霊界の門 ・見えないものの力

霊界や因縁から、現在の自分をみつめ、「見えないものの力」を味方にしましょう。

帰宅願望

2014年03月17日 | 心霊現象
今日の題材は「帰宅願望」です。「きたくがんぼう」と読みます。
いわゆる「ホーム・シック」のことですが、特に「認知症」においては誰でも「その症状」に冒され?、実にやっかいなものでもあります。

昨日「寝ずの番」を終わり帰ってきましたが、いつもに比べ、今回はへとへと・・・。
実はこの「帰宅願望」なるものに、ノックアウトをくらってしまったということです。
一人二人と、夕方になると特に強く、また確実に出る「帰宅願望」の症状は、いたるところへと波及します。
忘れていた人さえも巻き込んで、「かえるコール」が始まるのです。
あっちこっちから、「わたし、どうなっちゃったの?」「家の者はいつ迎えに来るの?」「家へ電話しなくっちゃね」等々、お客さんの心の状態がこの時ばかりは一致するようです。
実に夕食時から寝る前10時半まで、その状態が続くのでした。
電話を探してうろうろと徘徊していると思えば、他の職員に玄関を開けろと迫まる。
夕食の後片付けの最中に、厨房へ押し入り?、「わたしどうなっているの?」と腕をつかむ。
包丁や、食材を「ミンチ」にする機械の刃物類だけを最初に隠し、片づけながら手をふきふき話を聞くありさま。夜8時になると職員は「私」一人になり、いよいよ一人対数人の「バトル」つまり「寝ずの番」が始まるのだ。


『家のものは、わたしを捨てたんでしょ?!。もう迎えになんかこないんでしよ!』
『お父さん、どうしちゃったのよ!、来ないじゃないの!』
『息子が来るって、ウソ言って、来ないじゃないの!』
『どうして公衆電話が置いてないの!、お金入れるからかけさせてよ』
中にはこんな絶叫?もある。
『ウソつき女!こんな女の言う事を聞いちゃだめよ!わたしたち、せっかく楽して休もうと来たのに、こんなに「こきつかわれて」・・・』(ウソつき女とは私のこと)

はいはい、みーんな聞いてあげますよ。
でもみなさんの言う事を一人づつ実行してあげていたら、事件(事故)になってしまいますからね~。
「この状態じゃ、こりゃ今日はダメだ」そう踏んだ私は、仕事の全部つまり台所の片づけや、書類の書き込みなどをその時点から放棄した。
空いている部屋の戸をゆすり、寝ている人の部屋へも入り、つまりやり場のない心を静めなければ、本人でさえどうしていいのか分からないのだろう。

もう昔のことなので「時効」になる。
帰宅願望が治まらず自室で泣き続け、皆が寝静まった夜更けにタオルで自分の首を絞め、自殺の行為に及んだ「婦人」がいた。
部屋の隅で泣きながら、食事もとらずに「家族への恨み言」を言い続けたあげくの行為だった。
幸い職員が30分おきに部屋の様子を見にいっていたこともあり、大事には至らなかった。
「認知症」だから、そのうち「ケロッ」と忘れるさ・・・、これは時には通用しない。
深く、実に深く心の傷となって「その人」には「耐えられないうずき」となって本人を襲う。
それは救いがたい「病気」でもある。
さっき、そうだ夕食前確かに「娘」に会ったのに。それさえも忘れての悶絶であり、恨みなのだ。
いったい人間の脳の機能は、どうなったというのか。
そして心の拠り所も、どうしたのか?。何もかも無くなったのだろうか・・・。
さらに、よしんば家に帰ったとしょう。
それさえも「瞬時」に忘れてしまうとしたら・・・。

人間の「記憶装置」が破壊された時、人は「こう」なるのだろうか?。
それが、「まだら」になって人(本人)を襲う。
常人となんら変わりが無い。その時だけを見たら、かえって不思議な気さえしてくる。
なぜ「あなた」がここにいるの?・・・、と。
今日がいつなのか、明日が何の日なのか分からない。
あなたが誰で、わたしがその「何」なのかが分からない。
しかし「その家族」らしい者から、自分は捨てられ(隔離され)ここに居るらしいことが分かるのだ。事情を知っているらしい人間に上手に聞く事さえもう出来ないほど、高ぶる気を押さえることもなく、絶叫し怒鳴りまくる。
何人の人に堪えられるのだろう・・・、この「私」。

