最澄と空海-その出逢いと訣別
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この武内孝善による論文は、「最澄と空海―出逢いと訣別」と題し、最澄と空海の出会いから決別までの過程を、主に二人が交わした書状に基づいて詳細に考察しています。論文は、二人の友情が始まり、親密さを増していった時期、そして密教観や灌頂のあり方における認識のずれが、いかに二人の間に溝を生じさせたのかを分析しています。特に、『理趣釈経』の貸借問題が決定的要因の一つであったと論じ、既存の研究を踏まえつつ、二人の決別は弘仁四年の空海の「答書」によって決定的になったとの見解を示しています。最終的に、それぞれの道を歩み始めた二人が、日本仏教の発展に大きく貢献したと結論付けています。
もう少し長い要約をしてみました。
1000文字前後
まず、二人の出会いについて、延暦23年(804年)の唐への渡航は同時期であったものの、官僧としてのキャリアには大きな違いがあったと指摘します. 最澄は留学僧として短期滞在予定であり、ある程度学修を終えていたのに対し、空海は長期留学予定の若い僧でした. 日本出発前の二人の接触は、挨拶程度であったと考えられてきました. しかし、空海が最初の遣唐使船に乗船していた可能性を指摘し、九州で船待ちをしていた期間に二人が言葉を交わしていた可能性も示唆しています.
二人の本格的な交流は、空海が帰国後の大同4年(809年)に始まります. 最澄は空海が持ち帰った密教経典に強い関心を示し、書状を通じて借覧を頻繁に願い出ていました. この時期、二人の関係は急速に親密になり、弘仁3年(812年)の高雄山寺における灌頂は、その頂点と見なされます. しかし、この灌頂において、最澄が期待した伝法灌頂ではなく結縁灌頂であったことが、二人の間に微妙な心のズレを生じさせる要因になったと著者は考えます. 伝法灌頂は師から弟子へ法を伝える儀式であるのに対し、結縁灌頂は仏と縁を結ぶもので、僧俗を問わず受けることができました.
心のズレは、弘仁4年(813年)の**『理趣釈経』の借請拒絶事件**によって、決定的となります. 最澄が空海に『理趣釈経』の借覧を求めたのに対し、空海は「答書」と呼ばれる書状でこれを厳しく拒否し、密教受法のあるべき姿を説きました. この「答書」の内容や宛先を巡っては諸説ありますが、著者はこれを最澄宛てであり、この拒絶が二人の決別を決定づける大きな契機になったと捉えています.
この背景には、二人の密教観と受法に対する根本的な見解の相違がありました. 最澄は円密一致の立場を取り、天台法門と真言法門に優劣はないと考え、密教の受法も筆授による独学が可能であるとしていました. 一方、空海は顕密二教を峻別し、真言密教を высший のものと捉え、密教の伝授は師から弟子への面授によってのみ成り立つと強く主張していました. 空海の「答書」における厳しい言葉は、この面授の原則を最澄に理解させようとしたものと解釈できます.
決裂後、二人はそれぞれの道を歩み始めます. 最澄は天台法門の確立に、空海は真言法門の定着に尽力しました. この決別は悲劇的な結末ではあるものの、それぞれの宗派が独自の発展を遂げるための原動力になったと結論付けています.
この論文は、従来の最澄と空海の友好的な関係というイメージだけでなく、その間に存在した密教観や受法に対する深い溝を、具体的な史料に基づいて明らかにした重要な研究と言えるでしょう.
