関ヶ原の戦いでなぜ徳川の時代になったのか、その原因を主観的に考えてみたいと思います。
今回は、小牧・長久手の戦いと秀次事件を取り上げます。
① 小牧・長久手の戦い
小牧・長久手の戦いとは、1584年に尾張でおこった秀吉対家康・信雄連合軍の戦いです。
小牧城や犬山城、羽黒城、楽田城など、このあたりの地名がどんどん登場します。
何より、秀吉と家康(織田信雄と連合)が、唯一直接対決した戦いとして有名です。
江南市関係でもエピソードがあります。
織田信雄の命を受けた生駒家長は、伊勢長島城を守っていました。
留守になった小折城を徳川家康が気遣い、織田信雄とともに小折城を訪ね、その際富士塚に立って敵情を視察した話が残っています。
さて、戦いは、家康有利に進んでいました。秀吉は信雄と単独講和を結び、その後家康とも講話を結んでいます。
この戦いで、秀吉は天下人への道を一歩進めましたが、それ以上に家康が政治的な地位を固めることになりました。
天下統一の第一歩としておきましょう。
参考 http://wwwb.dcns.ne.jp/~forestc7/bekkan/nagakute/kassen.htm
http://www.geocities.jp/chiezo_ikomai/komakinagakute/komakinagakute.html
② 秀次事件
秀次事件とは、秀吉と淀殿の間に秀頼が誕生したため、それまでの後継者・甥の秀次が疎まれ、追放され、最期は切腹させられた事件です。
江南出身の前野長康など、多くの連座者がいました。
大河ドラマ「軍師官兵衛」では第44回で放送されました。
http://www1.nhk.or.jp/kanbe/story/story44.html
簡単に言えば、後継者をめぐる豊臣家の分裂だったわけですが、この分裂の構図が、関ヶ原での東と西になるのです。ここで連座を免れた大名が家康と接近し、東軍を形成したのです。
壬申の乱も天智天皇の後継者争いでした。応仁の乱は畠山家の家督争いが発端です。
大きな戦乱には、家督争い→対立→分裂 という構図が見え隠れしています。そんな目で歴史を見ると、より人間臭く感じられるかもしれません。
※ 歴史ミステリーがはやっていますが、「秀頼の本当の父は誰?」は最も有名なミステリーの一つです。
参考http://homepage2.nifty.com/kenkakusyoubai/juraku/ziken.htm
今回は、小牧・長久手の戦いと秀次事件を取り上げます。
① 小牧・長久手の戦い
小牧・長久手の戦いとは、1584年に尾張でおこった秀吉対家康・信雄連合軍の戦いです。
小牧城や犬山城、羽黒城、楽田城など、このあたりの地名がどんどん登場します。
何より、秀吉と家康(織田信雄と連合)が、唯一直接対決した戦いとして有名です。
江南市関係でもエピソードがあります。
織田信雄の命を受けた生駒家長は、伊勢長島城を守っていました。
留守になった小折城を徳川家康が気遣い、織田信雄とともに小折城を訪ね、その際富士塚に立って敵情を視察した話が残っています。
さて、戦いは、家康有利に進んでいました。秀吉は信雄と単独講和を結び、その後家康とも講話を結んでいます。
この戦いで、秀吉は天下人への道を一歩進めましたが、それ以上に家康が政治的な地位を固めることになりました。
天下統一の第一歩としておきましょう。
参考 http://wwwb.dcns.ne.jp/~forestc7/bekkan/nagakute/kassen.htm
http://www.geocities.jp/chiezo_ikomai/komakinagakute/komakinagakute.html
② 秀次事件
秀次事件とは、秀吉と淀殿の間に秀頼が誕生したため、それまでの後継者・甥の秀次が疎まれ、追放され、最期は切腹させられた事件です。
江南出身の前野長康など、多くの連座者がいました。
大河ドラマ「軍師官兵衛」では第44回で放送されました。
http://www1.nhk.or.jp/kanbe/story/story44.html
簡単に言えば、後継者をめぐる豊臣家の分裂だったわけですが、この分裂の構図が、関ヶ原での東と西になるのです。ここで連座を免れた大名が家康と接近し、東軍を形成したのです。
壬申の乱も天智天皇の後継者争いでした。応仁の乱は畠山家の家督争いが発端です。
大きな戦乱には、家督争い→対立→分裂 という構図が見え隠れしています。そんな目で歴史を見ると、より人間臭く感じられるかもしれません。
※ 歴史ミステリーがはやっていますが、「秀頼の本当の父は誰?」は最も有名なミステリーの一つです。
参考http://homepage2.nifty.com/kenkakusyoubai/juraku/ziken.htm