年をとると「トイレ」が近くなる。
10分おきに必ず起きてトイレへいく人もいる。
この人は「転倒」の危険がある。必ず「手びき」が必要である。
部屋のセンサーが鳴る。動く気配で鳴るセンサーは、実に今様であり「優れもの」だ。
しかしこの「文明の利器」を味方につけながらも、最後は人の手であり瞬発性による感働きである。
この方は息子がいて、頻繁に来られる。帰り際、必ず「ハグ」をして帰る。
『おやじ、また来るからな。元気でいろな。たくさん食べて、よく寝てよく出して。職員のみなさんに可愛がられろな。俺を生んで育ててくれて、ありがとな』・・・。
こう言いながら、93歳になる「おやじ」をしっかり抱きしめて帰って行く。
「いい息子だねぇ。自慢の息子でしょ。明日も会えるからたくさん寝て、たくさん食べて、たくさん出そうね~」、とそう言う職員の言葉で顔が変わる。
目もうつろな表情だったのが、満願の笑みを浮かべて繋いだ手に力が入る。
表情が和らぐのはこの時のみだ。
さっきトイレに行くとき、私の手を叩きながら振り払って、「何すんだよ!」って言ったことはもう忘れている。

まさしく「この職業」は「根競べ」でもある。
バチカンの「コンクラーベ」などという高尚?なものではないだろうが、神の根競べとは「似たもの」がある。
いつになったら「その時」が訪れるのか・・・、という気の遠くなる時間との「根競べ」である。
神の相手は人であるが、いつかは「親の元」へ帰るという結論からくる期待、そして根競べだ。
もう一つの相手「サタン」との「根競べ」でもある。


しかし、この病気「認知症」は治らない。
薄れゆく、あるいは抜け落ちてゆく「記憶」が元に戻ることはない。
家族を巻き込み、国を巻き込み、世界を巻き込む「この病気」は、大袈裟に言えば今人類歴史に迫っている。有史以来「記憶が抜け落ちる病気」など、思ってみただろうか。
何かが狂い始め、何かを伝えようとしている。
悲しいながら「人が人でなくなる」この現象は、どこかで終わりにしなければならない。
「金」や「暴利」を貪る者は、今後の起業が「ここ」だとばかりに高齢者むけの「アイディア」をそこかしこにばら撒くだろう。
悪いとはいわない。が、こんな人間になぜなるのだ?。
早く「そこ」にメスを入れ、人類の頭脳ここにありとばかりの「救いの道すじ」を示してほしいものだ。



この「帰宅願望」は、本来堕落した人間がもつ「心の発露」であるはずなのです。
ここは「わたし」がいるところではない。
ここは「わたし」が住むところではない。
元居たところへ「わたし」は帰ろう。
永遠の「ふるさと」であり、魂の拠り所「ふところ」へ、早く帰ろう・・・、と。
その「ふるさと」も「ふところ」も、今はどこにもない。
体をよせる「地上のふるさと」、そして魂をあずける「霊界のふところ」。
この二つを手に入れる日が、神が親であり人が子であるという有史以来の悲願「エデンの園」を実体験する時の到来だと思召せ。

『早く家に帰して!!』・・・、この叫びを聞きながら、複雑な気持ちを癒すべく神に祈る私でもありました。

今日は舞う事さえ困難な出来事でしたが、静かに、いやこの私が泣きながら祈る「良き晩」でございました。(いや、心ではてんてこ舞を踊っている)
神様~。
一つご報告します。
人智の及ぶところを知らず、若いものが「塩」を盛るという行為を始めました。
ある難儀な(介護することが)方の部屋の出入り口に、「盛り塩」を始めたという事を知り、内心複雑であります。それって、何の意味で何をどうしたいのか?・・・。
最後は「苦しい時の神頼み」だとでも?・・・。
お怒りにならないでくださいませ。
詳しくはこれからご報告せねばと、思っておりますから。
今のところは、いろいろあります、というご報告のみで、お許しくださいませ。