Q 最澄と空海の出会いと決別時期について、本文は新見解を示すか。
A
はい、本文は最澄と空海の出会いと決別時期について、いくつかの点で新見解を示唆しています1...。
出会いについて、従来の説では、二人が最初に出会ったのは延暦二十三年(八〇四年)の二度目の遣唐使船が出帆する際であり、入唐前には挨拶程度の言葉を交わしたと考えられてきました4...。しかし、本文では、空海が延暦二十二年(八〇三年)の最初の遣唐使船に乗船していた可能性を指摘し4、嵐に遭った後に九州で船待ちをしていた期間に、最澄と接触し言葉を交わしていた可能性も示唆しています2...。これは、入唐前の二人の関係について、従来よりも深い交流があった可能性を示唆する新視点と言えるでしょう2。
決別時期について、従来は、空海の『理趣釈経』借請拒絶などがきっかけで二人が袂を分かつに至ったと考えられてきました1。また、二人の交友は大同四年(八〇九年)から弘仁七年(八一六年)まで続いたと見なされてきました7。しかし、本文では、二人の間に心のズレが生じ始めたのは、弘仁三年(八一二年)十一月・十二月の高雄山寺における灌頂の直後であり8...、弘仁四年(八一三年)十一月二十三日付の最澄の書状とそれに対する空海の「答書」を契機として、その溝は修復不可能な状態に至ったと考察しています3...。特に、空海の「答書」が決定的な役割を果たしたと強調しており3、弘仁四年年末の時点ですでに二人の緊密な精神的繋がりは完全に絶たれていたという見解を示しています3。これは、従来の説よりも早い時期に二人の関係が決定的に悪化したとする新解釈と言えるでしょう3。
このように、本文は最澄と空海の出会いにおける事前の交流の可能性、そして決裂時期を従来よりも早期と捉える新たな視点を提示していると言えます2...。
Q 最澄が空海に典籍借覧を頻繁に依頼した時期はいつか。
A
本文によれば、最澄が空海に典籍借覧を頻繁に依頼した時期は、二人の本格的な交友が始まった大同四年(八〇九年)から弘仁三年(八一二年)の終わり頃までと考えられます1。
具体的には、以下の点が挙げられます。
• 大同四年(八〇九年)八月二十四日付の最澄から空海への現存最古の手紙は、「謹 ん で 啓 す 。 借 請 法 門 の 事 」と書き出し、十二部五十五巻もの典籍名を連ねており、最澄が空海に典籍の借覧を求めた最初の明確な記録です2。本文でも、「この手紙を嚆矢として、最澄はこのあと、矢継ぎばやに経典の借覧と灌頂の受法を、空海にお願いされたのであった」と述べられています1。
• 大同四年(八〇九年)八月から弘仁元年(八一〇年)三月までの第一期には、現存する八通の手紙のうち、特筆すべき点として「二人とも佛典の借覧を願っていたこと」が挙げられています3。この時期には、空海が『摩訶止觀』の借覧を要請したり4、最澄が『十一面儀軌』や『千手儀軌』の借覧を正式に依頼したりする4など、具体的な典籍名が記録されています。
• その後も、弘仁二年(八一一年)四月には、最澄が「天台文句幷湛然文句記二部」や「貞元目錄」の借覧を要請しています5。
• 弘仁三年(八一二年)十月二十六日、つまり乙訓寺で空海を訪ねる前日には、不空訳の三巻本『金剛頂經』の借覧を願い、二度目の灌頂が終わった直後の同年十二月十八日には、『守護國界主經』一帖や『金剛薩埵五祕密念誦儀軌』一巻などを含む十二帖の典籍の借覧を求めています6...。
これらのことから、大同四年(八〇九年)の二人の交友開始直後から、弘仁三年(八一二年)にかけて、最澄は空海に対して頻繁に典籍の借覧を依頼していたと結論付けられます。特に、最初の約一年半の間は、その頻度が高かったことが伺えます3。
Q 最澄と空海の交流はどのように変化したか。
A
最澄と空海の交流は、出会いから決別にかけて、以下のように大きく変化しました。
• 出会い(延暦二十三年(八〇四年)以前): 当初、二人は唐への渡航を同じ時期に行いましたが、官僧としてのキャリアには大きな違いがありました1...。最澄は短期留学予定の還学生であり、ある程度学修を終えていましたが、空海は長期留学予定の留学僧として派遣されるための臨時の措置として出家したばかりでした1...。日本出発前の二人の接触は、挨拶程度の言葉を交わした程度であったと従来は見なされていましたが3、本文では、空海が最初の遣唐使船に乗船し九州で船待ちをしていた期間に、二人が言葉を交わしていた可能性も示唆されています4...。
