だんなっちょんのブログ

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甲斐性無しの二児の父

3月11日日記 あの日僕は

2012-03-06 02:47:52 | 生活漫談
2011年3月11日、日本中を震撼させた東日本大震災から早1年。
月日の流れは誠に早いものである。

あの日私は仕事場に居た。
普段より早めの出勤だった。
この日は12時から教え子の9割が受験した県立高校入試の合格発表の日
合否別にして会社を昼から開放し、
結果を受けた生徒を迎い入れ準備に追われていた。
1時ぐらいになって生徒も次々と顔を出す。
自分がとてもとても心配した、合格するかぎりぎりだった女の子も無事合格。
涙ながら「うかったぁぁ」と言ってくれた。自分も少しだけ涙した。
生徒と合格を分かち合いながら、全員でジュースで乾杯し
さっそくお菓子に手をつけることに。
この日は講習期間中にしか来ないバイトも集結で大賑わいだった。
2時になり、メインのピザを大量注文。同僚が車で取りに会社を後にした。生徒の相手はバイトに任せて、こっちは来てない子の合否確認作業にはいる。一段落したところで、少し会社の外に出て休憩タイム。
そして会社のドアを開けて階段を4段程登った当たりで違和感を感じる。

「ん?揺れてるか?」

最初は震度3ぐらいの揺れだった、そのまま階段を登って職員室に
戻る間も揺れ続けており、「随分長いな・・」と思っていたら徐々に揺れが大きくなる。職員室に戻った瞬間に「うわっ」と主要動らしき揺れがいっきに押し寄せ、そして奴はやってきた。

ズドーン!!

まさにこんな音だった。これまでの人生で経験したこともない縦揺れなのか横揺れなのか分からない大揺れ。
気がついたら近くのロッカーは倒壊しそうになり、必死にバイトと一緒に抑える。部屋の隅からはホコリが蔓延。
時計が落下してガラスが割れる音が聞こえ、同時に生徒の悲鳴が聞こえる。「なんとかしなければ」という気持ちすら働かない異常事態。
身動きを取るはおろか言葉さえも出ない。
教室で生徒は机の下に隠れることすらままならぬパニック状態。
この時の揺れは脳裏から一生離れることがなく、何度もフラッシュバックしたほどの死すらも覚悟した悲惨な地獄絵図。

「阿鼻叫喚!視界不良!手も足も出ない黙って今の苦境を耐えるのみ・・!」

2分ほど経過してようやく良く収まりだしたところで、ようやく職員の一人が声を上げて「外に出ろ!!逃げろ!」と言いながら生徒を誘導する。
その間も揺れはまだまだ続く状況。まさに「ありえない」としか言い様がなかった。

生徒を全員駐車場に退避させて暫く様子をみることに。
20分ほどしてようやく揺れが収まったところで会社に戻って
今度は電話連絡を試みるが当然の如く使えない。
ライフラインの復活を待ちつつ、生徒を一旦自宅に戻すように指示するが
「ピザ食べたい!まだ食べてないから食べて帰る!」と、
こういう状況下でも言うのはさすが若者というところか・・・。
程無くピザを買ってきた同僚が戻ってきて開口一番
「揺れた時車ぶつけられたかと思って外出て、始めて地面が揺れていることに気がつきました」と言っていた通り、経験したこともない地震だったことをうかがわせる。

取り敢えず寒空の下に机を出して生徒にピザを食べさせながら
「食べ終わり次第即自宅に戻るように」と告げて自分らは職場内の後片付けに入る。
入るが・・余震が続き過ぎなので、これ以上続けるのはやばいということになり、再び会社の外に出て様子をみることにする。
その間車のラジオで初めて「宮城沖で震度7」「大津波警報」という言葉を耳にする。
職員らは家族に電話を試みるが全員携帯が混雑なのか障害なのか、
定かではないが繋がらない状況。

自分はこの時凄く焦ったし冷や汗が流れていたのを覚えている。
なんせ妻は普段から「自分の職場は震度5で壊れる程ボロいんだよ」と言っていたからだ。
この尋常でない揺れである。
当然頭に過るのは妻の安否。
「まさか瓦礫の下敷きにでもなっているのではあるまいか・・・」
と冗談抜きに超真面目に心配した。
安否だけは何とかと思って電話してもメールしても全くアウトの状況が続く。

