[べらぼう] 東北諸藩で死者90万人以上! 天明の大飢饉について [大河ドラマ/解説]
本動画は、江戸三大飢饉の一つである天明の大飢饉について解説しています。この飢饉は、天明2年から8年にかけて発生し、特に東北地方に甚大な被害をもたらしました。浅間山の噴火や異常気象が主要な原因であり、冷夏による米の不作が深刻化しました。さらに、幕府の年貢の厳しさや、各藩が備蓄を怠り、高値で米を売り払ったこと、商人による米の買い占めといった人為的な要因も被害を拡大させました。しかし、一部の藩では、藩主の適切な対応により餓死者が抑えられた事例も紹介されており、自然災害だけでなく、為政者の行動が飢饉の被害の大きさを左右したことが強調されています。
Q 天明の大飢饉がもたらした広範囲な被害と、その多面的な原因は何だったのか?
A 天明の大飢饉は、江戸の三大飢饉の中でも最も被害が大きかった大飢饉とされています。この飢饉は、その甚大な被害と多面的な原因によって特徴づけられます。
天明の大飢饉がもたらした広範囲な被害
• 大規模な死者
◦ 東北地方で特に被害が甚大でした。
◦ 津軽藩では、天明3年の秋から天明4年の夏までの1年間だけで8万人以上の餓死者が出たとされています。
◦ 南部藩では、餓死者に加えて疫病が流行し、病死者と合わせて約6万5千人の死者が出ました。
◦ 仙台藩では、餓死者だけで40万人に上ったと記録されています。
◦ しかし、各藩が幕府の監督を避けるために被害報告を実態よりも低く報告する傾向があったため、実際の死者数は記録よりも多かった可能性が高いです。
• 地獄絵図のような惨状
◦ 道に人間の骨が散乱し、倒れた餓死者で道が埋まるほどでした。
◦ 生存者は腐敗した死体を踏み越えて進むしかなかったという証言もあります。
◦ 生きるために、馬、犬、猫、さらには疫病で死にかけている人間を殺してその肉まで食すという人肉食が行われていたと記録されています。
• 社会の混乱と反乱
◦ 各地で百姓一揆(ひゃっき)が多発し、主要都市では大規模な打ちこわしが行われました。これは、米の価格高騰や商人による買い占めに対する民衆の怒りが爆発したためです。
• 経済活動の停滞
◦ 東北地方は商業経済が未発達で、農作物に依存していたため、凶作はそのまま食料の欠乏につながりました。
天明の大飢饉の多面的な原因
天明の大飢饉は、単一の原因ではなく、複数の要因が複合的に絡み合って発生した「人災の側面」も持つ災害でした。
1. 異常気象による天災
◦ 冷夏(れいか)の継続: 天明2年の春から夏にかけて涼しい気候が続き、さらに天明3年の夏になっても気温が上がらず、厚着が必要なほどのひどい冷夏でした。これにより、米をはじめとする農作物が育たず、全国的な凶作となりました。
◦ 暖冬と水不足: 天明2年の冬は暖冬で、降雪量が少なかったため、雪解け水を利用する地域では水不足が懸念されました。
◦ 浅間山の大噴火: 天明3年には浅間山が大噴火を起こし、江戸から約140km離れた場所でも約3cmの火山灰が積もるほど広範囲に影響を及ぼし、農作物に深刻な被害を与えました。火山灰は雨と混ざって粘土状になり、作物にさらに大きな被害をもたらしました。
◦ 洪水: 天明2年には春からの長雨で各地で洪水が発生し、特に津軽藩では米の収穫量が12万石も減少しました。江戸でも両国橋や大橋が流されるほどの甚大な被害が出ていました。
2. 人為的・社会的な要因(人災)
◦ 藩の財政難と備蓄の不足
▪ 東北の諸藩は、そもそも毎年米の収穫量が自藩の必要量を上回ることがなく、常に不足している状態でした。
▪ 年貢米を全て売っても借金をして財政が成り立たないような藩が多かったため、凶作に備えるための備蓄(囲い米)をする余力がありませんでした。これにより、領民の救済に手が回らなくなりました。