• 初期の親密な交流(大同四年(八〇九年)~弘仁三年(八一二年)初頭): 空海が帰国後の大同四年(八〇九年)に、最澄は空海が持ち帰った密教経典に強い関心を示し、書状を通じて頻繁に借覧を願い出ました6...。この時期、二人の関係は急速に親密になり、「最初は手に手を取らんばかりに意気投合し、きわめて密であった」と表現されています8。最澄は空海に灌頂の受法も願い出ており7、弘仁三年(八一二年)には乙訓寺での会談を経て、高雄山寺で金剛界と胎蔵の結縁灌頂を受けました9...。この灌頂は、二人の関係が最も良好であった時期の頂点と見なされます12。
• 心のズレと不信感の萌芽(弘仁三年(八一二年)末): 高雄山寺における灌頂において、最澄が期待した伝法灌頂ではなく結縁灌頂であったことが、二人の間に微妙な心のズレを生じさせる要因となりました13...。伝法灌頂は師から弟子へ法を伝える儀式であるのに対し、結縁灌頂は仏と縁を結ぶもので、僧俗を問わず受けることができました13。灌頂後、最澄は空海に対して大乗法儀軌の受法にかかる期間を尋ねますが、三年という期間を示されたことに対し、短期間での修学を望んでいた最澄は落胆し、一時帰山を考えるなど、二人の間に考え方の違いが明確になります15...。
• 決定的な亀裂(弘仁四年(八一三年)): 弘仁四年(八一三年)に、最澄が空海に『理趣釈経』の借覧を求めたのに対し、空海は「答書」と呼ばれる書状でこれを厳しく拒否し、密教受法は面授によるべきであるという自身の立場を強く主張しました18...。本文では、この『理趣釈経』の借請拒絶が、二人の決別を決定づける大きな契機になったと強調されています18...。この背景には、最澄の筆授による独学を重視する密教観と、空海の面授による伝授を絶対とする密教観の根本的な相違がありました25...。空海の「答書」における厳しい言葉は、この違いを明確に示すものであり、最澄との間の修復不可能な溝を深めたと考えられます24...。
• 決別とそれぞれの道へ(弘仁五年(八一四年)以降): 『理趣釈経』の借請拒絶以降、二人の間に親密な交流は見られなくなり、現存する書状も事務的な連絡のみとなります29...。最澄は天台法門の確立に、空海は真言法門の定着にそれぞれ尽力し、二人は袂を分かつこととなりました28...。
このように、最澄と空海の交流は、初期の熱烈な求法心と友情によって急速に深まったものの、密教に対する根本的な考え方の違いや、灌頂をめぐる認識のずれ、『理趣釈経』の借請拒絶などを経て、修復不可能な亀裂が生じ、最終的には決別という結末を迎えたと言えます23...。
Q 最澄はなぜ空海の典籍を借覧したか。
A
最澄が空海の典籍を借覧した主な理由は、以下の通りです。
• 空海が唐から持ち帰った新しい仏教、特に密教の経典や儀軌を学び、理解するため1。最澄は、延暦二十五年(八〇六年)に天台宗において密教を専門とする僧侶(遮那業)の育成を勅許されており1、桓武天皇から密教僧の養成を許された矢先に、空海が大量の密教典籍や曼荼羅などを請来したため、一刻も早く空海に会い、請来した経典類を見たい、書写したいと考えていました1。
• 天台宗における伝法のため2。現存する最古の手紙(大同四年(八〇九年)八月二十四日付)には、「右の法門、傳法の爲の故に蹔く山室に借らん」と記されており2、持ち帰った密教の法門を天台宗の発展に役立てたいという意図がありました。
• 自身が持ち帰ることができなかった貴重な典籍を書写し、所有するため。最澄は短期留学の還学生として入唐しており3、長期留学した空海が持つ多くの典籍を必要としていました。実際に、最澄は空海の『御請来目録』を早くに書写しており4、長安における空海の求法の全貌を知っていました4...。
• 入唐前に造った仏像の供養のため6...。例えば、弘仁元年(八一〇年)正月十五日付の手紙では、『十一面儀軌』や『千手菩薩儀軌』の借覧理由として、「入唐する前に造った佛像は、まだ供養を終えていない。來る三月に供養したいので」と述べています6。
• 空海が持つ悉曇に関する知識や、『大日経』系統の密教への関心から4。借覧された典籍の中には、『大日経略攝念誦隨行法』などの『大日経』関連のものが四部、『悉曇字記』など悉曇関連のものが三部含まれており4、当時の最澄の関心がこれらの分野にあったことが窺えます。