今は5、6人というところなのに。
これが9人となったら、一人で寝ずの番をすることに「自信」がなくなっていく者が増えるのも、致し方のないことでしょう。
私?、最初っから自信なぞありません。
最後のステージにおいて、神が何をこの私にご所望なのかを割り出すのが「役目」であり「目的」であれば、自信でものごとをやるものでもなく、信じて祈って・・・、結果はその後に当然出てくるものと待っております。

そうそう、もう一つのことをご報告して締めといたします。
会社を途中で止め、介護に身を置くことになった中年の男性が、今悩んでいます。
「帰宅願望」の人に、「一つのウソ」をつく。例えば、「夕方身内が来る」と。
それが来ないと分かると、予定が「明日」になったとウソをつく。
二つ目のウソは「三つ目」を生む。
誰にどんな「その場限りの事」を言ったかを、一冊のノートに書くハメになる。
その連日で、自分の心が悲鳴を上げ限界を感じてくる。
みんな「心も体」も限界を感じだしている、丁度そんな時また「さらに難しいお客さん」が入居してくる。
人生にウソをつくなど、いやウソをウソで塗り固めなければならないなど、思ってもみなかった。
仕事とはいえ、僕はどうすればいいんでしょうか~。
この人は、親の介護を兄弟が見て自分は何もしなかった。
せめてその「つぐない」を、今他人を通してしたいと思って始めたが・・・。
介護につまずき、女性の多い職場につまずき・・・。(どうすればいいんでしょう)

そんな相談や愚痴を聞く日が多くなりました。


私も、本当にどうすればいいんでしょう・・・。


「宇宙からみた自分の位置」、といった伊能忠敬を一瞬思い出した次第です。











「氷川丸」の先生のこと、再び

2014年03月09日 | 心霊現象
コメントを頂いたこともあり、思い出してまた書いてみます。
実はね私、コメント欄のお返事を書くところの「数字」が読みずらくて、それでついついこの場をお借りしています。
目もいい若い方には、なんてことないんでしょうが、時には何だろうという読みずらい数字ってのがありますよねぇ。もっと分かりやすくすればいいのに・・・。
で、そのコメントのお返事も兼ねて書いてみました。


氷川丸の先生「渡辺先生」は、あの当時日本にも珍しい看護婦として国家試験を受け、合格。
そこでまた「軍部」の試験を受け、従軍看護婦として「国」から派遣された人でした。
南方で現地調達された人ではなかったのです。
「女だてらにわたし、きかんぼうだったから、後先考えずに応募しちゃったのよ~」と、先生はくすくす笑いながら話されていたものです。
今年93歳になり、今はどこでどうしてお過ごしやら・・・。
いきなり「拉致」されたものですから、今だに居場所は耳に入ってきません。
先般、そのいきさつを書きましたので、いくらか事情は分かっていただけるとは思いますが・・・。
いやはや、ここが本当に「日本なのか?」といぶかっている次第。
身内のそれも、たった一人が仕組んだものであれ、人一人が目の前から消えるんですから恐ろしいというか、みごとというか・・・。
成人後見人をし、20年近く「介護」をしながら親交を深めていた「第三者」でさえ、行方をいまだに知らせてもらえないんですから・・・。
『成人後見人』って、いったい何なんでしょうねぇ。
血縁者から「怪しい後見人」とレッテルをはられたらもうおしまい。行政も法曹界も訴えた人よりも訴えられた他人を疑うのは間違いありません。
「認知症」をいいことに「使い込みしている」と言えば、もう犯罪が成り立つようです・・・。
拉致したのも身内、それを探そうとやっきなのも身内。いったいどうなっているんでしょう、その血統は?・・・。

その後、「先生」が入居したらしいという介護施設が「ノロウイルス」で閉鎖され、それからはなお居所不明となり・・・。生死もわからず、今に至っているのです。
人の一生なんて、一寸先は闇。まるでその言葉をそのままなぞったような出来事でしたねぇ。
またこんな言葉もありますよ。「明日は我が身」って・・・。

