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夜明け前午前5時

徹夜明けの思いつきレベルな発想を、推敲なしでお届け

チャンピオンたちの朝食

2006-11-02 01:57:44 | 本:小説

スーパーで売ってる惣菜・お弁当類が一巡して
飽きてきたせいもあり、最近また料理づいてきました。

今日は、豚の角煮的なもの。
じゃがいもやら、しいたけやら、余り野菜を入れたので、
ふつうの煮物に限りなく近くなってしまいました…。


さて、本はひさしぶりのヴォネガットです。

これは他のヴォネガット作品と比べてだいぶ違う感じ。
「事実を述べてます」みたいな空気で、短いセンテンスが
続きます。

あと、同じことを意図的に繰り返し書いたり、この小説の
書き手自体が小説の中に登場したり、メタフィクションの
要素がだいぶ強い。

残念ながらちょっと苦手なタイプの小説です。
もうちょっと短ければ楽しんで読めそうなんだけど。


ぜんぜん別の意味でおもしろかったのは、村上春樹の
「風の歌を聴け」は、明らかにこの作品、特に文体を
意識してること。
あと、「風の~」の挿絵(Tシャツ)のでき具合も間違いなく
意識してます。

電車の中で読みながら、「この感じって前に絶対どっかで
読んだことある…」と、ずーっとモヤモヤしてた。
今日、『「風の歌を聴け」じゃないか!』と気づきました。

あー、すっきりした。


ハヅキさんのこと

2006-10-23 23:11:45 | 本:小説

これはエッセイっぽい短編小説。

今回はうそばなし的要素はあんまりなくて、
ありえそうな話がほとんどです。

短編なので、物語にどうこういうところはなく、
やっぱり文章自体に目がいってしまう。

この人の「である」調、やっぱ気持ちいいなぁ。

例えばこんな感じ。

 ヤマナシさんとはちかごろ出会ったのである。
 どうやら、好きになってしまったらしい。
 好きになったら、わたしは早い。
 まっしぐらである。年の功もなにも、ない。
            ~~姫鏡台~~

引用したはいいものの、フォントや文字幅が違うし、
そもそも横書きにした時点でぜんぜん変わっちゃう。
残念。


引用した作品含め、後半のほうが、いい感じです。


偉大なるデスリフ

2006-10-17 02:08:45 | 本:小説

村上春樹翻訳物のひとつ、「偉大なるデスリフ」。

物語の原型は「偉大なるギャツビー」そのままです。
ギャツビーの舞台は20年代だけど、その状況を60年代に
プロットするとどうなるのか? という感じでしょうか。

おそらく、20年代と60年代の類似点と相違点が
この小説のおもしろいところだと思います。

例えば、世代でいうと…
 20年代:ロストジェネレーション
 60年代:ビートジェネレーション

両方とも、絶対的に信じるものがない時代としては似てますね。

あ、話はそれますが、「ビートジェネレーション」のビートって
本来は「打つ・殴る(beat)」のビートらしい。
このこと、恥ずかしながら最近まで知りませんでした。
てっきり音楽の「ビート」が語源かと…。
どちらかといえばポジティブな解釈をしてました。