生徒を全員自宅へ帰し、「本日臨時休校にいたします」の案内をマジックテープで書いて会社中に貼付けまくって全員解散。
明日は取り敢えず異常自体を踏まえ出勤時間は連絡待ちとなった。

さぁ早く戻らないと・・・。
この時、時間は18時を過ぎていた頃だった。
街中の信号が完全に停電どころか街中停電。。
あんな真っ暗な街は初めてだった。

車は当然のごとく大渋滞。
信号も停電麻痺して、警察の誘導すら追いつかない状況で
周りが互いに意識しながら徐行運転をしていた感じだ。
通常自宅には20分なれば着くのだが、この日は1時間20分かかった。

自宅戻ると3つの驚きが待っていた。
まず自宅アパートの電気がついたこと。
これは後の「計画停電免除」にも影響するのだが、変電所の関係で
自分の地域は電気に関しては無双状態で即復旧したらしい。
それから部屋中の家電や食器の心配をしたのだが、幸い何事もなかったこと。(脳内では液晶テレビは完全アウトで食器は完全に破壊だったのだが・・)
そして妻が程無く無事帰還して安心したこと。
この日は朝までテレビに釘付け状態だった。
長い長い1日はようやく終わった感じだ。
この日から気苦労が絶えない日々が始まる(無論、東北の皆様に比べれば可愛いレベルではあるが)

翌日は職場に午前中に向かって電話がつながったので1週間休講の連絡をして会社の後片付けをしてお昼に帰宅。この日から暫く授業は休みになり
1時間だけ出勤して即帰る形となった。
この1週間は自宅に戻ってずっとテレビに釘付け。

福島原発の情報が入りだし、水素爆発をテレビの前で見たのが
確か3日後だったかな。

この時あまり放射能の知識が無かったから相当焦ったな。
福島県とは隣県ってこともあり、放射能が押し寄せて、もう今の場所には住めなくなるんじゃないのか?とかマジ考えて、妻の両親を連れて自分の故郷に戻る計画まで浮上したほどだった。妻は情緒不安定気味になって泣き出す程だった。
今後移住が進んで道路がパニックになるから、どうやって戻ろうかとか。
今では思わず笑ってしまう話ではあるがマジ心配して考えたなぁ。
まぁ徐々に放射能の勉強しているうちに
完全に安全ではないにせよ、即座に危ない状況でないのがわかってきたから良かったんだけどさ。

それから仕事の心配も同時にした。
なんせ自分の仕事は夜にあるものだし、当然電気が絶対必要。
このまま計画停電が続いて電気が使えない状況が続けば仕事どころじゃなくなるのでは?という不安。なんせ震災後から、断続的な停電続きで1週間授業出来無い状況だっただけに、これは本当心配したな。職を失う危機感かな。(売上を落としたくない愚かな塾は休講一切無しで、普通に生徒を来塾させて懐中電灯使って生徒をこさせて授業やっていたようだが・・)

ガソリン枯渇でガソリンスタンド情報収集も大変だったし
非常食も買い込んだし、まぁ人生で経験したこともない「非常事態」だったなぁ・・。

色々あったけど、何とか無事に何事も無くいられたのは良かったけど。
東北の皆さんや今後の日本のことを考えるとリアルに凹んだ。
思いやりのない俺が他人や日本のことで凹むんだから、やっぱり今回の震災は酷すぎる。本当に酷い!!

震災から1年経過して、未だに復旧の目処は立たない状況だし
瓦礫の撤去や今後の生活保障や放射能問題を含めて課題は山積みだけど
東北とは無縁の自分にできる最低限のことは「忘れない」ことだと思う。

第二次世界大戦や原子爆弾のように絶対に風化せてはならない出来事だと思うし、この経験は未来に絶対に語り継ぎ、教訓は生かさないといけないと思う。
未だに日々戦っている被災地の方々のことを忘れない気持ちだけは
絶対に捨ててはいけないと思う。

あとは普通に生きられていることに感謝を覚えつつ、普通どおりの社会生活を営み、復興税や特別増税が新設されれば黙って金を出すことだろうなぁ。これが小市民の一人である俺にできる最低限のことだと思う。


「忘れるな東北!!」