後見人をしていた方が言っていました。
一番気を付けたことは、本人が嫌だという事をしない事だったと。
身内には預けないで!。そして墓は自分で造って一人で入りたい!、と。
墓守は、「あなた」が生きている間だけでいい、時々お参りしてちょうだい!・・・、と。
しかし「認知症」になってしまった。(結局、そんなハメになったのは、あなたが悪いのです)
寝たきりでもいい、自分がどうされたいのかがしっかりと、はっきりと表示できる事。
つまり「自分の意志」で今日を生きている、という一番大切なことが抜けたら、もうオシマイなんですよ~。
病気をさせず、ケガに細心の注意をはらってここまできたのに・・・。
最後の最後にさらわれてしまったなんて・・・。(多分、先生が残しているであろう財産であり、金目のものがねらいであったろうかと、勘繰るに至りますが、双方ともさみしい、心寒い限りです)


今私は、介護職として日々を過ごしています。
入居されるお客様は、年齢が丁度そんな方々です。2、3日前は93歳の男性が、さらに数日前は87歳の男性がこられました。これで4名となり、91歳と85歳の女性とでみな「大戦」まっただ中に青春時代を過ごした方々となりました。
「軍歌だけは歌わせないで」と言われた上役の禁を犯して、「歌いたい歌は何ですか?。歌いましょうよ~」と聞いたら・・・。
聞こえないと言われ、耳の側で大声を出しながら促したら『琵琶湖周航の歌!』と答えた。
ああ、この方の心は、それを歌うことによって「ある思い出」にひたることができるのか。
その答えがもろに「軍歌」であったとしても、それでもよかったと私は思っている。

音源は「加藤登紀子」が歌う「琵琶湖周航の歌」をとり、パソコンから歌詞を印刷して翌日には早速歌った。いい声で何度も何度も歌った「その方」は、確かに人生をたくましく生き、今こうして施設に身を置く。


先生といっしょに思い出す「もう一人」の先生がいる。
高校時代の英語の先生だ。阿部先生といい女性である。すこぶる厳しかった。
隣の席の○○ちゃんが、足を震わせている。そういう私も、手にもったえんぴつが小刻みにゆれている。そんなに怖い授業は、今の子には通用しないだろう。
まず父兄が黙っていまい。それがまかり通る「モンスター・ペアレンツ」の時代があったなど彼ら「戦中派」は思いもしまい。
その先生の友人に「森繁久彌」という人がいた。
ん?、聞いたことある?、そうです「あの森繁久彌」です。
彼がNHKのアナウンサーになった話は、知る人ぞ知る。
その理由が「徴兵されたくなかったから」と、「海外へ行きたい」からだという話は有名だったようだ。
その彼「森繁氏」と阿部先生は「中国(上海?)」に渡り一緒にアナウンサーをした時代があったそうな。
そんな話を何度か聞かされて、森繁さんとは「どんな人」だろうかと、田舎の高校生だった私達は空想してみたものだった。
その後の彼の活躍ぶりは、周知の通りである。
「加藤清史郎」という方が書いておられる。
アナウンサーが原稿を読むとき、息継ぎつまり「ブレス」の音(気配)をいっさい察知させない読み方を、みごとに森繁氏はやってのけたという。それはもちろん努力のたまものであったろうが、まず日本でもいなかったろう、と。それほど彼の完璧主義は人生の最後まで貫かれたらしい。
晩年の彼が残した偉業は、900回におよんだ『屋根の上のバイオリン弾き』の公演だった。
その彼が何に拘り、何を身に付け、何を観客に植え付けようとしたか?・・・。
その精神をご紹介して、ここでの昔話を終わることにいたします。

ウィキペディアからの引用ですが、加藤氏が語る内容が森繁氏の人生あるいは芸の全てであったと知れば、私は知らないまま、観ないまま、終わってしまったわが人生に、一つの悔いを残した事を今知るありさまです。
最後に「加藤氏」はこう結ぶ。
『これらの技術は全て森繁にあった。
 化け物、この一言に尽きる』と。



『中国は唐代の詩人、白楽天の詩に「琵琶行」という作品がある。
 作者がとある湖に旅した際に出会った一人の女性の芸者について語った詩であるが、その中の
 文章には様々な表現の肝が記されている。
 「未だ曲調なさざるにまず情あり(曲を奏でる前の段階で情がある)」「声ようやくやむ幽愁
 闇恨の思いが生ずる。このとき声無きは声あるにまされり(歌が一度途切れた際のヒキの部分
 声なきは声あるにまされり)」
 「我琵琶を聞きてすでに嘆息せるに、またこの語を聞きて重ねてそくそくたり(琵琶の演奏だけで
 驚きべきものだったのに、この女性の身の上話を聞いてさらに感ずるところが大きかった)」
などなど・・・。