一方、相違点としては、あきらめの絶対度というか、深さというか。

フラワームーブメントやら学園闘争やら、全世界的に理想主義が
盛り上がった結末としてのあきらめ・絶望を背負った60年代は、
20年代よりあきらめが根深いです。

そんなこと考えてるうちに、も一回ギャツビー読んだら、なんか
つかめる気がしてきました。

そして、春樹訳のギャツビーが、この本と同じ翻訳ライブラリーで
11月に出版されるようです

今回読んでまた分からないようなら、また10年程度封印です。


冷血

2006-10-11 23:14:35 | 本:小説

夏の旅行以来、サボりにサボってました。
そろそろ通常営業再開です。

冷血」。

実は旅行時に成田で飛行機のお供として購入。
機内とタイで読了してました。

内容は、一家4人惨殺事件について、
前半は殺された家族を、
後半は殺した犯人二人を
中心に描いたノンフィクションです。

一言で感想をいうと、『骨太』。
細かな描写の積み上げで構成されていて、
かなりがっちりした印象。

かといって、文章に重たい感じはなく、
一気に読み進めることができます。

心臓を貫かれて」を読んだときも同じこと感じたけど、
アメリカの闇の部分は本当に深いですね。
ちょっと救いようのない感じ。


この秋には映画「カポーティ」も公開されているので
そっちも楽しみです。


ヘビトンボの季節に自殺した五人姉妹

2006-08-21 00:51:09 | 本:小説

うー、すごい題名ですね。

原題は「the Virgin Suicides」。
こっちならピンと来る人もいるかもしれない。
ソフィア・コッポラの初監督作品です。

内容は、邦題のとおり、ほんの一年ぐらいの間に
5人姉妹が自殺しちゃう物語です。

映画は公開時に観ていて、本は最近読んだんですが
逆の順番のほうが絶対におすすめです。

映画は、ストーリーはあんまり説明せずに、そこにある
空気感だけに思いっきりフォーカスした感じ。

なので、映画だけを観ると、ストーリーがつかめないまま
なんとなく終わってしまいます。
たしかに映像はものすごくいいんだけど。

一方本の方は、どちらかといえば、ストーリーで引っ張ってく
感じ。

本を読んで、初めて「なるほどね」と、腑に落ちるところが
あったので、まずは本を読んでおけばよかった...。

ただ、後半の展開がドタバタ早すぎるのと、最後の
2ページでいきなり結論じみた話で終わらせてるのが
ちょっとマイナスかな。

なので、本を読んでおおまかなストーリーを頭に入れた上で、
映画を観てイメージを加えると、すごくいい物語になる、気がする。


鍵のかかった部屋/トゥルー・ストーリー

2006-08-07 00:37:01 | 本:小説

「最後の物たちの国で」がよかったので、他の作品も
手にとってみました。今回は「鍵のかかった部屋」。

トゥルー・ストーリー」という、エッセイ集を読めば分かるんですが
この小説の設定は、オースター自身の個人的経験がかなり
反映されてます。

作家にはなれなかったけど、評論とか、その日暮らしの文章書いて
社会的にはそれなりの評価もされるようになった「僕」。
その僕の親友だったファンショーが失踪し、その妻が僕のもとに
相談にくる。

そんな感じで物語は始まります。


ちょっと失敗したなぁ、と思うのは、トゥルー・ストーリーを先に
読んでしまったこと。
ファンショーの人生(船乗りになったり、フランスに滞在したり)は
オースターの自伝的要素がかなり含まれてます。


小説自体はすごくいいと思うのだけど、「僕」がある種尊敬し
つづけたファンショーに、オースター自身を反映させているという
構造がどうしても気になってしまいます。

物語の最後、ファンショーは死を選ぶのですが、ということは、
これでオースターはいったん自分殺しをしているってこと?

にしても、ファンショーを、才能あふれるすごいヤツとして描いて
そこに自分の要素を入れるっていう構図がいまいち分からない。

トゥルー・ストーリーの「その日暮らし」で書かれた若かりしころの
オースターも、正直、「お坊ちゃんの道楽」にしか思えない。
だって、こんな感じですよ。

 ・コロンビア大学を出て、
 ・大学院も行ったけど、それは大学が給付金出してくれたら。
 ・フランスにも留学したけど、なんかイヤで途中でやめた。
 ・アメリカの資本至上主義には子供の時点でうんざりしてて
 ・貧乏覚悟で物書きの途を選び、
 ・でも実は、親は中産階級(しかも結構上のクラス)

ほんとのブルーカラーが読んだらぶん殴られるよ。
「この世間知らずのお坊ちゃんが!」って。

ん? まさかこれが狙い??