このように、最澄は空海の持つ豊富な密教典籍を、自身の学習、天台宗の発展、儀式の執行など、多岐にわたる目的のために借覧しようとしていました。二人の初期の交流は、最澄のこのような積極的な典籍借覧の依頼によって深まっていったと言えます8。
Q 高雄山寺における灌頂は最澄にとって何が問題だったか。
A
高雄山寺における灌頂は、最澄にとって以下の点が問題でした。
• 期待していた灌頂の種類との違い1:最澄は、正式に法を受け継いだことを証明する**伝法灌頂(でんぽうかんじょう)を期待していました1。しかし、実際に行われたのは、仏と縁を結ぶための結縁灌頂(けちえんかんじょう)**でした1。伝法灌頂は僧侶のみ、しかも師が特別に認めた者だけが受けられるのに対し、結縁灌頂は僧俗を問わず誰でも入壇できました1。灌頂の入壇者の内訳(太僧、沙弥、近事、童子、音声人)を見ても、在家信者である近事や、得度前の子供である童子が含まれており、最澄が受けた灌頂が結縁灌頂であったことは明らかです1。この伝法灌頂と結縁灌頂の違いが、二人の間に埋めがたい溝を作る発端になったと本文は指摘しています2。
• 大乗法儀軌の受法にかかる期間3...:灌頂の直後、最澄は空海に対し、大乗法儀軌(大法儀軌)を受けるにはどれくらいの期間が必要かを尋ねました3...。それに対し、空海は**「三年勉強してください」**と答えました3...。最澄はこれに対し、「せいぜい一夏(三ヶ月)もあれば、と考えていました。数年も必要ならば、しばらく叡山に帰り、天台宗のことをやり遂げた後、高雄に来て真言法門を学修しましょう」と嘆きました3...。これは、短期間での修学を望んでいた最澄にとって大きな問題であり、落胆の色が見られます4。
• 空海の態度の変化5:乙訓寺において空海は、「宜しく持する所の真言の法、最澄闍梨に付属すべし。惟うに、早々に今年の内に付法を受け取らせよ」と述べ、同年十一月には急遽「明日灌頂を」と促したにもかかわらず5、一ヶ月後には「三年勉強を」と言ったことに対し、最澄は一体どうなっているのかという思いを抱いたであろうと本文は推測しています5。
このように、高雄山寺における灌頂は、最澄が期待していた内容と異なっていたこと、その後の本格的な修学に দীর্ঘ期間を要すると告げられたこと、そして空海の言動が一貫しないように感じられたことなどから、最澄にとって大きな問題であり、二人の関係に微妙なズレを生じさせる要因となりました6。
Q 最澄と空海の年齢差は何歳であったか。
A
本文の冒頭1 に、最澄(さいちょう)は天平神護二年(766年)生まれで、空海(くうかい)は宝亀五年(774年)生まれであり、二人の間には八歳の開きがあったと明記されています1。
したがって、最澄は空海よりも八歳年上でした。
Q 最澄と空海は、いかなる目的で唐に渡ったか。
A
最澄(さいちょう)と空海(くうかい)は、時を同じくして延暦二十三年(八〇四年)七月に唐(とう)に渡りましたが、その目的には違いがありました1。
最澄の渡唐の目的:
•
最澄は、渡唐時三十九歳で、修行入位・内供奉十禅師という資格を持つ還学生(げんがくしょう)、つまり短期留学生でした2。
•
僧侶としての学修はほぼ完成の域に達しており、その総仕上げのための入唐でした2。
•
訳語僧(通訳の僧)と従者を伴っていました2。
空海の渡唐の目的:
•
空海は、渡唐時三十一歳で、その前年の延暦二十二年(八〇三年)に留学僧として唐に派遣される船に乗るための臨時の措置として出家し、正式な僧となったばかりでした3。
•
留学僧は、次の遣唐使船が来るまで最低でも二十年間、唐に在留して基礎から学修する長期の留学生でした3。
•
空海自身が記すところによれば、「延暦二十三年季夏の月(=六月)」に乗船し、大使に従って第一船で咸陽(かんよう)に向かいました4。
•
空海が『請来録』に記す「教の優劣、法の濫觴は金剛薩埵五秘密儀軌ひ大辯正三藏の表答等の中に広く説くが如し」という記述から、密教の奥深い教えを求めることが目的の一つであったと考えられます5。
このように、最澄は自身の仏教研究の завершение を目指す短期留学であったのに対し、空海は本格的な仏教、特に密教の фундаментальные знания を習得するための長期留学という明確な違いがありました。