◦ 米の買い占めと価格高騰
▪ 天明の飢饉は全国的な凶作だったため、各藩は自藩の米を囲い込む「止め米(とどめ)」を行い、よそへの供給を止めました。これは幕府も推奨していた時刻救済の手段でした。
▪ しかし、これに乗じて米商人が米を買い占めて売り惜しみ、価格を吊り上げて莫大な利益を得ようとしました。
▪ さらに悪質なケースとして、仙台藩の財政担当者である**安倍政門(あべせいもん)**のように、藩の要人が領内の米を全て江戸に運び出して高値で売却し、藩の借金返済に充てようとした事例がありました。これにより、仙台藩では下級武士にまで餓死者が出るほどの悲惨な状況となり、安倍政門は屋敷を壊され、家屋敷没収の末に藩が取り潰されることになりました。
◦ 農民の貯蓄力の低下と高額な年貢
▪ 吉宗以降、年貢(税金)が大幅に引き上げられたため、農民たちは凶作に備えて米や雑穀(粟、稗、麦など)を隠し持っておく余力が失われていました。
▪ とにかく税金が全てから取られるような「鼻血も出ないぐらい」の高さになり、農民が自衛できる余裕がなくなったことが、死者数を爆発的に増やした一因とされています。
◦ 政治家や指導者の責任
▪ 飢饉の被害の大きさには、藩のトップ(藩主や重役)の判断や行動が大きく影響しました。
▪ 米沢藩の上杉治憲(ようざん)や白河藩の松平定信のように、自藩で米を買い入れて領民に配ったり、減税したり、救荒植物の栽培を奨励したりすることで、餓死者をほとんど出さなかった模範的な藩もありました。しかし、残念ながらこうした藩は少数派でした。
▪ 多くの藩では、目先の借金返済を優先したり、領民救済に手が回らなかったりしたため、被害が拡大しました。
これらの要因が複合的に作用した結果、天明の大飢饉は広範囲にわたる甚大な被害をもたらし、江戸時代を代表する悲惨な出来事として歴史に刻まれることになりました。
Q 災害時の危機管理において、為政者の判断と行動は住民にどのような影響を与えたのか?
A 天明の大飢饉において、為政者の判断と行動は、住民の生命と生活に極めて大きな影響を与えました。この飢饉は主に異常気象による天災でしたが、その被害の甚大さには、為政者の不適切な判断や行動、すなわち人災の側面が強く影響していました。
具体的には、以下のような影響が見られました。
• 備蓄の不足と財政的余裕の欠如による救済活動の停滞:
◦ 東北の多くの藩は、平時から米の収穫量が不足しており、年貢で得た米を全て売却しても借金を抱えるような厳しい財政状況にありました。このため、豊作時に米を蓄えて凶作時に放出する「囲米」といった古くからの飢饉対策を行う余力がなく、領民の救済に手が回らなかったのです。
• 為政者や有力者による不適切な行動(人災の側面):
◦ 仙台藩の安部政門の例: 仙台藩の財政担当であった安部政門は、領内に集められた米を全て江戸に運び、通常の3倍以上の高値で売却して藩の借金返済に充てようとしました。この結果、仙台藩内では一般の領民だけでなく、下級武士にまで餓死者が出るほどの悲惨な状況となりました。安部政門自身も、怒った人々に屋敷を壊された上に家屋敷を没収され、藩はお家取りつぶしに遭いました。これは、目先の財政再建を優先し、領民の命を顧みない為政者の誤った判断が、悲劇的な結果を招いた典型的な例です。
◦ 米の囲い込みと価格の高騰: 飢饉の際、全国的に米が不足したことで、各藩は自藩の米を囲い込み、他所への流出を止めました。これは自藩の住民を救うための手段(国産止め)でしたが、中には商人だけでなく、藩の要人までもが投機的な転売行為を行い、米の値段を不当に吊り上げて利益を得ようとしました。
