特集:ネルソン・ペレイラ・ドス・サントス監督作品特集2010
-年/-
秀逸な‘壊れ具合’
総合 100点
ストーリー 0点
キャスト 0点
演出 0点
ビジュアル 0点
音楽 0点
ネルソン・ペレイラ・ドス・サントス監督作品が‘シネマ・ノーヴォ’と呼ばれる所以は、例えばジャン=リュック・ゴダール監督の『勝手にしやがれ』を‘ヌーヴェルヴァーグ’とでも呼称しなければただの‘ポンコツ映画’と見做されるような恐れがネルソン・ペレイラ・ドス・サントス監督作品にもあるためで、その作風は非常に斬新である。ここに今回観ることができた作品にかんしてごく簡略にコメントしておきたい。
『オグンのお守り』が結局どのようなストーリーなのか理解できた人がどれほどいるのか定かではない。例えば主人公のガブリエルが盲目であるフリをするために右目に何重にも白い絆創膏を貼るという演出も理解しがたいし、子どもに電気ショックを与えるために男が両手に電線を持っているのであるが、明らかに男自身の体にも電気が流れそうな持ち方をしている。個人的な解釈としてはガブリエルを中心とした子どもたちの純粋さによる信仰心と、それに対立するガブリエルを雇っていたボスを中心とする大人たちの不信仰の抗争劇である。ギャングたちは何故か赤十字の総裁を暗殺する。通常の抗争ならば赤十字の総裁を暗殺しても何も利益にはならない。しかしこの物語は信仰心の問題であるためギャングたちは次々と純粋な子どもたちを殺していく。よって母親を失ったと思い込んだガブリエルは一旦死んでしまうが、母親の生存を信じることで蘇るのである。この作品は盲目の男の語りで始まるのであるが、ラストで彼が実は盲目ではないことが明かされ、彼を襲って金を巻き上げようとしていた3人の男たちは逆に殺されてしまう。確かに3人の男たちは相手の男が盲目であると‘信じて’いたのであるが、監督はあくまでも‘信仰の質’を問うのである。
『奇蹟の家』もよく分からない。人種の混交こそ民主的な社会を作ると主張する混血の学者ペドロ・アルカンジョが主人公の映画を編集している、最後まで素性の分からない2人の男たちがいて、ストーリーはその映画をメインに進んでいくのであるが、ペドロ・アルカンジョと彼の考えに対立する人々の意見は噛み合わないまま同じことの繰り返しで、結局その映画の編集をしている2人の男たちは編集を放棄してしまい、それとリンクするように物語はペドロ・アルカンジョの葬儀で終わる。まさに様々な映像が混交されたままなのである。
『監獄の記憶』はカフカの『審判』と『城』を合わせたような作品であり、つまるところこの作品もよく分からない。主人公であるグラシリアーノ・ラモスは教育局の公務員として働いていたのであるが、有力者の子息の不正入学を断ったために、収監されてしまう。収監されているにもかかわらず、何故か書くことだけは許されている。問題はラストシーンでラモスはようやく釈放されるのであるが、収監されている間に書き溜めたものを持ち出すことはできなかった。しかしラモスは釈放されて自由を得たことで気持ちが舞い上がってしまい、自分が書いたものを取り戻す努力をしないまま船で帰ってしまう。それまで耐え続けてきたにもかかわらず、その努力の成果を自ら放棄してしまうところにエリートの脆弱さが垣間見えてしまうのである。
今回私が観た中で一番面白かった作品は『人生の道~ミリオナリオとジョゼ・リコ』だった。主人公であるミリオナリオ(=百万長者)とジョゼ・リコ(=金持ち)がペンキを塗るアルバイトを経てミュージシャンとして成功する物語であるが、ロックの代わりにポップス、ハーレー・ダビッドソンの代わりに一般車に乗り、大型トラックから、撃たれる代わりに切れたガソリンを分けてもらい、デュオとしての成功を放棄して親孝行するためにそれぞれの故郷に帰る感動のラストシーンまで、この作品は明らかに最近鬼籍に入ったデニス・ホッパーの監督作品である『イージー・ライダー』のパロディである。つまりそもそも才能があれば親や社会に反逆などする必要がないという意味を込めてアメリカン・ニューシネマをシネマ・ノーヴォが同様のラフな演出で皮肉っているところが痛快なのである。
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