霊界の門 ・見えないものの力

霊界や因縁から、現在の自分をみつめ、「見えないものの力」を味方にしましょう。

「神」とは信じるものではなく、知るものです!

2014年03月18日 | 心霊現象
かつて6チャンネルの報道番組で、女性アナの「小林さん」がこうおっしゃった。
「仏とは、浴びるものです」と。
まわりにいたコメンテーターは、唖然としたり喝采したり色々だった。
彼女は仏像を見て周るのが好きらしい。
その挙句に身に付けたもの、いわゆる悟ったことは「浴びる」という状態でこそ「仏」を理解出来たのだろう。


私が遍歴した「キリスト教会」の、最後のところで「こう」言われた。
みなさんは、神を信じて日々を送っていらっしゃる・・・。
しかし、本当のところ「神」を知っていますか?・・・、と。
「神」は信じるだけで終わるのではありません。知る事です。
その意味から言って、みなさまは本当に「神をご存じ」なのでしょうか?・・・。

「神を知る」とは、どういうことか・・・。
それは親を知るという事でもある。
この世において、自分の親は「信じる」などという対象ではない。
全部信頼仕切り、命の出発として認めなければ、人生は始まらない。
それが何一つ裏切られることなく、生涯を終われれば、今の世では「幸せもの」というしかない。
生まれ落ちたその瞬間から、自分の身に「何が起きるか」分からない時代であれば、今は何を信じ、何に自分を委ねていいのかも、おぼろげになる。そんな時代はあってはならないのだ。が、現にある。
病院での乳児取り換えなど、故意であってもなくても許されることではない。
両親からは決して生まれないであろうと思われてきた「血液型」をもつ子供。
今は科学の進歩によって、「それがあり得る」と結論付けられた。
「人間」はいわば「結果」である。人がこの世にあった時まで遡(さかのぼ)るしかない。
神代の世界(時代)は、分からないがゆえに人は切り捨てて知ろうともせず今日まできた。
しかし、一番大切な「事の始まり」(起源)、命の発生の原因を見ずして、知らずしてこの先の何も見えてこない事を、ようやく気付き始めたようだ。
甚大なる犠牲を払いながらも、ようやく人は足元を見ることに気付き始めた。
間違った種をいくら植えても、撒いても、刈り取りには「思いもしない事象」だけが実ってきた。
この事実にようやく気が付く。
「わたし(人間)」は、何なのだ?・・・。


そして「親」だと教えられた「神」を、信じ従い、その結果に「天国」という「いい国」(安住の地)へとの約束をとろうとした。
しかし、それさえも「ご利益」以外の何ものでもない。
自分に都合よく働く神を、最初から望み、それを叶えてくれるはずだという条件つきの、身勝手な信仰でしかなかった。その時の「目」が目論見を外した時、私達は信じたであろう「神」を捨てることは、簡単である。
そうして人は勝手な信仰、あるいは解釈によっていく度親なる神を捨てたであろうか~。
それは信じてみたというだけで、「知った」こととは程遠いことであった何よりもの証拠(証明)となる。
では、「知る」ってどんなことだ?・・・。
神の歴史を知ることであり、その時々の心情を手に取るように知ることである。
神の歴史とは、今まで捨ててきた「あの時代」をもう一度学ぶことでもある。
誰に、いつ、どこで?・・・。
それは「あなた」が知っている。
望みさえすれば、霊界は知り、即座に動く。明日にはもう道が提示されるところまでに、今はあの世が近い。
「出発」に全てがある。つまりそこに「動機」がある。
神はなぜ「人」を造ろうとされたのか、そこの出発させた動機が全て凝縮されて載っているのが、「エデンの園」である。
結果として「失楽園」となったが、それは人が親なる神を知らなかったがゆえの出来事である。
「知るための期間」が成人になるべく与えられた「21年期間」でもあった。
それを称して、「成人」と呼ぶ(はずであった)。が、今の成人式でいう「成人」とは、肉体がただ成長して時が満ちた、というだけのたかが「魂のいれもの」としての完成体でしかない。
りっぱな体をもっていても、その中身である魂(霊)は何が入っているのか?・・・。
「得体のしれないもの」が入っているだけとなった人間の歴史が、今日まで続いている。
「人間改造論」とは、ひところ流行った言葉である。が、多分このようなことを言ったわけではないだろう。
本当に改造しなければならないのは、これからである。
その期間(時間)を言うとすれば、実に7000年の歴史を語らねばならない、というのが聖書の伏線として見え隠れする「真の内容」でもある。

「神を知る」。
偶像を礼拝するところからは、神の真実を知ることから遠くなる。
というのが、偶像礼拝への戒めである。
日本文化でも多い「偶像崇拝」は、見えない仏の世界を「見える化」した、という点では時の人への教育、伝承には当たっていたのかもしれない。
が、人の教育水準が高まれば、もっと高尚なる「目には見えないが、確かにある世界」を見る、感じる感性を練磨させるべきであった。
右脳こそが最後の砦であることを、知らせるべきであった。
なぜか?・・・。そこでしか人は「神」を察知出来ないからでもある。
しかし、左脳の教育、開発のみが進み、いわば人は「左脳のみの頭でっかち」という「かたわ者」になった。これが「物質主義」である。
人を「物」としか見なくなった人間社会の末路は、遺体への尊厳も生命への畏れも皆無となった。
いわば、神の出発に対し、無知と「くそくらえ」の根性だけが植え付けられて「今」を産み出したといっても過言ではない。

周りを見渡せば、頷けることは多いはずである。
嘆くことではあろうが、それを植え付けられた「わたし」と社会が、今日まで続いてきた結果だと思えば何も言えなくなる。
気にもしなかった出発や原点に、命の方向付があるなど肉体の親でさえ知らないし、ましてや子に教えてくれようもないではないか。
先生?、政治家?、宗教家?会社の上司?・・・。今までに「わたし」を本当に教え、導こうとした「人」はいたのか?・・・。
魂から見れば、「わたし」は孤児(みなしご)であり、捨て子に等しい。
『親はなくても、子は育つ』と、人は言う。
育つとはそういうことではない。身も心も同じく「親の愛」によって育まれるべき存在である。
そこが原点であるとなれば、その目で今をみれば自ずから分かってくる事がある。
原点から外れ、狂った世界。これが今である。
親をしらないところの結果を見、神を知らないところの結果を見ているのだ。
これが「人生であり」、社会であり世界であり歴史であるなど、口が裂けても言えないのが、真理からみた、あるいは霊界からみた「言いよう」である。
これは実に「悲劇」の極みとしか言いようがない。



さてさて、「あなた」はどれだけ「神を知っていますか?」・・・。
そして私はまた、どれだけ神を知っているだろうか?・・・。
その「知る」範囲や基準こそが、あなたと私が真実生きるバロメーターになるのです。
そして「その全て」は、当然霊界の基準と同じであり、そのまま「あの世」で通用するものとなるのです。

「神」をつまり「親」を知るとは、一つにはこんなことを基準に確かめて頂きたく存じます。

あなたの言葉(呼びかけ、祈り)で、「神」は慟哭されただろうか・・・?。

そんな言葉をたった一つでいい、生きてあの世に持っていっていただきたいと思います。





コメントを投稿