Q 空海が最澄への『理趣釈経』の貸与を拒否した理由は何か。
A
空海(くうかい)が最澄(さいちょう)への『理趣釈経』(りしゅしゃくきょう)の貸与を拒否した主な理由は、密教の受法(じゅほう)は面授(めんじゅ)によるべきであるという空海の強い信念に基づいています1...。本文では、この拒否の背景にある空海の考え方が詳細に述べられています。
• 最澄が弘仁四年(八一三年)十一月二十三日付の書状で『理趣釈経』を含む典籍の借覧を願い出たのに対し3...、空海は「答書」(とうしょ)と呼ばれる書状でこれを拒否しました3。
• 「答書」の中で、空海は密教における受法・伝授のあるべき形を厳しく示しており3、「秘密の奥旨は文を得ることを貴しとせず。唯心をもって心に伝うるに在り。文は是れ糟粕、文は是れ瓦礫なり。糟粕瓦礫を受くれば則ち粋実至実を失う。真を棄てて偽を拾うは愚人の法なり。愚人の法には汝随う可からず、亦求む可からず」と述べています4...。これは、文字や書物による伝達よりも、師から弟子へ直接、心から心へと伝える面授こそが密教の本質であるという空海の考えを明確に示しています6。
• 空海は、「答書」の中で、もし仏であるならばこれ以上何を求めるのかと問い、もし凡夫として理趣を求めるのであれば仏の教訓に従うべきであるとし、三昧耶戒(さんまやかい)を守ることの重要性を説いています4...。三昧耶戒を破れば、伝者も受者も共に益がないと戒めています4。
• さらに、非法の伝受は盗法であり、仏を欺くことになると厳しく指摘しています4。
• 本文は、「答書」全体を通して、厳しい言葉の裏には弟子に対する深い慈愛に満ちた教導があるとも解釈しており10、安易な典籍の貸与ではなく、受法者の心構えと実践の重要性を空海が強調したかったと示唆しています11...。
• 空海は、「答書」の中で、『理趣釈経』の貸与も、秘密の旨の伝授も、相手の心がけ次第で叶えられるとも述べています。「なんじ、若し三昧耶を越せずして、護ること身命の如くし、堅く四禁を持って愛すること眼目に均しくし、教の如く修観し、坎(かん)に臨んで績有らば、則ち五智の秘密、踵を旋らすに期しつ可し。況んや乃ち髻中の明殊、誰か亦秘し惜しまん」とあり、三昧耶戒を守り、教えの通りに修行すれば、いずれは奥義も伝授される可能性を示唆しています12。
このように、空海が『理趣釈経』の貸与を拒否した根本的な理由は、密教の真髄は書物による伝達ではなく、師弟間の直接的な面授によってのみ理解し、継承されるべきであるという彼の強い信念にありました。これは、最澄の筆授による学習を重視する姿勢とは対照的なものであり、二人の密教観の相違が明確になった出来事と言えます5...。
Q 最澄と空海の密教観の相違とは何か。
A 最澄(さいちょう)と空海(くうかい)の密教観には、顕著な相違点がありました。本文の最後 に、二人の密教観と密教受法に対する見解の相違が明確に示されています1...。
最澄の密教観
• 最澄は、天台法門と真言法門の間に優劣を認めない円密一致(えんみついっち)の立場をとっていました1。彼は、密教受法の方法として筆授(ひっしゅ)、つまり師につかずに経典を書写し読解する独学でも可能であると考えていました1。
• この円密一致の考えは、弘仁三年(八一二年)八月十九日付の空海宛の書状にある「一乘の旨、眞言と異なることなし」1、そして弘仁七年(八一六年)五月一日付の泰範宛の書状にある「蓋し劣を舍てて勝を取るは世上の常理なり。然るに法花一乘と眞言一乘と、何ぞ優劣有らんや」2という記述に表れています。
• 密教受法の方法については、空海から再三にわたり非法の伝授である「越三昧耶(えつさんまや)」の忠告がなされていたこと、並びに弘仁七年に書かれた『依憑天台集』(えひょうてんだいしゅう)序に最澄が「眞言家は筆授の傳授を泯す」と書いていることに、彼の筆授重視の姿勢が端的に表れています2。
空海の密教観
• これに対し、空海は仏法には顕教(けんぎょう)と密教(みっきょう)の区別があり、真言宗のみを密教とし、天台法門は四家大乗の一つであり顕教に属するとみなしていました2。
