霊界の門 ・見えないものの力

霊界や因縁から、現在の自分をみつめ、「見えないものの力」を味方にしましょう。

断食とは・・・

2013年05月13日 | 心霊現象
「断食」とは、文字の通り食を断つことである。
こんな状況になるには、二通りの事が考えられる。
一つは自ら、何かの事情で食を断つことであり、あとの一つは食べることが出来ない状況に陥ることである。
その結果、後者は行く末に「死」が待っていることもある。
前者は、よほどの事がない限り、死までには至らない。

ニュースで伝えられている「数字」(人口)で、私はTV画面に目を移す。
『今世界では、14秒に一人が栄養不良で、死んでいます。
 また、16億の人口の二分の一(半分)8億人が、栄養不良で死んで行く運命にあります』
と、伝えている。
それほどまでに、この地球上は、飢えているのか・・・?


ここで私が取り上げた「断食とは」、第一に宗教的な意味で自ら修行の一環として食を断つことをいう。
次には、その断食をもって、「願掛け」をする行動をいう。
世の中には、「断食道場」と称して、自己啓発や健康促進を計ろうとする一環もある。
が、一般的にいう「断食」は、『ラマダン』のように、多分に宗教的要素を含んでいる。
私がキリスト教のとある教団にいたときは、一週間断食を実践することが、「信者」の証明とされたことから、必ず入教する者は、必須条件として、その断食が課せられた。
いきなり一週間を実行する者もいたが、ほとんどは人生に断食など経験のない者たちでもあり、最初は三日間
とか、四日間とか体験してからとりかかったものだった。
しかし、それが何日であれ、必ず満願の日がくれば「食べられる」ことを思えば、体の消耗や、空腹感との闘いがあるだけで、「恐怖」はない。
しかし、飢餓はその末に「死」を見据えたものであれば、きっと日々一日一日が「恐怖」であるに違いない。
「いつか食べられる」という思いは、人を安心へと導く。
ただ、そこまでが「つらい」だけである。
「食を断つ」ということは、やはりやってみた者でなければ分からない。
「百聞は一見にしかず」である。
一週間の最初の日は、覚悟もありまだ体も消耗していない。が、二日目になり三日目になると、体の消耗は感じるが「空腹感」がなくなっていくのには、驚かされる。
実は、この期間は普通に生活する事が条件である。
寝てはいけない。万が一病気をしても「薬」を飲むことはご法度であり、医者になんか行けるわけもない。
ただひたすら「水」を飲み、祈りつつ「伝導」の日々を送る。

でもやはり人間である。食べられる日、つまり「断食明け」が近づくと、心がわくわくする。
あと最後の一日を残すのみ・・・。
もうすぐゴールだ、という安心感だろうか、決まって夢をみる。
食べ物を口に入れて、はっとして目を覚ます。「ふーっ、夢かぁ~。よかった!」と。
もし、現実に、間違って食べてしまったら、いや物を口に入れてしまったらどうなるか?・・・。
最初からやり直しである。(写経も同じ。一文字間違っても、全部最初からやり直すのだ)
だから、「夢を見た」だけで、「はっ」としたり、「ぞっ」としたりするのだ。

その一週間の期間、気付くことがある。
それはね、TVコマーシャルの、何と「食べ物」の宣伝が多いか・・・、という事だ。
そして、人は何で三度も食べるのだろうか・・・、と。
この世から「食べる」という行為が無くなったら、何と世の中は「味気ない」世界になるだろうか。
また、食にかける思いや、時間や、物流の営みがそがれていく地球に、いったい魅力はありやなしや・・・。
「食文化」というように、地球上はその文化で満ち満ちている。
国が活性しているところには、必ず文化がある。国民も元気だ。
かつての「ローマン・スタンダード」、つまり「夢のローマ式食文化」が人類の「あこがれ」だった時もある。
それが「飽食」といわれ、キリスト教での「最も深い七つの罪」の一つになったとさえいわれる「食のむさぼり」。
これら全ては、紙一重のところにあると知る。
一週間の食を断つ。つまり3×7で、21食の食事を抜き、おやつやコーヒーや酒などの「嗜好品」を抜くのだ。
そこで「何」を得るかは、それぞれの目的性によって与えられる。

