前回のブログで『荘子』の思想のほんの一欠片にふれてみましたが、書いている自分自身がほとんど理解していないのに気づきました。当然です。荘子が生きていたのは紀元前4世紀から3世紀にかけての中国。今を遡ること2300年前から読み継がれた『荘子』という書物を、漢文の知識もないものが眼を通したからといって、容易に理解できる筈がありません。とは言っても、手元にある岩波文庫の『荘子』(金谷 治訳注)の現代語訳は読み易く、そのなかで気に入った個所を紹介させていただきます。それは『荘子』[内篇]大宋師篇 第六。「死と生」について書かれたところ。
死があり生があるのは、運命である(死生命也)。あの夜と朝のきまりがあるのは、自然である(其有夜旦之常天也)。人間の力ではどうすることもできない点のあるのが、すべての万物の真相である(人之有所不得與、皆物之情也)。・・・。そもそも自然は、われわれを大地の上にのせるために肉体を与え(夫大塊載我以形)、われわれを労働させるために生を与え(労我以生)、われわれを安楽にさせるために老年をもたらし(佚我以老)、われわれを休息させるために死をもたらすのである(息我以死)。だから、自分の生を善しと認めることは(故善吾生者)、自分の死をも善しとしたことになる(乃所以善吾死也)。
また斉物論篇 第二には、次のように書かれています。
この世界で最も大きいものは秋の動物の毛先であって、また最も寿命の長いものは若死にした子供であって、彭祖(長寿の伝説の人物名)は短命の人である。
確かに死後の世界を経験したことはないのですから、こういう捉え方も出来るわけですし、この考え方に立てば、死というものを恐れずに臨むことができるかもしれません。ただ凡人の私には無理ですが・・・。日本では弥生時代でしょうか?中国では、すでにこういった死生観があり、それも文字に残されていることに驚きます。現下の新型コロナウイルス禍のなかで、自分も周りも世界中が右往左往している姿をみると、2000年以上たっても人間は進歩していない存在なのかと恥ずかしくなります。
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