快気分析

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仕組みとアプローチ -   本能寺の変前日の茶会で気になる不可解な事 やはり朝廷とイエズス会が繋がっていたと思われる状況

2020-11-17 12:59:21 | 明智光秀
 茶会で気になる不可解な事、それに最近気が付きました。
 その不可解な事とは・・・・・・・勿体ぶらずに結論から書こうと思いましたが、その前に
 まずは次のデータをご覧ください。

引用開始 3件(一部抜粋)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B0%E9%99%BD%E9%81%93%E5%AE%97%E5%AE%B6

陰陽道宗家(おんみょうどうそうけ)とは、陰陽道に由来する一族、一門において嫡流(正流)の宗家(家元)、またはその当主を指す歴史的名称。平安時代中期~後期以降、賀茂氏とその嫡流末裔勘解由小路家が暦道、安倍氏とその嫡流末裔土御門家が天文道の宗家として、代々家学を世襲してきた。この2家を合わせて「安賀両家」と呼ばれた[1]が、江戸時代に賀茂氏が衰退して以降は、もっぱら土御門家を示す通称となった。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E5%BE%A1%E9%96%80%E4%B9%85%E8%84%A9

土御門 久脩(つちみかど ひさなが)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての公卿・陰陽師。陰陽頭・土御門有脩[注 1]の子。官位は従三位・非参議、陰陽頭、左衛門佐。安倍氏土御門家31代当主。
(中略)
しかしそれも束の間、天正5年(1577年)1月2日、父・土御門有脩が死亡してしまう。これに伴い、唯一の嫡子である久脩改め在綱は、同年3月26日、土御門久脩へと復姓復名し、土御門家当主を嗣いだ[3]。
その後、織田信長、豊臣秀吉と仕え、天正8年(1580年)には21歳で正五位下・天文博士に叙任された[4]が、天文博士は陰陽頭の格下であり、位階こそ昇格しているものの、官職の上では降格である。また、その後は長らく官位昇進が無かった。
天正10年(1582年)には、次の閏月を天正11年(1583年)閏1月とするべきだとする陰陽寮が作成した京暦と、それとは異なる天正10年(1582年)閏12月とするべきだという伊豆国の三嶋大社が作成した三島暦とで改暦問題が発生した。久脩は信長に呼び出されて安土城に向かい、論争をしたが決着は付かなかった。しかし、信長は三島暦にするように朝廷に働きかけを行っている。公家衆は無論京暦を支持したのであるが、信長は6月1日に上洛すると再びこの話を持ち出している。ところが、翌日に本能寺の変が発生して信長が自刃したためにこの話は立ち消えとなった(改暦#天正10年の例参照)。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B3%80%E8%8C%82%E5%9C%A8%E6%98%8C

賀茂 在昌(かも の あきまさ)[注 1]は、戦国時代から安土桃山時代にかけての公家・陰陽師。洗礼名はマノエル(Manoel)。正二位非参議陰陽頭・勘解由小路在富の子。官位は従四位下、陰陽頭。
(中略)
帰洛後の活動
『御湯殿上日記』天正8年(1580年)1月24日の記事に「あきまさ」という記述が登場するのが、日本側の一次史料における在昌の初出である。同2月17日の記事には、「おんようのかみあきまさ」と記述があることから、遅くともこの時点までに在昌は陰陽頭に叙任されていたことが分かる[39]。
天正9年(1581年)10月19日、従五位上に叙せられる[40][38]。
同年、いわゆる天正十年改暦問題が起こり、翌天正10年(1582年)1月29日、在昌と土御門久脩は織田信長の居城・安土城に召され、共に京暦側の代表者として三島暦の推進者と討論した[41][42]。

引用終了

 つまり本能寺の変の前日に開かれた茶会では暦(それまでの京暦のままにするか、信長の主張する三島暦にするか)についての討議がなされたのですが、この時に招かれた主な人達は博多商人2人以外では公家衆です。
 その名前は以前の記事でも書いたのですが次の通りです。