最後の物たちの国で

2006-07-24 22:31:23 | 本:小説

以前読んだ「密やかな結晶」の書評で、『ポール・オースターの
「最後の物たちの国で」に似ていて既視感がある』というのが
ありました。

そんなこと言われたら読むしかないですね。
で、読みました「最後の物たちの国で」。


もともとポール・オースターは気になっていたのだけれど、
読み始めたときの想像と違ってて、かなりびっくりした。

個人的にこれまで好んで読んできた、虚構の世界を舞台にした
小説達と、だいぶ空気が違うのです。

確かに、現実世界ではない仮想都市を設定しているところや、
世紀末的な空気は、共通していると思う。
でも、似てるのはそこだけじゃないかなぁ。

「うたかたの日々」「世界の終わり~」「密やかな結晶」は
『ここではないどこか』として場所を設定してます。
普通に現実世界を物語の舞台として設定すると、どーでもいい
日常も人物が生き始めちゃって、物語が薄まることがある。

それを避け、描くイメージを凝縮するために、抽象的な空間や
街を設定してるわけです。


一方、「最後の物たちの国で」はとにかく状況がリアル。

世界で起きている、そして起きていた、悲惨な状況をリアルに
凝縮してます。
自由が剥奪されたり、最低限の衣食住が確保できなかったり、
秩序というものが崩壊していたり、簡単に人が死んでしまう状況
だったり。

この小説は、そんな極限的な状況でも残りうる本質は何なのか、
それを探るためにこの抽象的な空間を設定してる。
生きるということのリアルを凝縮するために、抽象的な空間を
設定しているのです。ちょっと逆説的ですけど。

これを例えば、ボスニア戦争時のサラエボとか、ナチスドイツと
いった、具体的な場所を設定してしまうと、「歴史」になって
しまうわけです。
歴史は第三者の目線になり、リアルさが欠けてしまう。


そんな状況から導き出されるのは、ある種の希望。


と、ここまで書き進めて、「あっ」と思うことがあって、
すごく気になることがある。話は全く変わるけど。
オースターのイメージする「状況」に、アフリカの悲惨さを
想起させる状況が一つも存在してないってこと。

例えば、オードリー・ヘップバーンや黒柳徹子がユニセフの
活動でアフリカを訪れた映像を見たとき、アフリカ人の側を
自分のこととしてイメージすることができるか?

自分はできないです。
アジアや東欧、イスラム圏もうっすらとならイメージできるのに、
アフリカは全くイメージできない。なぜなんだろう。


私を離さないで

2006-07-18 00:58:18 | 本:小説

今回、生まれて初めて英米文学新刊を手に取りました。
#ちなみに、ここで言う新刊は、「書店で新刊扱い」ぐらいの感じ。

なぜこれまで読まなかったのか?
それは単純に、英米文学読むような環境じゃなかったから。

実家には、近代日本文学全集しかなかった。
これが致命的だった。

図書室の児童文学的な「ルパン」「ホームズ」とかは除いて、
いわゆる小説として、一番初めに読了した記憶が「蟹工船」...。
ごりごりのプロレタリア文学です。
これのおかげで、かなり左寄りなガキだったはず、きっと。

で、その後は例によって太宰とかに進むわけです。
「オレのこと言ってる!」ぐらいののめり込みようで。

ちいさな子供をお持ちの皆さんは、自分の本棚に
よーく注意しましょう。センスのいいバランスの取れた
蔵書が重要ですよ!
もしくは書斎作って、部屋に鍵かけて読ませないとか。
冗談じゃなく、ほんと大切です。


と、ここまで「私を離さないで」に全く触れてませんが、
いやー、すごかった、この本。
さっき読了したばっかりなので頭の中でまとまってなくて
批評はしづらいんだけど、ぐいぐい引っ張られるように
読み進めていく感じを、久しぶりに味わいました。

「ヘールシャム」という施設で育った主人公の回想という形で、
物語は進んでいきます。
その世界は、普通の寄宿舎っぽいんだけど、何かが微妙に違う。
そして読んでくうちに、読み手の僕らは、主人公たちの存在意義
(価値)がなんとなく見えてきます。
『提供者』という言葉や、いくつかのエピソードから。


