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言葉って面白い!

この日本語、英語でなんていうの?その奥に深い文化の違いが見えてきませんか。

チェコ語のビールって…?

2007年08月23日 | 旅の話し
チェコではたいがいのことは英語で通じるものですから、観光ではチェコ語を覚える必要がほとんどありませんでした。
それでも、何日か滞在すると、嫌でも覚えてしまう単語はあります。

旅先で覚える単語といえば、まず第一に飲食のこと。
今回、チェコ滞在中に覚えた単語といえば、何といってもpivoです。
ビールのことです。
チェコは一人当たりのビール消費量が世界一のビール大国。
そんな国に行ってビールを飲まないなんてあり得ない!
というわけで毎日ビールを頼んでいる間に、メニューを見ながら覚えてしまった単語です。

しかしメニューを見ながら、ちょっと不思議に感じました。
同じアルファベットを使い、同じ意味を表しているのに、BeerとPivo、つづりも音もまったく共通点がありません。
英語とドイツ語などはよく似ているのですが…。

「ビール」に限らず、チェコ語の文章を見ていると、英語やドイツ語に似た単語がまったく出てきません。
想像すらつきません。

チェコ語は、スラブ語派に属する言語。
英語やドイツ語は、ゲルマン語派に属する言語。
だから、同じアルファベットを使っていても、語彙に関係性がまったくといってよいほどないのです。

語派が異なっていても、例えばロマンス語派のイタリア語やフランス語と、英語との間には関連のある語彙が多くあります。
歴史的経緯で、ロマンス語派のフランスやイタリアと、ゲルマン語派のドイツ・イギリスなどの交流が盛んだったからです。

それにしても、同じ文字を使いながら、並び方の違いだけでこのような様々な語派や言語が存在するという現象は、日本人から見ると、ある意味で不思議に思えます。

漢字はともかく、ひらがなやカタカナは、日本語以外の言語では使いません。
文字そのものが日本語でしか使われていないわけです。

しかし、チェコ語や英語、ドイツ語を使う人たちにとっては、同じアルファベットという文字を使いながら、並び方が違うだけで別の言語になってしまいます。

日本語で想像すると、例えば
「ならサナニね、てなナサニぬにこつ、なにぷ」
と書かれる別の国の言葉が存在するようなものです。

日本語は、言語学では「孤立語」といわれます。
世界の多くの言語の話者にとって、「ならサナニね、てなナサニ…」は、当たり前の現象であり、その経験を持たない日本人の方が珍しいケースなのです。

チェコで、まったく意味の分からないアルファベットのメニューを眺めながら、ふと、日本語がいかに珍しい言葉だったのかを、あらためて実感しました。
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プラハ行き列車の悲劇

2007年08月22日 | 旅の話し
旅のさなか、ドレスデンからプラハへ向かう列車に乗りました。
夏休みのシーズンで思ったより混んでいましたが、何とか席を確保して乗車。
同じ二等席でも、欧州で見慣れたコンパートメントではなく、たまたまその列車は
通常車両。通路を挟んで左右に二席ずつが並ぶごく普通のタイプでした。

私が座った席は、チェコ人らしい若者たちの集団のど真ん中。
どうやら学生旅行のようで、アルコールこそ入っていませんが、歌ったり笑ったり大声でおしゃべりしたりで、ビアホールさながらに盛り上がっていました。

ふと見ると、ちょっと離れた席で、髭をたくわえた初老の紳士がなにやら難しそうな顔で何やらぶつぶつとつぶやきながら眺めています。
目線の先には、分厚い楽譜。
ベートーベンの交響曲のスコアです。
両手で指揮棒を振るしぐさをしながら、その楽譜を一生懸命たどっています。

どうやら指揮者のようです。
プラハあたりでこれから行われるコンサートの準備に余念がないようです。

しかし…。
いかんせん、10人くらいの若者たちが、車内中に響き渡る大声でチェコ語の歌を歌っています。
初老の指揮者も、何とか集中しようと、目をつぶりながら必死で自分の曲に向かうのですが、時々ため息をついて中断してしまいます。

可哀想に…。
哀れに思いながらしばらく車窓の風景を眺めていると、若者たちの歌が終わりました。
飽きたのでしょう。
カードゲームが始まっています。

うん、どうやらこれで集中して曲の準備にとりかかれそうだ。
と、思いきや!

