以前読んだ「密やかな結晶」の書評で、『ポール・オースターの
「最後の物たちの国で」に似ていて既視感がある』というのが
ありました。
そんなこと言われたら読むしかないですね。
で、読みました「最後の物たちの国で」。
もともとポール・オースターは気になっていたのだけれど、
読み始めたときの想像と違ってて、かなりびっくりした。
個人的にこれまで好んで読んできた、虚構の世界を舞台にした
小説達と、だいぶ空気が違うのです。
確かに、現実世界ではない仮想都市を設定しているところや、
世紀末的な空気は、共通していると思う。
でも、似てるのはそこだけじゃないかなぁ。
「うたかたの日々」「世界の終わり~」「密やかな結晶」は
『ここではないどこか』として場所を設定してます。
普通に現実世界を物語の舞台として設定すると、どーでもいい
日常も人物が生き始めちゃって、物語が薄まることがある。
それを避け、描くイメージを凝縮するために、抽象的な空間や
街を設定してるわけです。
一方、「最後の物たちの国で」はとにかく状況がリアル。
世界で起きている、そして起きていた、悲惨な状況をリアルに
凝縮してます。
自由が剥奪されたり、最低限の衣食住が確保できなかったり、
秩序というものが崩壊していたり、簡単に人が死んでしまう状況
だったり。
この小説は、そんな極限的な状況でも残りうる本質は何なのか、
それを探るためにこの抽象的な空間を設定してる。
生きるということのリアルを凝縮するために、抽象的な空間を
設定しているのです。ちょっと逆説的ですけど。
これを例えば、ボスニア戦争時のサラエボとか、ナチスドイツと
いった、具体的な場所を設定してしまうと、「歴史」になって
しまうわけです。
歴史は第三者の目線になり、リアルさが欠けてしまう。
そんな状況から導き出されるのは、ある種の希望。
と、ここまで書き進めて、「あっ」と思うことがあって、
すごく気になることがある。話は全く変わるけど。
オースターのイメージする「状況」に、アフリカの悲惨さを
想起させる状況が一つも存在してないってこと。
例えば、オードリー・ヘップバーンや黒柳徹子がユニセフの
活動でアフリカを訪れた映像を見たとき、アフリカ人の側を
自分のこととしてイメージすることができるか?
自分はできないです。
アジアや東欧、イスラム圏もうっすらとならイメージできるのに、
アフリカは全くイメージできない。なぜなんだろう。