• 密教受法の方法については、面授(めんじゅ)の立場を強く主張しました2。彼は、「信満至って」の書状で「手を握りて契約し、口に伝えて心に授くることを期すのみ」3と述べ、「答書」でも「秘密の奥旨は文を得ることを貴しとせず。唯心をもって心に伝うるに在り」3と、文字による伝達よりも師から弟子への直接的な伝授を重視する考えを強調し、非法の伝授を厳しく戒めていました3。
このように、最澄は天台法門と真言法門を同等に捉え、経典の書写や読解を中心とした独学による密教理解を志向していたのに対し、空海は顕教と密教を明確に区別し、密教の真髄は師からの直接的な面授によってのみ伝わると考えていた点で、両者の密教観には根本的な違いがあったと言えます。この相違が、最終的に二人が袂を分かつ大きな要因の一つになったと考えられています4...。
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Q
最澄(さいちょう)と空海(くうかい)の密教観には、顕著な相違点がありました。本文の最後 に、二人の密教観と密教受法に対する見解の相違が明確に示されています1...。
最澄の密教観
•
最澄は、天台法門と真言法門の間に優劣を認めない円密一致(えんみついっち)の立場をとっていました1。彼は、密教受法の方法として筆授(ひっしゅ)、つまり師につかずに経典を書写し読解する独学でも可能であると考えていました1。
•
この円密一致の考えは、弘仁三年(八一二年)八月十九日付の空海宛の書状にある「一乘の旨、眞言と異なることなし」1、そして弘仁七年(八一六年)五月一日付の泰範宛の書状にある「蓋し劣を舍てて勝を取るは世上の常理なり。然るに法花一乘と眞言一乘と、何ぞ優劣有らんや」2という記述に表れています。
•
密教受法の方法については、空海から再三にわたり非法の伝授である「越三昧耶(えつさんまや)」の忠告がなされていたこと、並びに弘仁七年に書かれた『依憑天台集』(えひょうてんだいしゅう)序に最澄が「眞言家は筆授の傳授を泯す」と書いていることに、彼の筆授重視の姿勢が端的に表れています2。
空海の密教観
•
これに対し、空海は仏法には顕教(けんぎょう)と密教(みっきょう)の区別があり、真言宗のみを密教とし、天台法門は四家大乗の一つであり顕教に属するとみなしていました2。
•
密教受法の方法については、面授(めんじゅ)の立場を強く主張しました2。彼は、「信満至って」の書状で「手を握りて契約し、口に伝えて心に授くることを期すのみ」3と述べ、「答書」でも「秘密の奥旨は文を得ることを貴しとせず。唯心をもって心に伝うるに在り」3と、文字による伝達よりも師から弟子への直接的な伝授を重視する考えを強調し、非法の伝授を厳しく戒めていました3。
このように、最澄は天台法門と真言法門を同等に捉え、経典の書写や読解を中心とした独学による密教理解を志向していたのに対し、空海は顕教と密教を明確に区別し、密教の真髄は師からの直接的な面授によってのみ伝わると考えていた点で、両者の密教観には根本的な違いがあったと言えます。この相違が、最終的に二人が袂を分かつ大きな要因の一つになったと考えられています4...。
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Q 空海の密教受法における主張とは。
A
最澄(さいちょう)と空海(くうかい)の密教観には、顕著な相違点がありました。本文の最後 に、二人の密教観と密教受法に対する見解の相違が明確に示されています1...。
最澄の密教観
•
最澄は、天台法門と真言法門の間に優劣を認めない円密一致(えんみついっち)の立場をとっていました1。彼は、密教受法の方法として筆授(ひっしゅ)、つまり師につかずに経典を書写し読解する独学でも可能であると考えていました1。
•
この円密一致の考えは、弘仁三年(八一二年)八月十九日付の空海宛の書状にある「一乘の旨、眞言と異なることなし」1、そして弘仁七年(八一六年)五月一日付の泰範宛の書状にある「蓋し劣を舍てて勝を取るは世上の常理なり。然るに法花一乘と眞言一乘と、何ぞ優劣有らんや」2という記述に表れています。
•
密教受法の方法については、空海から再三にわたり非法の伝授である「越三昧耶(えつさんまや)」の忠告がなされていたこと、並びに弘仁七年に書かれた『依憑天台集』(えひょうてんだいしゅう)序に最澄が「眞言家は筆授の傳授を泯す」と書いていることに、彼の筆授重視の姿勢が端的に表れています2。
空海の密教観