引用開始(一部抜粋)

大日本古記録 言継卿記(一) 279頁 より
  
近衛前久、近衛信基、九条兼孝、一条内基、二条昭実
 
鷹司信房、聖護院道澄、今出川晴季、徳大寺公維、飛鳥井雅教、庭田重保、
四辻公遠、甘露寺経元、西園寺実益、三条西公国、久我季通、高倉永相、
水無瀬兼成、持明院基孝、山科言経、庭田重通、勧修寺晴豊、正親町季秀、
中山親綱、烏丸光宣、広橋兼勝、東坊城盛長、五辻為仲、竹内長治、花山院家雅、
万里小路充房、冷泉為満、西洞院時通、四条隆昌、中山慶親、土御門久脩、
六条有親、飛鳥井雅継、中御門宣光、唐橋在通

引用終了

 これでわかるのですが、何と当時の陰陽頭に叙任されていたはずの賀茂在昌が欠席なのです。
 では当時の陰陽頭が実は土御門久脩だったのか?と言うと上記引用データには「天正8年(1580年)には21歳で正五位下・天文博士に叙任された[4]が、天文博士は陰陽頭の格下であり、位階こそ昇格しているものの、官職の上では降格である。また、その後は長らく官位昇進が無かった。」としっかり書いて有ります。
 2017年12月1 に書いた記事、サブタイトル「本能寺の変 前日の茶会であったと見られる出来事」ではこのあたりが良く読めておらず、当日の陰陽頭が土御門久脩だったと勘違いして書いていましたが、これは賀茂在昌に訂正です。
 それで「当時の陰陽頭に叙任されていたはずの賀茂在昌が何故欠席していたのか?」となるのです。
 つまり万が一、茶会当日(旧暦で天正10年6月1日、西暦1582年6月21日)、信長の言う通りに日食が起きてしまうと、それまでの間違った暦を決定していた陰陽頭のメンツ丸つぶれになってしまうのを恐れてか、或いは薄々当日日食が有るのをわかっていたからか、或いは暦の決定をさせない為、のいずれかで賀茂在昌は茶会に来なかった可能性が高いと考えられます。
 最も重要な人物が不在のまま暦について話し合われた、と言うわけで、そしてNASAの計算でも当日は日食が有ったはずである事はわかっています。
 それで実際に当日、京都で日食が確認されたのかどうか、と言うのは当日が雨天か曇天で確認できなかったと言う史料も有るようですが、実際に事実を書いていたのかどうかはわかりません。
 仮に実際に雨天曇天であったとしてもそれは京都だけの話であり、京都以外の広域エリアで雨天曇天だったと言う事は有り得ず、どこかで日食が確認されたのは明らかなわけです。
 だとすると、この日食が確認された情報が京都に入って来る前に信長を消してしまわないと陰陽頭だけでなく公家衆が不利になってしまう、と言う事で信長襲撃を強行するに及んだ可能性は高いと考えられます。
 そして以前の記事でも書きましたが、陰陽頭であった賀茂在昌が何と既にキリシタンだったのです。
 だとすると、朝廷(特に公家衆、更にその中の陰陽寮の長官である陰陽頭の賀茂在昌)とイエズス会、そしてキリシタン武将の高山右近が連携して明智勢を偽装し(高山右近が当時は明智勢の与力だったので当然か)信長を襲撃した後に、それが成功した所へ駆け付けた明智勢の斎藤利三らが呼応して(或いはもう疑われてしまうので逃げ場が無いと思って)信忠を討った、と言う可能性も或いは考えられるかも知れません。
 イエズス会・高山右近が信長を討つ理由を持っていた事は以前の記事で何度か書きましたが、更に朝廷とイエズス会が繋がっていて連携し、そして信長を討つ理由も十分に有った、と言う事になって来ます。
 いずれにしても当時の信長は既に敵だらけ、恨みを持つ者だらけだったので、身辺警護が手薄になれば当然すぐに襲撃された事が確かのは変わりないのですか。


 


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