変革の源流 磯田道史さんに聞く -3-に登場した細川重賢を調べてみました。
神をも恐れぬ超合理的主義者・細川重賢
細川重賢の宝暦改革を調べてみました。


ここから https://bushoojapan.com/tomorrow/2013/10/25/8231
おもしろく読めます。
紀州藩第9代藩主・徳川治貞と「紀州の麒麟、肥後の鳳凰」と並び賞された名君でした。
Wikipediaには次のようにありました。
宝暦の改革
新たに藩主についた重賢は、藩財政の改善に手を打つことになる。宝暦2年(1752年)、堀勝名(通称・平太左衛門(へいたざえもん))を筆頭奉行に、蒲池正定(蒲池崑山)を奉行に登用し、改革断行を命じる。堀は、すぐさま大坂に向かい鴻池家など豪商に借財を要請するが、当時の藩財政は危機的状況に陥っており、鴻池はこの要請を拒絶する。この話からも、熊本藩の状況がわかるといえる。しかし、堀はすぐさま当時新興商人であった加島屋との交渉に臨み、藩の年貢一手引き受けを条件に資金を得ることに成功する。
重賢もまた、質素倹約を奨励し、江戸藩邸の費用に限度額を設定するなどの方針を打ち出す。また、重賢は米だけに依存することに限界を感じており、堀と意見が一致する。堀に殖産興業を命じ、楮、生糸、櫨などを専売制に切り替え、蝋の生産を藩直営に移行し、製蝋施設を設立させた。また、領内でたびたび検地を行うなどした。
藩内で出来た製品を加島屋を通じて大量に販売させるなどし、宝暦年間末頃には藩財政の好転が始まっていく。また、宝暦年間から飢饉に備えて穀物の備蓄を行い、天明の大飢饉の際には更に私財も加えて領民救済にあたった。
熊本藩は54万石から、幕末には実質100万石となりました。
教育、司法制度の革新
重賢の改革は財政だけに留まらず、宝暦4年(1754年)には熊本城内に藩校時習館を設立し、許可が得られれば身分に関係なく入校が出来た。江戸の湯島聖堂、岡山の閑谷学校など、将軍や藩主のための学問所、藩校はあったが、家臣や領民、藩外へも広く門戸を開いた日本初めての学校とされる。今で言う奨学金制度も制定するなど、人材育成にも注力した。これらは急激な改革による不満対策と、文武両道の武士教育の意味がある。また、日本最初の公立の藩の医学校再春館を宝暦6年(1756年)に飽田郡宮寺村(現在の二本木)に創設、翌年開校した。その付属の薬草園も現在の薬園町に作った。[3][4]
「藩校時習館」および「再春館 (学校)」も参照
また『刑法叢書』を採用した。それまで死刑か追放刑という刑罰内容だったものを変更し、追放刑を笞刑(むちで打つ)と徒刑(懲役)に減刑した。罪人の二の腕に入れ墨を入れていたのを廃止し、代わりに眉を剃らせ、罪人の社会復帰を容易にした。これも急激な改革に対する犯罪増加や不満対策である。この『刑法叢書』は明治憲法下の刑法の手本とされ、熊本から多くの人材が司法畑に採用された。
すごい人ですね。
神をも恐れぬ超合理的主義者・細川重賢
細川重賢の宝暦改革を調べてみました。


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おもしろく読めます。
紀州藩第9代藩主・徳川治貞と「紀州の麒麟、肥後の鳳凰」と並び賞された名君でした。
Wikipediaには次のようにありました。
宝暦の改革
新たに藩主についた重賢は、藩財政の改善に手を打つことになる。宝暦2年(1752年)、堀勝名(通称・平太左衛門(へいたざえもん))を筆頭奉行に、蒲池正定(蒲池崑山)を奉行に登用し、改革断行を命じる。堀は、すぐさま大坂に向かい鴻池家など豪商に借財を要請するが、当時の藩財政は危機的状況に陥っており、鴻池はこの要請を拒絶する。この話からも、熊本藩の状況がわかるといえる。しかし、堀はすぐさま当時新興商人であった加島屋との交渉に臨み、藩の年貢一手引き受けを条件に資金を得ることに成功する。
重賢もまた、質素倹約を奨励し、江戸藩邸の費用に限度額を設定するなどの方針を打ち出す。また、重賢は米だけに依存することに限界を感じており、堀と意見が一致する。堀に殖産興業を命じ、楮、生糸、櫨などを専売制に切り替え、蝋の生産を藩直営に移行し、製蝋施設を設立させた。また、領内でたびたび検地を行うなどした。
藩内で出来た製品を加島屋を通じて大量に販売させるなどし、宝暦年間末頃には藩財政の好転が始まっていく。また、宝暦年間から飢饉に備えて穀物の備蓄を行い、天明の大飢饉の際には更に私財も加えて領民救済にあたった。
熊本藩は54万石から、幕末には実質100万石となりました。
教育、司法制度の革新
重賢の改革は財政だけに留まらず、宝暦4年(1754年)には熊本城内に藩校時習館を設立し、許可が得られれば身分に関係なく入校が出来た。江戸の湯島聖堂、岡山の閑谷学校など、将軍や藩主のための学問所、藩校はあったが、家臣や領民、藩外へも広く門戸を開いた日本初めての学校とされる。今で言う奨学金制度も制定するなど、人材育成にも注力した。これらは急激な改革による不満対策と、文武両道の武士教育の意味がある。また、日本最初の公立の藩の医学校再春館を宝暦6年(1756年)に飽田郡宮寺村(現在の二本木)に創設、翌年開校した。その付属の薬草園も現在の薬園町に作った。[3][4]
「藩校時習館」および「再春館 (学校)」も参照
また『刑法叢書』を採用した。それまで死刑か追放刑という刑罰内容だったものを変更し、追放刑を笞刑(むちで打つ)と徒刑(懲役)に減刑した。罪人の二の腕に入れ墨を入れていたのを廃止し、代わりに眉を剃らせ、罪人の社会復帰を容易にした。これも急激な改革に対する犯罪増加や不満対策である。この『刑法叢書』は明治憲法下の刑法の手本とされ、熊本から多くの人材が司法畑に採用された。
すごい人ですね。