今度は紳士の後ろの席から、耳を劈くけたたましい赤ん坊の泣き声です。
何が気に入らないのか、母親も分からずおろおろするばかり。
赤ん坊は、周囲を気にすることもなく、わがもの顔に泣き続けます。

これには指揮者もたまりません。
若者の歌よりもたちが悪い騒音です。
結局、ドレスデンからプラハまでの2時間ほどの旅程で、車内が静かになる瞬間は1分たりともありませんでした。

おまけにプラハが近づいてくると、大粒の雨。
傘を持っていない紳士は、途中までしか進まなかった楽譜を鞄にしまうと、その鞄を傘にして、プラハの街中へと足早に走り去っていきました。

ドイツ語の話せないチェコの若者。
チェコ語を解しないドイツ人の紳士。
人間の言葉をまだ覚えていない赤ん坊。

国や世代が違えば、車内マナーの考え方も違います。

互いに意思疎通のできぬまま、一方的に被害者となってしまった内気な指揮者。
プラハの街中に消えていく、その背中はどこか寂しそうでした。
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プラハの旧市街広場にて

2007年08月21日 | 旅の話し
ある早朝にプラハの中心部・旧市街広場でスケッチをしていました。
有名な旧市庁舎の時計塔をほぼ描き終えたころ、背の高い白人の若者に声をかけられました。

「今、七時をまわったけど、七時にあの時計は何か動いたか」

藪から棒に何を聞くのか、と思っているうちにも、若者は訛りの強い英語でまくしたてます。

「僕のガイドブックには、旧市庁舎の時計塔が正時になるとぐるぐると回りだすって書いてあったんだ。プラハに来て五日目になるんだけど、何度来ても時計が回るところを見たことがない。どうなっているんだ。壊れているのか。」

旧市庁舎の塔には、私が見ていた時計とは別に有名な天文時計があり、それが仕掛け時計になっていることは、私もガイドブックを見て知っていました。

「それは、この時計ではなく、裏側にある天文時計のことではないんですか?」

私が聞くと、若者はさらに語気を強めて続けました。

「それは知っている。僕もそれは見た。何度も見た。この五日で十回もここに来てるんだ。
でも全然時計は回ったりしない。ガイドブックにはぐるぐるぐるぐる回るって書いてある。
僕は今日の昼に国に帰らなくてはならない。ついに見られなかった!」

なかば怒り心頭に発す、という感じでたたみかける彼。
私に怒られても…と思っていると、彼も悪いと感じたのか、少しテンションを下げてこう言いました。

「もし君が時計の回るところを見られなくても、悔しがらないで。仕方ないことだから。」

そして、最後に面白い表現を使った捨て台詞を残し、去っていきました。

It’s not your fault.

直訳すると、
「(時計が回らなくても)、それは君のせいじゃないよ」
となります。

そりゃそうだろ。
時計が動かないのを私のせいにされても困るよ。
と、突っ込みを入れたくなるような表現です。

彼がどこの国の人かはついに分からずじまいでしたが、もしかすると彼の国の言葉にそのような言い方をしてなぐさめる表現があるのかもしれません。

日本人も、よく日本語的な発想の表現をそのまま英語に直訳し、ネイティブや他の国の人に真意がうまく通じない、ということがよくあります。
この若者の言葉もそんなことかもしれません。
今となっては確かめる術もありませんが…。


ちなみにこの話には後日談があります。

翌日、旧市庁舎の天文時計を、正午きっかりに見た私は愕然としました。
確かにこの天文時計は仕掛け時計でした。
しかし時計が回るわけでも、大きな仕掛けがあるわけでもなく、安っぽい音楽とともに小さな人形が何体かちょこんと出てきて終わりでした。
日本のデパートやホテルのエントランスによくある仕掛け時計の方がよほど華やかです。