これらの技術は全て森繁にあった。
化け物、この一言に尽きる』・・・、と続くのである。

このような芸を、そしてその集大成だった「屋根の上・・・」を一度観たかったと、そんな想いがしみじみ私の心に湧きおこった・・・。

昭和はいろんな意味で、本当に遠くなっていく。
何かを学びそこねた「私達」ではなかったか?・・・。




「精子」と「卵子」を売る時代

2014年03月04日 | 心霊現象
とうとうそこまで来たか・・・。
これが、正直私の心であり「ため息」でもあります。

先日のNHKTVの番組での話。

「精子売ります」、と40余りのサイトで販売を呼びかけているそうな。(日本の話である)
例えば買い手は「個人」、未婚の女性。
ただ、子供だけが欲しい。そういう35歳の女性は、この先老いても子供がいれば生きていける。
と、人生をそうふんだ。子供に賭けたのだ。
国はもちろん売買を禁じている。
提供が法的に許されているのは、法律上結婚し(法律婚)未だに子供が授からない夫婦に限る。

当人同士だけが介在出来る「闇の売買」に、人生を託して売り手と買い手がセットされていく。
買い手は「子ども」を得て万々歳だ。売り手も「金」を得てご満悦だろう。
アメリカでも盛んに?行われている。
アメリカ・カリフォルニヤ州のこと。
一人の男性の精子提供によって「14人」の子供が生まれた。46人の女性に提供した結果だったという。
しかしこれも氷山の一角、いったい提供者が何人いて、その後どこでどのような結果がでているかさえ把握されていない現状だという。
国も今後どうコントロールしていいかわからない、という。

表向きで見るだけで言えば、「子どもを得られて、よかった」とも言えなくもない。
が、あの世つまり「霊界」から見たらどうなるとお思いか?・・・。
血統からみて、どうなるとお思いか?・・・。
さらにさらに、神の心は・・・、笑っておいでか泣いておいでか?・・・。
そんなことが、とうとう分からなくなった人間たちで、地球は脅かされていく・・・。
精子も卵子も、もう「その中身」に歴史の功罪をたっぷりと含んで「その因縁・血統・先祖」の中に組み込まれていくのです。
相手の何かも分からずに、まいた種が大きくなり実る時、「何」が起こるかは・・・。
植えた種の持つ内容が、そっくりそのまま「一人の人間」として開花するのです。
「あなた」は怖くないか?・・・。
映画「オーメン」などにみる、生易しいものでは終わらないだろう。
一族を「総根絶やし」にするくらいの「覚悟」さえ必要になる「出来事」なのに、「それ」を知らずにいとも簡単にやってのける「この時代」に、いずれ罰が下ることは目に見えている。
その個人だけの問題として「自業自得」などと言っていられなくなるのだ。


医学の世界からは、「感染症のリスク」を表に出して警鐘を鳴らしはじめた。
国は?・・・、生まれた子供の身分が安定しないとの理由をあげて「罰則規定」の方向を考え始めた。
宗教界は?・・・。(なぜか、あまりにも静かすぎる)
人はもうここまで狂っているのだ。
もう、元に戻れないのか?・・・。

『私たちにも、産む権利はある!』・・・、とそう未婚の母はのたまう。
個人の権利が、ここまで則を越えて言われる時代に、誰がした?。
また、そのどれにも関わらなかった人の群れ(血統)に、ある日「出所不明」な人間が 加わる日もそう遠くはないだろう。
「あなた、誰?・・・」と、霊界ではそれこそ血統圏による「特別取調室」が設けられ、その「どこの馬の骨」かもわからない魂の尋問が、あちこちに展開されていくだろう。
また地上では、思っても見ない「罪」の清算が、一族かけてやらされる「ハメ」にもなる。
精子、卵子の売り買いは、そんな見えない部分にこそ「本当の怖さ」が潜んでいるのに、当時者は「金」と、「子どもを生めばなんとかなる」という二つの勝手な欲望が合わさり、とんでもない結果を将来血統に送り込むことになる。
それを「知らない」今の無知が、すでに犯罪以上の血統的背信行為を生む。
神の前にも、立てるわけがない。
これからは「霊界の大混乱時代」に突入する。
それはどのような現象になって、この家を、この国を、この地球を襲うかはなってみなければ分からない。(多分にあり得ないことが、想定外のことが起こり、それも続くにちがいない)
病、災害、天変地異。つまり星の軌道の突然変異くらい朝飯前の出来事になる。
そうでなくても隕石の落下など、よくも今日まで逃れてきたと思えるくらい、奇跡に近い内容で地球は守られてきたのに~、である。