私はよく夢をみた。
単なる経験のための断食は、やって終わる。無事終わったことで意味がある。
願掛けの条件として「差し出す」断食は、それなりに答えをもらうこともある。
暗示のときもあり、絵であったり啓示であったり、夢であったり、人の会話であったり、その答え(暗示)がどこで、だれによって、どのように示されるかは、決まっていない。
答えがなくても、がっかりしないで日々をすごすこともまた大事な願掛けの態度でもある。
一日遅れて、「答え」が思いがけなく与えられることもある。(短気や怒気は禁物である)

断食完了後に頂く「食事」は、感激の極みである。
これだって、何度聞かされても、実際にやった者しか「その味」は分からない。(何万冊の本を読んでもだ)
どれからたべようかなぁ~、なんていう余裕はない。
味噌汁を一口すする。次は梅干し入りのおかゆだ。
のどから胃、腸まで流れ込んでいく気配が伝わる。そしてすぐに手の指の先まで「栄養」が行き渡る実感が
みなぎる。体中が栄養で満たされ、細胞が踊り始める「錯覚」に陥る。(エネルギーの充満を味わうのだ)
これほどまでに「食事」は、「いのち」そのものなのか~、これが実感である。
「しのごの言わず、やってみて!。その時初めて分かるから・・・」と、これが屁理屈を言いたがる人に向けての「メッセージ」である。


「いただきます」、両手を合わせてしっかりと言う。
この行為は、他の国にはない「日本の文化」(生活習慣)らしい。
「いただきます」が、食事を用意してくれた人への感謝の言葉だろうと、たいがいの人は思ってきた。
しかし違った。
それはね、食する品々はみーんな命のあるもの。野菜も肉も魚もみんな生きていたもの。
それを殺して、つまり死んでいただいて食べている。
だから「その命」を、「いただきます」と感謝して手を合わせ、頂く。(伊勢神宮の研修会でもそう教える)
このようなことは「食育」といわれるのだろうが、確かにその通りである。
宗教がましくて気味悪いなど、誰も言わない。
この習慣(文化)を、今タイの人が受け継いでいる。
ある日ホームスティをした日本の学生が、この行為をしなかった。いきなり箸をつけた。
「あなたは本当に、日本人ですか?」と、彼らタイ国の人は真面目に聞いたそうである。
そろそろ日本も、逆輸入してでも「よい文化」を身に付けていかねばなるまい。


食から学ぶものも多い。
しかし、一度この「食」を無くしてみたらきっと気が付くこともまた多いはずである。
いざという時、日本人を賄(まかな)う食の受給はおぼつかないと聞く。
飽食時代に育った者たちは、その胃袋が空になることは考えてもみないだろう・・・が。
一度空っぽにする事を、お勧めしたい。
たかが断食というなかれ。
断食から見えてくるものが、実に多いことに気が付く。



『百聞は一見にしかず』。いかがでしょうか、是非おやりになっては?、そう一週間くらいはね。
人生が変わる、とまでは言いませんが、何かを発見できること請け合いです。
そして是非TVをご覧になってくださいね。
いかに「食のコマーシャル」が多く、断食中の胃や腸に刺激を与えてくれるか・・・。
体重はどうか?
うれしいほど落ちる方もあれば、えっなんでぇ、と言うくらい落ちない人もいます。
だから断食は、ダイエットが目的ではなく、多分に内面的なものであるとお覚悟くださいませ。
「夏の断食、冬の水ごおり」といわれています。
それくらい「難儀な行」であることを言うのでしょう。
さて、実践にあたってご忠告を。
決して内緒ではやらないでください。
先祖に、さらに守護霊に、さらに神に等々、断食決行の決意を「どこかに」「だれかに」表明してから、おやりくださいますように。
理由はね、「悪・悪霊」から身を守っていただく為と思召せ。

では、しっかり経験を積んで再びお会いしましょう~。