◦ 江戸には各藩が高値で売るために米を運び込んでいたため、米自体は豊富にありましたが、米商人がさらに利益を上げるために米を売らずに抱え込んだ結果、江戸でも米の価格がどんどん高騰しました。これにより、各地で大規模な打ちこわしが頻発する事態を招きました。
◦ 過酷な年貢(税金): 吉宗以降、農民に課せられる年貢(税金)が非常に高くなったことも、飢饉の被害を拡大させました。本来、農民は凶作に備えて米や他の作物(粟、稗、麦など)を蓄えておくことで自衛していましたが、過剰な税金によりその余裕が失われていたため、ひとたび凶作に見舞われると、すぐに餓死者が出る状況になっていました。
• 為政者の適切な行動による住民の救済(少数派):
◦ 米沢藩の上杉鷹山や白河の松平定信の例: これらの藩では、自藩の米が不足した場合でも、他の地域から米を買い入れて領民に分け与えるなど、積極的に住民を救済する政策を行いました。また、食べられる野草(急行植物)などを教えて、飢えをしのぐ方法を指南するなどの取り組みも行われました。これにより、これらの藩では餓死者がほとんど出なかったとされています。
◦ 相馬藩の減税: 農民の負担が大きすぎると判断し、年貢を大幅に減らした藩も存在しました。
このように、天明の大飢饉は天災であると同時に、多くの為政者が自身の財政や目先の利益を優先し、領民の生命を軽視するような**「人災」的な判断を下した**ことが、東北諸藩を中心に甚大な数の餓死者を生み出す結果となりました。一方で、住民の生活を第一に考えた一部の優れた為政者による適切な危機管理と迅速な対応は、住民の生死を分けるほどの大きな差を生み出しました。
Q 歴史上の大飢饉から、現代社会の災害対策やリーダーシップについて何を学べるか?
A 天明の大飢饉から現代社会の災害対策やリーダーシップについて、以下の重要な教訓を学ぶことができます。
天明の大飢饉の背景と被害
天明の大飢饉は、江戸の三大飢饉の中でも最も被害が大きかったとされています。その原因は、異常気象による天候不順が第一でしたが、人為的な要因も被害を甚大化させました。
• 異常気象: 天明2年の春から夏にかけての冷夏、冬の暖冬、そして天明3年の浅間山の大噴火が重なり、全国的に農作物の不作が続きました。特に東北地方では、天明2年には米の収穫量が平年の約6割に減少し、津軽藩では天明3年から4年の1年間で餓死者が8万人以上、南部藩では疫病死者と合わせて6万5千人近い死者が出たと記録されています。仙台藩に至っては餓死者だけで40万人にも及んだとされます。これらの数字は、藩が幕府に報告する際に過小評価されがちだったため、実際の死者数はさらに多かった可能性が高いと指摘されています。
• 社会状況: 東北地方は商業経済が未発達で、米などの農作物のみに依存した生活を送っていたため、不作が直接飢饉に繋がりやすかったのです。道に人間の骨が散乱し、生存のために馬、犬、猫から、さらには疫病で死にかけの人間の肉まで食べる地獄絵図が繰り広げられた地域もあったと記録されています。
現代社会への教訓
災害対策について
1. 戦略的な備蓄と食料安全保障の確立:
◦ 奈良時代から存在した「義倉」や江戸時代の「囲米」といった、豊作の年に余剰米を貯蓄し、凶作時に放出する仕組みは存在しました。しかし、東北諸藩はもともと年貢米を売却しても財政が立ち行かないほど困窮しており、備蓄するだけの余力がなかったとされています。
◦ 現代社会においても、食料だけでなく、水、医薬品、エネルギーなどの戦略的な備蓄は不可欠です。平時から災害に備え、十分な備蓄と供給体制を確保することが、不測の事態における生命維持に直結します。
2. 経済構造の多様化と地域ごとのレジリエンス強化:
◦ 東北地方が米に過度に依存していたため、不作が直接飢饉に繋がりました。商業経済が発展していた江戸などの大都市では、外部から食料を調達する能力があったため、東北ほどの餓死者は出ませんでした。