日本人女性の卵子売りは、アメリカの「ある」州で有名な話であることは、前に申し上げた。
一件60万円。売れば60万円頂けるのだ。
年齢は29歳まで。としっかり制限し、「若い卵子」をこそと、買い手も謳(うた)う。
さてさて「この売買」は、いつから、誰の手によって始まったのだろうか?・・・。
建国200年を謳い、祝ったアメリカの「清教徒(ピューリタン)精神」は今どこへいったのだろうか。
神も見放さざるを得ない「大国アメリカ」は、これからどこへ行くのか・・・・。
今から去ること、1972年はいわば「神の最後通告」であったと言ってもいい。
「ヒッピー」であり「マリファナ」であり「性の解放」であり、アメリカが若者を通してどんどん変わっていった時代である。
若者によって「いい方向」へ変わっていったのであれば、実に喜ばしいことであった。
が、さにあらず、「神」さえ目を覆う程の方向へと突進した。
あの歴史学者「アーノルド・トィンビー」でさえ今生きていても「観たくもない」アメリカの若者の見るも無残な姿だっただろう。
彼らは何を失ったか?・・・。
精神を失ったのだ。200年という長い時間を掛けて、「神の精神」を無くしていったのだ。
その背景には、宗教界特にキリスト教の腐敗堕落や、もはや若者たちをも導きえないほどの退廃ぶりが国中に蔓延したのだろう。
植えた種は、必ずいつか刈り取る時が来る。
同じように「日本」も、因果律という天の鉄則から免れることは出来ない。
植えた種は何であったか・・・。それを思い出せば、いずれ刈り取りの時には何が起こりえるかは想像できる。
歴史という計りずらい時間の単位を、見届けた者はいない。
しかし確かに時は刻まれて今日まで来たことには、間違いがない。

前にも書いたように、「ムー大陸」があったかどうかは、私は知らない。
しかし「ローマ」も「ポンペイ」も「秦」も、今はない。
千年単位で語られる「神と人間」の関わりの時間は、やっと7千年まできたようだ。
それを、一人の人間が見届けることは不可能である。しかし不可能を可能にして、「それ」を知らなければならない。
つまり、「人類歴史」の詳細をである。
いつ、どこで何があったか?。遠い遙かな神代の時代と言われようが、知らなければ「人類歴史」は解けないまま謎で満ちたもので終わってしまう。
ましてやその人類の親が「神」であるのならば、その神の歴史を第一に知るべきである。
それが「順序」というものである。
人間が「こんなものでしかない」のなら、きっと親である神も「こんなもんでしかない」のだろう・・・。
よく「子」を見て、「親の顔が見てみたい」というではないか。
しかし、もし「そうでなかった」なら、つまり親とは似ても似つかぬ子供に成り果てた「何」かが起こったとしたら、それはどこで、何が起こったのか?・・・。
これこそが、「人類歴史の謎解き」の一丁目一番地になるということです。
謎だらけの聖書を読んで何が分かるか?・・・。
牧師の説教を日曜ごとに聞いて、何が分かるか?・・・。


それを、好むと好まざるとにかかわらず、学ぶ必要があるということです。
今更聖書でも、キリスト教でもないでしょうと決めつけたら、次には何も始まりません。
時間もなけれは、やる気もない。そんなところからは、救いの手を先祖に差し伸べる資格者になぞなりえません。
足元がいつでも「ぐらつく」危ない日本の地に、枕を高くして寝ているつもりの国民。
日本の人よ!
神の時間の秤(はかり)は、今どこを指しているのかを見た者はおありか?。

日本という国単位の「日々の玉入れ」は、いつその数え唄を歌うのでしょうか。
ひとつ、ふたーつと「魔の数え歌」が聞こえてきたら、是非私にも教えてくださいませ。
(今のところ、私の耳にはまだ・・・)