•
これに対し、空海は仏法には顕教(けんぎょう)と密教(みっきょう)の区別があり、真言宗のみを密教とし、天台法門は四家大乗の一つであり顕教に属するとみなしていました2。
•
密教受法の方法については、面授(めんじゅ)の立場を強く主張しました2。彼は、「信満至って」の書状で「手を握りて契約し、口に伝えて心に授くることを期すのみ」3と述べ、「答書」でも「秘密の奥旨は文を得ることを貴しとせず。唯心をもって心に伝うるに在り」3と、文字による伝達よりも師から弟子への直接的な伝授を重視する考えを強調し、非法の伝授を厳しく戒めていました3。
このように、最澄は天台法門と真言法門を同等に捉え、経典の書写や読解を中心とした独学による密教理解を志向していたのに対し、空海は顕教と密教を明確に区別し、密教の真髄は師からの直接的な面授によってのみ伝わると考えていた点で、両者の密教観には根本的な違いがあったと言えます。この相違が、最終的に二人が袂を分かつ大きな要因の一つになったと考えられています4...。
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Q 空海の密教受法における主張とは。
A 空海(くうかい)の密教受法(みっきょうじゅほう)における主な主張は、以下の通りです。
• 面授(めんじゅ)の重視:空海は、密教の奥深い教えは文字や書物を通してではなく、師から弟子へ直接、口頭で、そして心から心へと伝えられるべきであると強く主張しました1。彼は「秘密の奥旨は文を得ることを貴しとせず。唯心をもって心に伝うるに在り」1 と述べ、文字は「糟粕(そうはく)」「瓦礫(がれき)」に過ぎないとまで言っています2。この直接的な伝授(面授)こそが密教の本質であると考えていました1。
• 師弟の契約と心の伝達:「手を握りて契約し、口に伝えて心に授くることを期すのみ」1... と述べているように、空海は師と弟子が直接契約を結び、言葉と心を通じて教えが伝えられることを重視しました。
• 非法の伝授の戒め(越三昧耶の禁止):空海は、正式な伝授を受けずに教えを求めたり、自己流で解釈したりする「越三昧耶(えつさんまや)」を厳しく戒めました4...。非法の伝授は「盗法(とうほう)」であり、仏を欺く行為であると強く非難しています2。
• 受者の心構えの重要性:「信満至る」で始まる書状にも見られるように7、空海は教えを受ける側の信仰心や理解しようとする姿勢(心)が何よりも重要であると考えていました3...。
• 三昧耶戒の遵守:空海は、密教の教えを受ける者は三昧耶戒(さんまやかい)を固く守るべきであると説きました2...。戒を守ることによって、初めて密教の奥義を受け継ぐ資格が得られると考えていたようです9。
これらの主張から、空海は密教の伝承において、形式的な文字の学習よりも、師から弟子への直接的な心の伝達、師弟間の信頼関係、そして受者の真摯な姿勢と戒律の遵守が不可欠であると考えていたことがわかります。これは、最澄(さいちょう)が重視した経典の書写や読解を中心とする筆授(ひっしゅ)の考え方とは対照的であり、二人の密教観の大きな相違点の一つとなりました6....
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Q 空海にとって密教と顕教との違いは何か
A
空海(くうかい)は、仏法には顕教(けんぎょう)と密教(みっきょう)の別があると考えていました1。彼は、真言宗(しんごんしゅう)のみを密教とし、天台法門(てんだいほうもん)は四家大乗(しけだいじょう)の一つであり顕教に属するとみなしていました1。
したがって、空海の密教観に基づけば、
• 密教: 真言宗に代表される、師から弟子への**面授(めんじゅ)**による心の伝達を重視する教えです1...。秘密の奥旨は文字による理解よりも、直接的な伝授によってのみ得られると考えられています2。
• 顕教: 天台法門などに代表される、経典などの文字を通して理解することを主な方法とする教えです1...。
このように、空海においては、密教と顕教は、その教えの内容だけでなく、学び方・伝え方という点においても明確に区別されていました。密教は師弟間の直接的な繋がりと実践を重視するのに対し、顕教は経典の研究や論理的な理解を中心とするという違いがあったと言えます。