【忠臣蔵】悪口と世渡りと政策「荻生徂徠」(新聞連載こぼればなし第12回)【日本の道統】
このYouTube動画では、江戸時代中期の儒学者である荻生徂徠(おぎゅうそらい)に焦点を当てています。 産経新聞の連載「日本の道統」で取り上げた人物の中から、記事に収まりきらなかったエピソードや政策に関する詳細が語られます。徂徠は、中国古文の研究を通じて朱子学を否定し、古代の思想への回帰を提唱したことで知られています。彼は政策アドバイザーとして徳川将軍に仕え、その学問だけでなく、人間的な側面、特にその豪快な性格や時として世渡り上手な一面が多くの具体的なエピソードとともに紹介されています。 また、同時代の学者である新井白石や中根東里との関係を比較することで、徂徠の人物像がより深く掘り下げられています。
Q 荻生徂徠は、どのような思想的背景と政策提言で時代の政治に影響を与えたのか?
A 荻生徂徠は、江戸時代中期に活躍した儒学者であり、その思想的背景と政策提言は当時の政治に大きな影響を与えました。
彼の思想的背景と政策への影響は以下の通りです。
• 思想的背景
◦ 荻生徂徠は、中国古代の言葉である**「古文辞」**を研究しました。
◦ 彼は朱子学を否定し、古代の思想に立ち返ることを主張したことで知られています。
◦ 彼の「古文辞」という学問は、「アクロバティック」と評されることがあります。彼は通常の漢文訓読の仕方とは大きく異なる方法で儒教の聖典(経書)を読み解き、その解釈法を用いて自身の議論へと導きました。これは、彼自身が読書のルールを作り出し、そのルールに基づいて自身の主張が正しいと主張するという、周到な手法を用いたことを意味します。
• 政策提言と政治への影響
◦ 徂徠は、第5代将軍徳川綱吉に仕え、その後、第8代将軍徳川吉宗にも仕え、主に政策アドバイザーとして活躍しました。
◦ 彼の政策に関する議論をまとめた書物**「政談」**は、現在でも非常に人気があり、研究者の間で強い関心を引く書物として知られています。
◦ 彼は、**「政策による環境づくりによって国民の関心や動きといったものを誘導することが政治である」と主張しました。また、「どんな人材でも要は使いようである」**とも提唱しています。
◦ 彼の政策アドバイザーという立場は一貫しており、自身が政権の最前線に立つことはありませんでした。これは現代の政治において、選挙を経ずに特定の委員会などに属し、政策提言を行いながらも政策決定に深く関与するような学者や専門家の立場に似ているとされています。
◦ 徂徠は、他者の内心を推し量る「忖度」が非常に上手い一面があったとされています。例えば、赤穂浪士の事件では、将軍徳川綱吉が自身の面子を潰されたと感じていたことを見抜き、最終的に赤穂浪士たちを切腹させるという結論へと誘導したとされています。
◦ このような行動は、彼が**「処世術」に長けており、「俗っぽい」**一面を持っていたことを示唆しています。彼は学者でありながら、過激な言動で世間の注目を集めるような人物像を演じつつも、実際には社会の中でうまく立ち回り、常に自身の居場所を確保し、立場を維持し続けることに長けていました。
◦ この「俗っぽい」側面が、使命感の塊のような人物であった新井白石とは決定的に相容れない原因となり、両者は互いを理解できず、憎み合うほど人間性が異なっていたと考えられています。
◦ 彼のようなキャラクターは、利害関係のない人々からは好かれやすく、また、他者の内心を忖度してくれるため、可愛がられる傾向にあったとされます。しかし、本当に内面から彼に関わった人々は、あまり良い思いをしなかったとも言われています。
Q 荻生徂徠の多面的な人物像と人間関係は、彼の学説や評価にどう影響したのか?