でもね、それが聞こえないうち、そう今こそ「真の道」への方向転換を実践するべく、意識転換を決心いたしましょう。
皇紀2000年余を誇るかに見える、我が愛する「日ノ本の国」でさえ、親なる神の道を外れては子の生きる道はありますまい。
今日まで導き愛し続けた日本に於ける「親なる神」の呼び名を「天照大神」というのであれば、それはそれでいい。
その親の心や真理に立って生きてきた民族であったかを、今問う時が来たと思えば、自ずから答えは出るというものです。
先祖を総動員して、つまり霊界の住人方のお力をお借りしてでも、今後の日ノ本の神への道を正しめてまいりましょう。
(今年は、伊勢と出雲の「神のお住まい」を新たにした年でもありますから~)

蘇れにっぽん!!・・・、さしあたってこう叫びます・・・。

霊感のある「あなた」へ、再び

2014年03月03日 | 心霊現象
前に書いた同じようなもの、つまり「霊感の強いあなた」に、再びのメッセージを書きます。

ペリリュー島のあの激戦区、そのご遺族からのコメントを頂いたからでもあります。
まず、あなた様の血統圏に感謝申し上げます。
これが遺族の方と、大切な命を国を守るために捧げられた「守備隊」の方々に対しての今の日本人が持つべきあたりまえの精神でもあります。
靖国問題とか、戦争犯罪者とか人は言いますが、その事自体が不遜の極みだと申し上げます。
たとえそれが命令であり、嫌々ながらのことであっても「その尊い命」が目的に沿って散っていったことには、何等変わりはありますまい。
その心が「怨み」でなく「恨み」であれば、彼らは救われ、霊界における次への道が用意されていることは、前にご案内した通りです。ご安心くださいませ。


さてさて、「霊感が強い」即霊能者になれるか?・・・。
この答えもその理由も、ブログの前半に何度かにわたって書きましたので、是非ページをめくってお読みくださいませ。(「霊感の強いあなたへ」の項目です)
結論は「霊能者」になぞ、簡単になれないし、また「へたな霊能者」になぞ、なってはなりません。
と、いうことでしょうか・・・。
霊感があることと、霊能者になる(なれる)こととは、違います。
まず、先にもご説明した「血統」。
あなたの血統は、先祖は「そのお役目」をするにふさわしい血統でしょうか?・・・。
神の前に徳を積んだ、つまり霊的財産、功労をお持ちでしょうか・・・・。
神の言葉を預かるに「ふさわしい功労ある血統」として、神が了解されたのか、ということです。
この世に「ごまん」といる霊能者。なぜ言う事が違うのでしょうか?。
答えは、見える霊界の範囲が違う、ということです。
どこまでの範囲を見、どんな言葉を聞くことが出来るのか?。
それが「霊能者の本物」を決めるのです。
ということは、いかに「ニセ物」が多くいるか・・・。
世間を騒がせるから「ニセ物」ではなく、「それ」が神から出たものである事が、本物である条件でしょう。
ではそれを誰が判断し、誰が決めるの?・・・。
それが「あなた」なのです。
霊界の何も知らず、神の何も知らず、「真理」の何もしらない『あなた』の判断基準こそが運命を変え、人生を切り開く「かぎ」となれば、他力本願や人任せではなりません。
私達こそ正しい内容を備えて、「事」に構え、解くだけの者となりえて自立し、霊界肉界に通じる人になっていくことが、第一にやるべき努力目標ともいえるでしょう。
先ず自分を磨け!、ということです。
その結果に身に着いた内容や能力を総称した呼び名が、「審神者(さにわ)」。
私的に申し上げれば、「あなた」こそ「審神者」になれ!ということですね。
へたな霊能者や、にせ者をさえ見抜く者。
その霊感、感性をいつ、どうやって、磨くかです。
霊能者が落ちる道は、神の摂理を知らない事に起因します。
自分が途中で「神」になるのです。これほど怖いことはありません。
霊界の魔界とよばれ、サタンといわれる「その正体」を知らずして、闘い勝つことは不可能です。
霊能者が陥る原因は、「自分」が何者であるかを知らないところから始まります。
ただ「霊感」がある・・・。
人間は生まれながらに「霊」がある以上、霊感があるのはあたりまえです。
それって、なんのためにあるの?・・・。
人は死んだら「あの世」に行くのではなく、霊だけの存在となって生きるという「道理」を知らないからでしょう。
「霊」も知らなければ、「生」もしらない。
結局、人間って何?・・・。
これが人間誕生からの「謎」だったと申し上げたら、あなたは何と反応なさるでしょうか。