でもこれがプラハの名物の一つなんだそうです。
周りには多くの観光客が待ち構えていましたが、全員それを見ると「なあんだ」という顔をして去っていきました。
時計が大胆にぐるぐると回る様を想像していたあの若者が、見落としたのも無理はないでしょう。

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旅のスケッチ

2007年08月20日 | 旅の話し
旅に出る時には、必ず小さなスケッチブックとペンを持っていきます。
旅先で、10分か20分ほどの時間ができた時に、カバンから取り出して筆を走らせます。

電車やバスを待っている時、ホテルで夕食から帰ってきた後…。
中でも、早朝は絶好のスケッチタイムです。
何しろこちらは時差ぼけで朝は五時過ぎには目が覚めてしまいます。
一方、欧州の人たちはどうやら朝早くからがつがつと観光に精を出すという習慣はないようで、昼間は観光客でごったがえすプラハも、朝は人っ子一人いない静かな町になります。

そんな時間に、ぶらりと街を歩き、気に入った風景を絵にとどめるのです。
あまり時間はかけられないので大雑把なスケッチですが、それでも少なくとも絵を描いている何分かの間は、対象物を凝視し観察します。

広場にある教会の細かな細工、様々な時代様式の建物のフォルム、窓やドアのデザイン、町中に建つ銅像の表情やしぐさ…。
細かく観察していると、普通の観光では見落としてしまいそうな細部にまで、デザイナーや職人たちの手がかかっていることがよく分かります。

へえ、こんなに細かく作りこんでいるんだ。
なるほどこういうデザインもあるわけねえ…
などと、一人で感心しながら、線を一本一本入れていく。

発見の多い、充実した時間です。

「旅の記録」も様々です。
写真やビデオを撮れば、大量の映像情報を一瞬にして正確に記録することができます。
旅日記や随筆など、言葉を使って記録すれば、自分の主観を入れて表現できるし、また時間の経過をたどりながら記録することができます。

その点スケッチは、写真のような正確な記録も、言葉のような時間を追った表現もできません。
時間がかかる割には、決して効率のよい記録のやり方とはいえません。

むしろスケッチは、記録した結果よりも、描いている時間そのものに楽しみと目的があるのでしょう。
物忘れの激しい私のような人間でも、いくばくかの時間、意識してじっと観察したものは頭に残っているものです。
「記録よりも記憶に残る」旅の思い出の作り方、といえるかもしれません。



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プラハの本屋さんにて

2007年08月19日 | 旅の話し
プラハの大通りにある本屋に行きました。
五階まである大手の書店で、あれこれと眺めているうちにあっという間に2時間近く経ってしまいました。

絵本あり。旅行の本あり。文学や建築・美術の本あり。料理の本もあります。
チェコ人のための英語の教則本もありました。
料理本のコーナーには寿司の作り方の本があり、文学のコーナーには村上春樹の訳本も置いてありました。

しかし英語本のコーナー以外、ほとんどの売り場の本は、言うまでもなくチェコ語です。
アルファベットではありますが、私にはまったく分かりません。
ですから、文字の部分は読むというより眺めるだけ。
知っている単語すら一つもない言語の本というのは、まったく意味をなさないものなんですね。当たり前のことですが、実際に見てみると痛感します。

その点、目で見て分かる写真やイラストは、万国共通です。
美しい写真や挿絵は見ていて飽きません。

階をあがっていくと、もう一つ万国共通のものを見つけました。

楽譜です。

音楽のコーナーで開いたベートーベンやバッハのピアノ譜。
よく知った曲の音符が並んでいます。
五線譜には、言葉は関係ありません。
音符はもちろん、クレッシェンド(だんだん大きく)や、リピート(繰り返す)などの記号も、私の知っているものとまったく同じです。

普段は気にも留めませんが、言語を理解できない時に、万国共通の記号やイラストがいかに力を発揮するものか。
ちょっと実感しました。
コメント (2)
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