霊界の門 ・見えないものの力

霊界や因縁から、現在の自分をみつめ、「見えないものの力」を味方にしましょう。

「氷川丸」の先生のこと、再び

2014年03月09日 | 心霊現象
コメントを頂いたこともあり、思い出してまた書いてみます。
実はね私、コメント欄のお返事を書くところの「数字」が読みずらくて、それでついついこの場をお借りしています。
目もいい若い方には、なんてことないんでしょうが、時には何だろうという読みずらい数字ってのがありますよねぇ。もっと分かりやすくすればいいのに・・・。
で、そのコメントのお返事も兼ねて書いてみました。


氷川丸の先生「渡辺先生」は、あの当時日本にも珍しい看護婦として国家試験を受け、合格。
そこでまた「軍部」の試験を受け、従軍看護婦として「国」から派遣された人でした。
南方で現地調達された人ではなかったのです。
「女だてらにわたし、きかんぼうだったから、後先考えずに応募しちゃったのよ~」と、先生はくすくす笑いながら話されていたものです。
今年93歳になり、今はどこでどうしてお過ごしやら・・・。
いきなり「拉致」されたものですから、今だに居場所は耳に入ってきません。
先般、そのいきさつを書きましたので、いくらか事情は分かっていただけるとは思いますが・・・。
いやはや、ここが本当に「日本なのか?」といぶかっている次第。
身内のそれも、たった一人が仕組んだものであれ、人一人が目の前から消えるんですから恐ろしいというか、みごとというか・・・。
成人後見人をし、20年近く「介護」をしながら親交を深めていた「第三者」でさえ、行方をいまだに知らせてもらえないんですから・・・。
『成人後見人』って、いったい何なんでしょうねぇ。
血縁者から「怪しい後見人」とレッテルをはられたらもうおしまい。行政も法曹界も訴えた人よりも訴えられた他人を疑うのは間違いありません。
「認知症」をいいことに「使い込みしている」と言えば、もう犯罪が成り立つようです・・・。
拉致したのも身内、それを探そうとやっきなのも身内。いったいどうなっているんでしょう、その血統は?・・・。

その後、「先生」が入居したらしいという介護施設が「ノロウイルス」で閉鎖され、それからはなお居所不明となり・・・。生死もわからず、今に至っているのです。
人の一生なんて、一寸先は闇。まるでその言葉をそのままなぞったような出来事でしたねぇ。
またこんな言葉もありますよ。「明日は我が身」って・・・。

後見人をしていた方が言っていました。
一番気を付けたことは、本人が嫌だという事をしない事だったと。
身内には預けないで!。そして墓は自分で造って一人で入りたい!、と。
墓守は、「あなた」が生きている間だけでいい、時々お参りしてちょうだい!・・・、と。
しかし「認知症」になってしまった。(結局、そんなハメになったのは、あなたが悪いのです)
寝たきりでもいい、自分がどうされたいのかがしっかりと、はっきりと表示できる事。
つまり「自分の意志」で今日を生きている、という一番大切なことが抜けたら、もうオシマイなんですよ~。
病気をさせず、ケガに細心の注意をはらってここまできたのに・・・。
最後の最後にさらわれてしまったなんて・・・。(多分、先生が残しているであろう財産であり、金目のものがねらいであったろうかと、勘繰るに至りますが、双方ともさみしい、心寒い限りです)


今私は、介護職として日々を過ごしています。
入居されるお客様は、年齢が丁度そんな方々です。2、3日前は93歳の男性が、さらに数日前は87歳の男性がこられました。これで4名となり、91歳と85歳の女性とでみな「大戦」まっただ中に青春時代を過ごした方々となりました。
「軍歌だけは歌わせないで」と言われた上役の禁を犯して、「歌いたい歌は何ですか?。歌いましょうよ~」と聞いたら・・・。
聞こえないと言われ、耳の側で大声を出しながら促したら『琵琶湖周航の歌!』と答えた。
ああ、この方の心は、それを歌うことによって「ある思い出」にひたることができるのか。
その答えがもろに「軍歌」であったとしても、それでもよかったと私は思っている。

音源は「加藤登紀子」が歌う「琵琶湖周航の歌」をとり、パソコンから歌詞を印刷して翌日には早速歌った。いい声で何度も何度も歌った「その方」は、確かに人生をたくましく生き、今こうして施設に身を置く。


先生といっしょに思い出す「もう一人」の先生がいる。
高校時代の英語の先生だ。阿部先生といい女性である。すこぶる厳しかった。
隣の席の○○ちゃんが、足を震わせている。そういう私も、手にもったえんぴつが小刻みにゆれている。そんなに怖い授業は、今の子には通用しないだろう。
まず父兄が黙っていまい。それがまかり通る「モンスター・ペアレンツ」の時代があったなど彼ら「戦中派」は思いもしまい。
その先生の友人に「森繁久彌」という人がいた。
ん?、聞いたことある?、そうです「あの森繁久彌」です。
彼がNHKのアナウンサーになった話は、知る人ぞ知る。
その理由が「徴兵されたくなかったから」と、「海外へ行きたい」からだという話は有名だったようだ。
その彼「森繁氏」と阿部先生は「中国(上海?)」に渡り一緒にアナウンサーをした時代があったそうな。
そんな話を何度か聞かされて、森繁さんとは「どんな人」だろうかと、田舎の高校生だった私達は空想してみたものだった。
その後の彼の活躍ぶりは、周知の通りである。
「加藤清史郎」という方が書いておられる。
アナウンサーが原稿を読むとき、息継ぎつまり「ブレス」の音(気配)をいっさい察知させない読み方を、みごとに森繁氏はやってのけたという。それはもちろん努力のたまものであったろうが、まず日本でもいなかったろう、と。それほど彼の完璧主義は人生の最後まで貫かれたらしい。
晩年の彼が残した偉業は、900回におよんだ『屋根の上のバイオリン弾き』の公演だった。
その彼が何に拘り、何を身に付け、何を観客に植え付けようとしたか?・・・。
その精神をご紹介して、ここでの昔話を終わることにいたします。

ウィキペディアからの引用ですが、加藤氏が語る内容が森繁氏の人生あるいは芸の全てであったと知れば、私は知らないまま、観ないまま、終わってしまったわが人生に、一つの悔いを残した事を今知るありさまです。
最後に「加藤氏」はこう結ぶ。
『これらの技術は全て森繁にあった。
 化け物、この一言に尽きる』と。



『中国は唐代の詩人、白楽天の詩に「琵琶行」という作品がある。
 作者がとある湖に旅した際に出会った一人の女性の芸者について語った詩であるが、その中の
 文章には様々な表現の肝が記されている。
 「未だ曲調なさざるにまず情あり(曲を奏でる前の段階で情がある)」「声ようやくやむ幽愁
 闇恨の思いが生ずる。このとき声無きは声あるにまされり(歌が一度途切れた際のヒキの部分
 声なきは声あるにまされり)」
 「我琵琶を聞きてすでに嘆息せるに、またこの語を聞きて重ねてそくそくたり(琵琶の演奏だけで
 驚きべきものだったのに、この女性の身の上話を聞いてさらに感ずるところが大きかった)」
などなど・・・。

これらの技術は全て森繁にあった。
化け物、この一言に尽きる』・・・、と続くのである。

このような芸を、そしてその集大成だった「屋根の上・・・」を一度観たかったと、そんな想いがしみじみ私の心に湧きおこった・・・。

昭和はいろんな意味で、本当に遠くなっていく。
何かを学びそこねた「私達」ではなかったか?・・・。