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仕組みとアプローチ -   山崎の戦いの謎 筒井順慶がもたついた理由

2019-05-12 11:23:08 | 明智光秀
 山崎の戦いではイエズス会と千利休がほぼコントロールしていたと考えている事は以前の記事で書きましたが、ならば筒井順慶はキリシタン武将でもなく千利休の高弟でもなかったのに明智方に加勢しなかったのは何故か?となって来ます。
 これについてはやはり秀吉の働きかけによるものが大きいとは思いますが、筒井順慶について調べてみるとわかって来る点も有ります。

引用開始(一部抜粋)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AD%92%E4%BA%95%E9%A0%86%E6%85%B6

筒井順慶
(中略)
筒井城争奪戦
巻き返しを図る順慶は、永禄9年(1566年)になると、果敢に松永軍に対する反撃を敢行する。順慶は三好三人衆と結託し、筒井城の奪還を企図する。4月11日から21日にかけて両軍の間で戦闘が行われ、美濃庄城を孤立させて降伏させている。順慶と三人衆は筒井城へ迫った。対して5月19日久秀は大和を抜け河内に赴いて同盟関係であった畠山氏・遊佐氏と合流、堺で三好義継と久秀との間で戦闘が起こった。順慶はこの間隙を突いて筒井城の奪還を画策、筒井城周囲に設置された松永の陣所を焼き払うなどした。
(中略)
織田信長に臣従
元亀2年10月25日、順慶は明智光秀の斡旋をもって信長に臣従し、久秀も佐久間信盛を通じて信長に臣従したので、同年11月1日に光秀・信盛の仲介で順慶と久秀は和睦した[9]
(中略)
本能寺の変の後

天正10年(1582年)6月2日、明智光秀が信長を討ち取った本能寺の変が起こった。順慶は福住順弘・布施左京進・慈明寺順国・箸尾高春・島清興(左近)・松倉重信ら一族、重臣を召集して評定を行った。光秀は順慶が与力で信長の傘下に入る際の仲介者で縁戚関係にもあり、武辺の多い織田軍団としては数少ない教養人同士として友人関係にもあった。そのため、光秀からは変の後に味方になるよう誘われた。

順慶は辰市近隣まで派兵して陣を敷いたが、積極的には動かなかった。だが、消極的ながらも近江に兵を出して光秀に協力した[18]。その後も評定を重ね、一度河内国へ軍を差し向ける方針を立てたが、結局は食料を備蓄させて篭城する動きを見せた。6月10日には、誓紙を書かせて羽柴秀吉への恭順を決意した。同日、光秀の家臣・藤田伝五郎が順慶に光秀への加勢を促すよう郡山城を訪れたが、順慶はこれを追い返している。6月11日には、順慶が郡山で切腹したという風聞を始め流言蜚語が飛び交った。

光秀は与力で親密な関係にあった順慶の加勢を期待して、河内国を抑えるため洞ヶ峠に布陣し、順慶の動静を見守ったが、順慶は静観の態度を貫徹した。洞ヶ峠への布陣は、順慶への牽制、威嚇であったとも解釈されている[19]。光秀が洞ヶ峠に出陣したことが後世歪曲されて喧伝され、順慶が洞ヶ峠で秀吉と光秀の合戦の趨勢を傍観したという、いわゆる洞ヶ峠の故事が生まれ、この「洞ヶ峠」は日和見主義の代名詞として後世用いられている。
(中略)
6月14日、順慶は大和を出立して京都醍醐に向い、羽柴秀吉に拝謁した。この際、秀吉は順慶の遅い参陣を叱責した。秀吉の叱責によって順慶が体調を崩し、その話が奈良一円に伝播して人々を焦燥させた(『多聞院日記』)。6月27日、織田家の後継者を選別する清洲会議が実施され、順慶は他の一般武将達と共に待機している。7月11日には、秀吉への臣従の証として、養子(従弟、甥でもあった)定次を人質として差し出している。
(中略)
妻 室:多加姫(九条家女)、松(布施春行娘)、信長の娘か妹[1]

引用終了

 信長の妹か娘が筒井順慶に嫁いでいる事、そして筒井順慶は過去に松永久秀から攻撃を受けて窮地に陥った時、三好三人衆と連携をとって勢力回復した事が有り、秀吉方となっていた当時の三好氏はその流れでもあったわけで秀吉からも三好氏からもこの点を交渉の材料にされた可能性も高いと考えられます。
 明智光秀の斡旋で信長に臣従できた筒井順慶なのですがやはり上記の点から中立、篭城を決め込んで明智方には加勢しませんでした。
 それでもかなり迷ってもたついたようで「洞ヶ峠」の話は後に日和見主義の代名詞となってしまいました。
 日和見主義の汚名を貼られてしまい、そして引用資料にも有る通りに山崎の戦いの後、秀吉から参陣が遅いと叱責されたため順慶が体調を崩したと言う状況からもやはり筒井順慶にはイエズス会や千利休から明確な指示やシナリオが示されていなかった為、どちらが勝つのかわけがわからなかったからだと考えられます。
 この点が明智勢と戦った(それもどうも急に寝返ったと思われる点が有る事は以前の記事で書きました)高山右近や中川清秀らがイエズス会や千利休のコントロールで動いていたと思われる点と異なる所ではないでしょうか。
 
 


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