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言葉って面白い!

この日本語、英語でなんていうの?その奥に深い文化の違いが見えてきませんか。

西陣の蜂蜜屋さんにて

2010年05月05日 | 旅の話し
西陣の路地の奥に、蜂蜜専門店を見つけました。
町家が軒を連ねる街並みにひっそりと佇む、小さな店です。
清潔感のある店内には、アカシアやクローバだけでなく、レモン、リンゴ、コーヒー、桜など、様々な植物から採れた蜂蜜のビンが整然と並んでいます。
国産のものだけでなく、インドやカナダ、マレーシアなど、世界各地から輸入されたものも置かれていました。

女性の店長さんが一人で応対してくれました。
にこやかで優しい物腰。
そして何よりもはんなりとした京都弁が、耳に心地よく響きました。
「小さいビンの方はねえ、観光できはった方が、重いから言うてぎょうさん買っていかはって、もうこんだけしかないんですぅ。」
解きほぐすと、今ここに在庫がないのは、観光客が大きいのでなく小さな方ばかり買ったからだ、と言うことです。
しかもその言葉の裏には、買うなら大きいビンの方を買って欲しいのに、という気持ちが暗に込められているようです。
しかし、若干きつめの話題も、京言葉で柔らかく話されると不思議と悪い気はしません。
他人を話題にする時に、「きはった」「いかはった」といった尊敬語を使うことで、話す当人の人格をより柔らかく見せる効果があるのでしょう。
日本語は、尊敬語、謙譲語などが高度に発達してきたと言われますが、その最たるものが京言葉なのかもしれません。

美しい京都弁に釣られて、店を見るだけのつもりだった予定を変更し、幾つも蜂蜜を買ってしまいました。
もっとも「よそ者」の私が買い求めたのは、やはり「小さいビン」の方でしたが…。

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保津川の船頭さん

2010年05月04日 | 旅の話し
亀岡から嵐山に至る保津川を船でくだる「保津川下り」。
切り立った山の合間を抜けて流れる渓流を、三人の船頭さんが操る小さな船で下ります。
時には水しぶきも飛び、時には鶯の声も響き、美しい峡谷の景色を眺めながら、一時間半ほどの時間をのんびりと楽しみました。

もともと保津川は、江戸時代初期に角倉了以の手によって開拓され、物資運搬の水路として使われていました。
明治中ごろに山陰線の開通やトラック輸送の発達に伴い、水路による運搬の需要がなくなり、代わって観光用の川下りが始まりました。
今では一旦嵐山まで下った船はトラック輸送で再び亀岡まで運ばれますが、かつては長い縄で船を引っ張って歩き、何時間もかけて上流へ運んだそうです。
今でもその時に使った川沿いの小道や、巨石の表面に縄の跡が残されていました。

景色も美しかったのですが、印象に残ったのは船頭さんのしゃべりでした。
「両岸にね、昨日まで桜が満開やったんですよぉ。残念でしたねえ。ちなみに明日から紅葉がきれいになるらしいですわ。今日は惜しかったねえ」
「この辺りは野生のイノシシとか鹿もよく出るんですよ。あっ!あそこにイノシシ!・・・…によく似た岩がありますね」
「いやあ、この渓流を一回下ったら一キロ体重落ちるんですよ。一日三回で三キロ。で、夜ビール飲んだら四キロ太ってね。どんどん太っていくんですわ」
「さあ、皆さん、船の左から降りてくださいね。右に降りたら川に落ちますよぉ」
口を開けば、必ず飛び出す冗談。
そのしゃべり方といい、テンポといい、間の良さといい、下手な高座よりもよほど面白いしゃべりでした。

関西に行くと、「面白い会話も料金のうち」といった精神を感じることがあります。
カウンター越しの料理人やタクシーの運転手などにも、客を楽しませるための会話に精力をつぎ込む人をよく見かけます。
保津川の船頭さんにも、そんな精神の一端を垣間見ることができました。

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東山文化に英語で触れる

2010年05月03日 | 旅の話し
銀閣で知られる東山慈照寺を訪ねました。
ゴールデンウィークの人ごみにも関わらず、わびた風情をかもし出す銀閣の美しさには、心を打たれました。

ちょうど東求堂(とうぐどう)の特別拝観があったので、見学に参加することにしました。
東求堂は、銀閣と並ぶ室町時代創建当時の遺構で、国宝に指定されている建物です。
もともとは阿弥陀如来像を祀る持仏堂として建てられましたが、今ではその隣りにある四畳半の書院「同仁斎(どうじんさい)」の方が、茶室の源流として有名になっています。
今回は、当時の書院飾りを記録に基づいて再現してありました。
付書院の上には筆や硯、文鎮などの書の道具、そして違い棚には天目茶碗。ずらりと道具が並ぶと、当時の豊かな文化が偲ばれます。
そして、書院の障子窓を少し開けると、新緑の中に映える真っ赤なキリシマツツジが目に飛び込んできました。
縦長の隙間からのぞく色鮮やかな庭の景色は、まるで一幅の掛け軸のようです。
小さな建物ですが見どころが多く、堪能しました。

現地でいただいたパンフレットに目を通すと、ほとんどの解説に英語訳が付けられていました。
外国人のニーズに応えるための努力が窺えます。
日本独特の文化や宗教を、英語でどのように訳していくのか、大変難しい作業だったであろうことも推察できるものでした。

