霧の子午線
1996年/日本
‘霧’で全く見えない‘子午線’
総合 0点
ストーリー 0点
キャスト 0点
演出 0点
ビジュアル 0点
音楽 0点
はっきり言って全く面白くない。余りにも面白くないので、これは原作そのものが面白くないのかと思い読んでみたのであるが、原作と脚本が大きく変わっていたことで納得した次第である。
主人公の鳥飼希代子は新聞記者の文化部で働き、友人の沢田八重は希代子が勤める新聞社と同じ系列のテレビ局でニュース番組のアシスタントなどをして活躍している。2人は学生の頃に学生運動に関わり、淡路新一郎との奇妙な三角関係を築いていたが、やがて希代子は新一郎の子供を身ごもり、堕ろそうとする希代子を八重が止めて、新一郎に内緒で希代子は光夫を産むことになる。
小説においては、この三角関係が純粋な愛情の発露によるものなのか、あるいは学生運動による気持ちの一時的な高揚によるものかが問われているように思われる。実際に、希代子と八重と新一郎の三角関係は、希代子の妹の和歌子と彼女の夫の高尾耕介と八重という三角関係に‘変奏’されることで、八重を見守る希代子に、当時の自分の立場を反省させることになり、逆にクローン病を患い、帝王切開のように下腹部にメスを入れた八重は高校生になった光夫と関わることで、希代子の立場に身を置くことになる。更に千葉に住んでいた新一郎は、光夫と関わることで、当時の自分の立場を見直すきっかけになるのである。
映画を観ただけでは意味の分からないタイトルは、新一郎に対して、「寂しくなりますけど、私だってまだ、女の真昼なんだもの、あと半分は子育ての荷をおろして、ゆうゆうと生きたいわ」という希代子の言葉に由来しており、もちろん‘子午線’を越えた後の人生は誰にも分からない‘霧’の中なのである。
ところが映画では人物設定が改悪されている。高尾耕介が希代子の同僚になっており、耕介を巡る希代子と八重の三角関係が描かれることになり、同じ過ちを繰り返しても女の友情は壊れないという薄っぺらい物語になってしまっている。
更に映画ではノルウェーのベルゲン市に住んでいる新一郎に希代子だけが会いに行くことになるのであるが、光夫を産んだことを告げると、新一郎は「産んでくれてありがとう」と言うだけで、それ以上全く話が膨らまない。
作品の冒頭で本作がクローン病を扱っていることに触れ、「クローン病は適切な医療を続けているかぎり、急死することのほとんどない病気です。」というテロップが出されるのであるが、これではクローン病を患っている沢田八重が急死するというラストのネタバレをしてしまっているようなものである。何故このようなテロップを冒頭に流してしまったのかを考えると、1993年に筒井康隆の『無人警察』を巡る日本てんかん協会との激しい論争の影響で、クローン病患者たちの抗議で上映中止になることを恐れた感は拭えない。
本作を観る暇があるのならば、原作を読むことを勧める。
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