが出来ず残念であった。


参道沿いにはいくつかの石碑などがある。

その一つが「大塚頼充の墓」で、本殿に向う参道の右脇にひっそりと立っている。



大塚頼充は、享保17年(1732)に生まれ、享和元年(1801)に70才で没した仙台藩の天文学者といわれる。
宝暦5年に施行した幕府の暦は宝暦13年に日食があったにも拘わらずその予即に失敗してしまったが、大塚頼充は幕府の「暦」に反してこの問題の日食の予測をした一人であるといわれる。

もう一つの碑は、菅原道真の歌碑で、大塚頼充の墓の向い側にある。



古池布賀波 丹保飛於古勢世 梅濃花 主那之登亭 春那王須連楚
 「東風吹かばにほひおこせよ梅の花 あるじなしとて春な忘れそ」

複写版の万葉仮名歌碑である。 (平成5年の民間人の寄贈によるもの)


洞雲寺(岩谷観音洞)は、坂上苅田麻呂と阿久玉姫の恋物語や、その子供千熊丸(田村麻呂)の生い立ちにも関わる所としても語られており、緑深い古刹の中を散策しながら物語の世界に浸ったあと、国道4号線に戻った。