「東求堂」は、East Seeking Hall。東を求めるホール、というわけです。この名は室町時代の僧・横川景三の撰によるもので、堂に安置されている義政公像も東を向いています。
「同仁斎」は、Sanctuary of Equal Benevolence。直訳すれば、「平等な仁愛の聖域」です。同仁斎の名は、古代中国の「成人一視而同仁」に因んだ言葉で、だれかれの差別なく平等に愛することを意味しています。Equal Benevolenceは、同仁の由来をきちんと伝えていると言えるでしょう。斎をSanctuary(=聖域)と訳すのもなるほどと手を打ちます。「斎」は接尾語として雅号などによく使われますが、もともと仏教用語で「清浄」を意味する語なのだそうです。
また、東求堂には阿弥陀如来が祀られ、浄土信仰と関わりがある、といった説明のくだりでは、「浄土」をTrue Pure Landと訳していました。確かに、浄土のもともとの意味は「仏の住む清浄な土地」という意味ですから、意味はきちんと伝えているといえるようです。

普段あまり深く意味を考えずにいたことが、英語に訳されたものを読むことによって、本来の意味を明確に理解することがしばしばあります。
日本文化が解説された英語を読むことも、日本文化再発見のよいきっかけになるものです。
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新緑の東福寺

2010年05月02日 | 旅の話し
京都東山の東福寺に行きました。
禅宗東福寺派の大本山。国宝や重文の建物がずらりと並ぶ重厚なたたずまいの寺です。
通天橋から見下ろす紅葉は名高く、JR東海の「そうだ 京都、行こう」のキャッチコピーで、
「六百年前、桜を全部、切りました。春より秋を選んだお寺です」
と、うたわれました。
確かに、ここのカエデが真っ赤に染まる景色は圧巻でしょう。

ところが実は・・・。
春の東福寺も美しいのです。
新緑の萌える瑞々しさ。
カエデが最も美しいのは、秋の紅葉ではなく春の新緑ではないかと思うくらいでした。
東福寺は決して「秋を選んだ寺」ではないのです。

通天橋からの景色はもちろんのこと、カエデの林の中を歩くのも格別です。
見上げると葉の間から木漏れ陽がキラキラと輝き、新緑をさらに際立たせていました。

京都に生まれ、京都女子大学を設立した教育者で歌人の九条武子は、こんな歌を残しています。
老僧の紫衣もみどりにそみつべき通天橋の若楓かな
見渡す限り緑一色に染まった通天橋の風景を眺めれば、この歌も納得です。

ところで、通天橋近辺に植えられた楓の中には、独特の三つ葉のカエデがあり、三つ葉楓、別名「通天楓」と呼ぶのだそうです。
地元の小学校の校章にも使われていると言いますが、境内には数本しか残っていないそうです。
ただ盆栽の世界では、「通天楓」の名で親しまれているようです。

一つの寺の境内にかかる一つの橋の名前が、植物の名前に転用される。
それほど通天橋のカエデが古今多くの人に愛でられてきたということなのでしょう。
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京の器のはなし

2008年03月03日 | 旅の話し
京都の清水に、行きつけの陶磁器店があります。
京都に行くたびに足を運び、ゆっくりと時間をかけて器を鑑賞します。
気に入ったのがあれば、一点、二点、少しだけ買い求めます。

この店に納める陶芸作家のセンスはいずれも私の好みに合っていて、店を訪ねるといつも目移りしてしまいます。

先日もこの店を訪ね、並ぶ器を眺めていました。
一人の作家の作品が目にとまり、じっと見ていました。
紺の杯です。
ほとんど黒に近い深い紺色で、釉薬の流れが杯の中央に向けて独特の放射線を描いています。
一つ一つの模様が偶然の産物なので、一つとして同じ模様はありません。
水を入れてみると、紺の色が鮮やかに輝きだし、放射線と斑点が作る模様はあたかも小宇宙のようです。
幾つか杯を並べて、その引き込まれるような美しさに、どれにしようかと迷っていると、店主が「とっておきのがあるんですよ」と言って店の奥からもう一つの杯を持ってきました。

見た目は他のとあまり変わりませんでしたが、水を入れてみると、放射線とは別に底の方に緑色と紫が交じり合った不思議な模様がぱっと広がりました。
他の杯にはない、独特の、そしてえもいわれぬ美しい模様です。

「これはね、薬を少し多くたらしすぎて底に溜まったのが、偶然にこんな模様になったんですよ。作家さんは失敗作だって言うんですけどね。僕は気に入ったので、ずっと店頭に出さずにとっておいたんです」

それまで一時間近く迷い続けていた私は、その杯を見た瞬間に「これください」と言いました。

かつてラフカディオ・ハーンが、日本の文化の魅力を「不規則の美」と言葉で表現したことがあります。
二つと同じものがない、独特の、偶然の、そして不均衡なものに、美を見出す。
日本人にはそんな美意識が古くから流れています。

確かに、その杯は作家から見れば失敗作かもしれません。
釉薬の量を完璧に調整できた時の均衡のとれた作品は、それはそれで美しいのでしょう。
しかし、私はその杯を見た時に、誰が見ても美しいと思う完璧な美しさよりも、失敗が功を奏して偶然にできた不思議な美の方が、日本の美学にふさわしいと思って迷わずに買い求めたのです。






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