この小説のプロットから、倫理的な課題提起をしているように
見えるかもしれないけど、そこはあくまで材料。

さっきwebでいくつか書評を読んだら、「現実世界に対する警鐘」
みたいな内容ばっかりだったけど、ちょっと違うんじゃないの?
と思った。プロットに引きずられすぎ。

自分の中で主題として浮かぶのは、まず、これ↓
「僕らは完全な自由意志で動いているのか?
 それとも外部要因でほぼ決定されているのか?」

小説の世界は完全に後者です。
で、僕らの世界は、日常的には普通前者と思ってるけど、
広い意味では後者と捉えることも出来る。

例えば、死は回避できない。

でも、じゃ「おれ、どうせいつかは死ぬんだし」といって、それが
原因で無気力になるヤツがいたら、そいつはかなりの馬鹿。

要は「決定している・していない」ってことは、日常的には
すごく重要に思えるけど、実はたいして大事なことじゃない。

数日後の運命が決まってるとしても、例えば今、2人で
会話しているとしたら、その時間が大事に過ごせているか、
楽しい時間になっているか、それが重要でしょう。

ということをこの小説は言ってる気がする。


密やかな結晶

2006-07-10 01:08:21 | 本:小説

久しぶりに小説の世界に戻ってきました。

評論は読み込むと頭が冴えてくるのは楽しいけど
その分、神経がヒリヒリするっつーか、不安定になる。
日常生活に支障をきたします。

やっぱり、評論とかより、小説の方が読む分には100倍楽しい。

で、『密やかな結晶』です。

前に読んだインタビューで、インタビュアーが「『うたかたの日々』
(他、数作品を挙げる)を想起させる」というコメントに対して、
「『西瓜糖の日々』も加えれば完璧」と作者が言ってたのを
思い出し、読んでみました。

これ、久々の当たりです。しかもホームラン級。
読んでた数日間幸せでした。

『西瓜糖の日々』を想起させるってことは『世界の終わりとハードボイルド
ワンダーランド』の「世界の終わり」部分にも当然似ているわけです。
その時点でポイント加算。

記憶を一つ一つなくしていくことで世界がどんどん空っぽになってく様は、
『うたかたの日々』で、クロエの病いの進行とともに、コランから見える世界が
どんどん小さく歪んでいく様と同質です。

そして、現実ではない閉ざされた世界は、『西瓜糖の日々』を
連想させます。

閉ざされた世界の描き方で言えば、前出の作品達のほうが上手で、
この作品は、世界の作りこみ方としては、ちょっと甘い気がする。
といっても、自分のフェイバリットと比べてですから。
レベルに不満は全くありません。

この作品のすごいのは、結末です。
これはもう、びっくりでした。電車で読んでて「うわー」と声出しそうだった。

『うたかたの日々』も『西瓜糖の日々』も『世界の終わりと~』も、
2元論で終始します。
フェイバリットでありながら、ここが唯一不満なところ。

『西瓜糖の日々』は、現実と対比した「アイデス」という世界が続くし、
『うたかたの日々』は、現実と対比したコランとクロエの世界が終わる。
『世界の終わりと~』は、最後、「世界の終わり」を選びます。

結局は2つあるうちのどちらかを選択する形になってる。
物語の終わりとしてそうなるのは仕方ないのかもしれないけれど、
「ふーん、そうなんだ。」と、いまいち腑に落ちない感じが残ります。

たぶん、どっちを選んだところで、だめなのです。
2つのうちどちらかを選ぶという構造から抜け出せない限りは
「ふーん、そうなんだ。」で終わる。

では、『密やかな結晶』は、どんな終わり方か?
これは読んでもらうしかないです。
スイッチが「バチッ」と入るような、「ここからが始まり」というような、
とても不思議な感覚で、この物語は終わります。


マイ・ロスト・シティー

2006-05-30 01:43:17 | 本:小説

村上春樹が初めて出した翻訳本の改訂版らしいです、この本
フィッツジェラルドの短編5本+エッセイ1本の内容。


ぜひ読むべきなのは、「フィッツジェラルド体験」と題した、村上春樹の
フィッツジェラルド評。
冒頭の25ページなので、立ち読みでも読みきれるんじゃないかな。

これを読んでも、村上春樹がフィッツジェラルドを最重要視する想いの
核はやっぱり分からないんだけど、小説の何に重きをおいているかは、
ちょっと分かった。


小説としては、最初の2本がお勧め。共に初期の作品で、春樹の
フィッツジェラルド評でも言及しているとおり、「滅びの予感」を
感じさせます。

でも、そういった文脈だけであれば、ボリス・ヴィアン「うたかたの日々」の
方がはるかに優れてる。
いや、客観的にどうなのかは分からないので、「はるかに好き」。


フィッツジェラルド作品、まだまだ読みが甘いってことですかね。