へたに霊感があるなどと、霊能者まがいな存在となって一時を自慢気に過ごしてはなりません。
まず「真理」を「天法」を「天理天測」を、学んでください。
その道々を、「見えない存在」が案内してくれます。
それが守護霊であり、先祖の功労であります。
霊能者は偉いわけでもなく、ハデでもなく、胸を張るものでもありません。
ただひたすら「神の道」が直くなることのみが、使命であり目的になります。
究極は「神の存在」や「その目指すところ」、つまり「神の摂理」が分からなければ、『霊能者』とは言えません。
言い換えれば、霊能者とは「神のしもべ」であります。
神が分かったら、人間とは何かを学びましょう。
その「真理性・バックボーン」だけが、霊能者の骨子・ゆるぎない真理を武装した者として「霊界」を判断することが出来ます。
誘惑にも勝てるのは、これがあるからです。
つまり「悪」とは何か?。
常識や法律が「善」ではなく、神の正邪がはっきりと認識されなければ、人情的判断によって狂っていくことは日常茶飯事の事。

厳しい世界へ船出されることを、あえてお勧めすることも、異を唱えることも私はいたしません。
が、先祖の救い主になることは可能です。
「あなた」が先祖の何たるかを知り、どうすれば一族郎党下士に至るまで「その救いの圏内」にたどり着く事が出来るのかをお知りになれば、霊界と地上界は待ってました、とばかりに「仕組み」ます。
それが「今」でしょう。
時間限定の「今」なのです。
それをどのようにやるかは、霊界の門(ブログ)の最初に書いた通りです。
どうぞ、姿こそ見えないが確かに「ある」世界、亡くなった方々が住む世界『霊界』を、お知りになるべく学んでくださいませ。
いずれ先祖が招き、守護霊が補佐し、神の命が下る日もそう遠くはないかと存じます。

「今」お逢い出来たことを心から感謝申し上げるとともに、この「ご縁」こそが目的を持ち意図をもったものであることをお伝えして、終わります。
(もし、それでも・・・、とおっしゃるのであれば「霊界の門」第一章を閉じる「日」に書いたFAXへとご連絡くださいませ。霊能者K氏は存命ですから、ご紹介は出来ます)
私達も、そう永くはありません。
もし長期に渡りこの「ブログ」が途絶えているようならば、あの世からのお声がかかりがあり「渡ったもの」と、思召せ。
私の意の通り、「地獄の門」の門番としていたならば、神の仰せのとおりあの世の赴任が許されたものと思って、まずは「お声かけ」くださいませ。


人生最期のステージにて、神に舞を奉納しょうと目論む私であれば、今が最も力強く明るく輝く「ろうそく」のように、最後の力を振り絞って思い残すことのないひと時を送りたく存じます。
ゆめゆめ、目の前に繰り広げられていることに目や心を奪われることなきよう・・・。
神の前に正しく立つことを第一に想い、おはげみくださいませ。
そうそう「縁あれば」「因縁深ければ」きっとお会いできるでしょうし、霊界もまた必ず仕組みを怠りはしますまい。
たかが「ブログ」で、たかがパソコン上でと、お思いにならず、今霊界は必死で縁を結ぼうと躍起になっています。
それが「吉」と出るか、「凶」と出るかは、その縁がなぜ結ばれたかの動機が霊界にあることをお忘れにならぬよう、お願いいたします。
同じ「誘い」にも、のっていいものと、決してのってはいけないものが潜んでいます。
それが歴史を賭けて仕組もうとする「目的をもった霊界の意図」と思召して、今後をはげまれますよう、お願い申し上げます。

(日本一の霊能者になるべく血統と素質を持ちながら、なぜそれが出来なかったか・・・。
 そのところも併せてお読みくだされば、ありがたく存じます)

今日は、いつもお読みくださる方々へのメッセージも兼ねて、書かせていただきました。
感謝をこめて、御礼申し上げます。ありがとう!