霊界の門 ・見えないものの力

霊界や因縁から、現在の自分をみつめ、「見えないものの力」を味方にしましょう。

「もう限界です!」という心のテスト

2014年03月24日 | 心霊現象
がんばって18時間の「寝ずの番」を終わって、帰ってまいりました。
コメントを頂き感謝でございます。
『がんばりすぎないように・・・』とのお言葉が、胸に染み入るようでございました。
今の私を、まるでどこかで見ているような、そんな気さえして泣けてきます。
そうなんです。みんな頑張って、頑張ってここまでついに来た。
そしてその先は、それぞれが少しずつ違う方向を向き始めたようです。


いろんな限界を感じ始めるのも、「今頃」でしょうか・・・。
少しは回りが分かり始める。それが同僚であり上司であり会社組織そのものであり・・・。
さらに介護という業界であり、自分の技術(技量)であり志の甘さであり、とまあ頑張って走って、二月が経とうかというこの時が、一番己をしみじみと考える頃のようですね。
三か月の「研修期間」といわれて、たかが三か月と思った人も、予想だにしなかった事(出来事)にぶちあたれば、初心など脆くもぶっ飛び、すたこらさっさと逃げ出したくもなるというもの。
いや、そうではない。
私達は「この三か月」を甘くみていた。
この世で計る「三か月」なら、あっと言う間であり仕事や環境や人に「慣れさえすれば」いいと、タカをくくっていたかもしれない。
しかしどうだ。想定外の事が自分を見舞う。
「このわたしが、お客に嫌われている?」。
「このわたしが、この仕事に向かないと思われている?」
「このわたしが、上司に役に立たないと思われている?」

などなど。
いろんな「疑心暗鬼」にみまわれ始める。
なぜ?・・・、ほらほら「長成期完成級」を忘れている。
「サタン」が一番狙いやすい「時」は、「そこ」だったはずであり、人類歴史は常に「そこ」で失敗してきた、という歴史の繰り返しがあった。
何と大袈裟なと言われるだろうが、「時」を軽視してはならない。
個人から団体、国や民族に至るまで「時間との勝負」には鉄則があるのだ。
そして「それ」を一番よく知っているのは「本人」よりも「サタン」である。
霊界である、といってもいい。
試しの時は、そうして我々の心を確かめはじめる。いわゆる「心のテスト」である。
「あなたは、これでも耐えられるか?」「この人についていけるのか?」「それでもやりたいか?」と、あらゆる角度から試しの矢が放たれる。
この三か月こそ「自分との闘い」になる。疑心暗鬼の連日の中で、「わたしは、何の目的でここへ来たのか」に焦点を当て、その答えをはじき出さなければならない。

人に可愛がられるために来た者は、すぐに出て行ったほうが身のためであろう。
疲れるから、汚いから、可愛くないから嫌というならば、最初っから的外れだったことを反省した方がいい。


結果、今日までに一人が辞めた。
いや、首になった。ま、「身から出たさび」と、私は解釈しているが、人はどう分析したかは分からない。
その「処分のしかた」、つまり「しうち」に対して「否」を唱える者たちは、次の機会を狙って「自分の言い分」を強行に「上」に「会社」に推し進めていくだろう。
私は今人の動きを見つめている。
ある意味冷静に、またある意味冷たく・・・。
それは「言葉一つ」で反応し合う。ちょっとした言葉それも「上役(リーダー)」が吐いた言葉に異常ともいえる敏感さ、反応の速さを示す。
「許せない!」・・・と。
まるでここは戦場か、と思えるほどの激情ぶりに驚く。
「冷たく見据える私」には、職場ではなく「ここは戦場」と化す。
まるで「関ヶ原」のまっただ中にいるような錯覚さえ覚えて、「組」が、「派」が出現する。
旗こそ立てないが、それぞれの言い分を背中に背負って相争う様が見える。
「何が言いたいのか?」・・・。結局どうせよと言いたいのか?・・・。


時は今。
どこかで聞いた台詞だ。何かが始まる時は、決まってこうだ。
一つのものが二つに分裂し、さらに分裂を繰り返し、次第に「良きもの」にと変わっていく?。
「正反合」、こうして歴史は繰り返して今に至ったという?。
だから反発こそが、分裂こそが「良きもの」を産みだす原理原則のものであり、正義だと説くこの思想。それを唯物主義、社会主義、共産主義の思想の原点といって近世の世界を作り上げようと計った。
見えない世界が糸を引く。つまり霊界が意図をもって引き寄せ、手繰り寄せ、一つの集団を作り上げていく。
「あなたは何をしに、ここへ来たのか?」・・・。
全ての限界を今自分に感じ始めた「今」だから、立ち止まって己の魂に呼びかけ、問い正してみよう。
神の世界は、「正反合」ではない。
反発や分裂からは何も生まれない、と解く。

私に与えようとされた神の「最終ステージ」。そして「ここ」。
何をしに、何を果たさんと、私は今ここにいるのか・・・。
人は時間とともに、少しづつぶれていく。魂も目的も意識も感性も、全てが今いるところをずれていく。
しかし、次もなく、またもなく、「ここ」と決めた私には、今起こっている「出来事」を的確に分析し、確かな答えをはじき出さなければならない。
目の前に繰り広がる「この光景、有様」は、この私のためにあるのかもしれない。
そう考え直して、パソコンのキーを叩いている今の私なのです。

特に新しい理想を掲げ、志を持って始まったところは、作り上げるまでの苦労は当然ある。
それをこそかえって望んできた者同士であれば、きっと行くべき一つの道が、必ずあるはずである。
熱いマグマがエネルギーの出口を求めて突沸する場所が、つまりここから『日本の介護』を担うにふさわしいものとして産みの苦しみであってほしいものだと祈りながら、「今」をみつめている。

エネルギーの突破口第一だった彼女。
あなたは私の同僚であった。
「話がある」といって、あなたは私を誘った。
しかし「その相談内容」のことごとくを、私は諌めた。時期尚早である、と。
夢を語り、理想を語り、生い立ちを語った「あなた」だったが、一人で立ち向かうには無謀であった。周りの誰一人「あなたをよし」とする者を持たずして、事を進めるのは危険であり破滅であると。そこで私は「三人」を先ず集めろと言った。
あなたの夢、理論理想を共有する人集めが先決だと、語った。
一人で浮いていることを、彼女は自覚していなかったからだ。
「でもさぁ~」「だけど・・・」・・・と反論する。(私一人をも説得できないあなたは、人をも、この世をも舐めている・・・)。
その後、職場で上司に食って掛かるという場面を二つ演じた彼女は、自らのマグマとエネルギーに身を焼いて果てたことになる。
どんなに「正しく」「的確で」「いいこと」でも、与える印象が良くなければ「それさえ否定」されてしまう、という簡単なこの世の道理を、ご存じなかったようだ。


「喧嘩両成敗」、江戸時代の法であれ私の頭には、なぜかこの言葉がぐるぐる回っている。
いつか「この損」が私達をみまい、学び直す時があたえられるだろう、きっと・・・。



神の発展の原理原則は「正分合」である。
分は分裂ではなく、二つになったものが相乗作用によって、前より「よりいいもの」となって発展していくという事である。

同僚一人を失うハメになった「現状」を、私は神に謝罪しながら祈っている。