◦ 特定の産業や作物に依存しない多様な経済構造を構築し、地域ごとの食料生産能力や流通網を強化することで、災害時の脆弱性を低減できます。
3. 適切な情報公開と市場の監視:
◦ 天明の大飢饉時には、一部の商人が米を売り惜しみ、価格を吊り上げる「転売ヤー」のような行為が横行しました。さらに、仙台藩の財政担当者であった安倍政門のように、藩が集めた米を江戸で高値で売却し、結果として領内で飢餓を深刻化させたケースもありました。
◦ 現代においても、災害時における物資の買い占めや高値転売を防ぐための法規制や市場監視は重要です。また、正確な情報公開と適切な流通の確保は、社会の混乱を防ぎ、被災者が必要な物資にアクセスできるようにするために不可欠です。
4. 脆弱な層への支援と社会保障制度の確立:
◦ 吉宗以降、年貢が大幅に引き上げられたことで、農民は凶作時に備えて米を隠したり、粟や稗、麦などを蓄えたりする余力がなくなっていました。これが、凶作時の餓死者増加に拍車をかけました。
◦ 現代社会においては、災害発生時に最も被害を受けやすいのは経済的弱者です。平時からの社会保障制度の充実や、災害時における迅速な経済支援、食料供給網の確保は、命を守る上で極めて重要です。
リーダーシップについて
1. 住民の命を最優先する倫理観と長期的な視点:
◦ 仙台藩の安倍政門は、藩の財政立て直しのため、領民の飢餓を顧みずに米を高値で売却するという判断を下し、結果的に藩内で多数の死者を出しました。これは、目先の借金返済という短期的な利益を優先し、領民の生命という最も重要な価値を見失った「人災」の側面を示しています。
◦ 現代のリーダーには、危機に直面した際に、国民や住民の生命と福祉を最優先する強い倫理観と、短期的な損得にとらわれない長期的な視点が求められます。
2. ** proactive な行動と危機管理能力**:
◦ 米沢藩の上杉鷹山や白河藩の松平定信のように、自領内だけでなく他藩から米を買い入れたり、食べられる野草を教えたりするなど、領民の救済に尽力した藩では、死者がほとんど出なかったとされています。また、相馬藩のように税金を大幅に減税した例もありました。
◦ リーダーは、危機の兆候を早期に察知し、迅速かつ果断な行動を取る必要があります。また、リスクマネジメントの観点から、平時から複数の危機シナリオを想定し、対応策を準備しておくことが重要です。
3. トップの判断が結果を大きく左右すること:
◦ 天明の大飢饉の被害の大きさには、藩ごとの大きな差がありました。これは、まさにトップに立つ人間の判断と行動が、結果にこれほど大きな差をもたらすということを示しています。
◦ 現代社会においても、災害対策や危機管理においてリーダーの役割は絶大です。適切なリーダーを選出することの重要性は、歴史が教えてくれる最大の教訓の一つと言えるでしょう。
4. 情報収集と透明性の確保:
◦ 飢饉の規模が大きかったにもかかわらず、各藩が幕府への報告数を実態よりも低く見積もっていたように、情報の隠蔽や操作が行われる可能性があります。
◦ 現代においては、危機発生時における正確な情報収集と、それを透明性高く国民に伝えることが、信頼を維持し、適切な対応を促す上で不可欠です。
天明の大飢饉は、単なる自然災害ではなく、当時の社会経済構造、政治家の倫理観、そしてリーダーシップのあり方が複合的に絡み合った「人災」の側面も持ち合わせていました。この歴史から学ぶべきは、自然災害の脅威に対抗するためだけでなく、人間の判断や行動がその被害を大きく左右するという事実であり、現代社会においても、備え、倫理、そして適切なリーダーシップが、危機を乗り越えるための鍵となることです。