A 荻生徂徠(おぎゅう そらい)は、江戸時代中期に活躍した儒学者で、中国古代の言葉である「古文辞」を研究し、朱子学を否定して古代の思想への回帰を唱えたことで知られています。彼は、第六代将軍徳川綱吉や第八代将軍徳川吉宗に仕え、主に政策アドバイザーとして活躍しました。彼の政策議論を記した『政談』は、現代でも非常に人気があり、研究者の間でも強い興味を引く書物として知られています。
荻生徂徠の多面的な人物像と人間関係は、彼の学説や評価に複雑な影響を与えました。
荻生徂徠の多面的な人物像
徂徠は、以下のような多面的な顔を持っていました。
• 豪快で口が悪い一面
◦ 「煎り豆を食いながら他人の人物を罵倒するのが人生で一番楽しい」という言葉を残しており、口を開けば人の揚げ足を取ったり批判を繰り返したりするため、かなり嫌われ者だったとされています。
◦ 本屋の屋号を「お前の店は一番値段が高いから『嵩山房』(最も高い山の名)が良いだろう」と決めるなど、豪快なエピソードが残っています。
◦ 座って勉強するのが嫌いで腹ばいになって読書をするなど、奇矯な人物としても知られており、彼の弟子にも変わった人物が多かったとされています。
• 人情家の一面
◦ 貧しい頃に世話になった豆腐屋に対し、出世後に多額のお金を一気に返したというエピソードがあり、「徂徠豆腐」という落語や講談にもなっています。
◦ 川越藩での裁判において、極度の貧困ゆえに親を捨てて餓死させた子供を「親不孝」と非難する周囲に対し、「あまりに貧困が極まればそうせざるを得なくなるのが人間であり、この極限状態で子供を責めるのは間違いで、それを罰するのであればそれは政治家の罪である」と主張し、人情家としての一面を見せています。
• 計算高く、世渡り上手な一面(俗っぽい側面)
◦ 彼の学問は、通常の漢文訓読とは異なる「古文辞」というアクロバティックな解釈方法を使い、儒教の聖典を読み解き自分の議論に繋げるものでした。これは、自身の解釈方法という読書のルール自体を自ら作り、そのルールによって自分の主張が正しいと主張する、非常に周到なやり方であったと評されています。
◦ 陽明学者の中根通里(なかね とおり)が還俗して儒学者になる相談を自分にせずに決めたことに対し、面子を潰されたと激怒したというエピソードがあります。中根通里は、徂徠の学問が世の中を正すものなのか疑問を抱いていた上、世間体や面子にこだわる徂徠の人間性にも疑念を抱き、結果的に絶縁することになりました。
◦ 新井白石に対して「無知」「文盲」「無学」といったひどい言葉を浴びせていますが、実際には両者の政策上の相違はほとんどなかったとされています。これは、新井白石が事務や交渉の最前線に立つ「使命感の塊」のような人物であったのに対し、徂徠は一貫して政策アドバイザーの立場に留まり、直接的な責任を負わない「俗っぽい」処世術を心得ていたため、お互いを理解できず憎み合った人間性の違いに起因すると考えられています。
◦ 赤穂浪士の事件では、六代将軍徳川綱吉の面子を潰された怒りを察し、最終的に浪士たちを切腹させる結論へと誘導するなど、相手の意を汲む「忖度(そんたく)」が非常に得意な一面がありました。
◦ これらのことから、彼は学者の皮を被りつつも、世間から外れたような過激な言動で奇を衒い、政治の世界でうまく立ち回り、常に自分の居場所を作り続けるという処世術に長けていたと評されています。
学説や評価への影響
徂徠の多面的な人物像は、彼の学説の受容や後世の評価に以下のような影響を与えました。
• 学説の独自性と受容: 徂徠が確立した「古文辞」という学問のやり方は、彼自身の周到でアクロバティックな思考を反映していると言えます。この独自性が、彼の学問を特徴づける一方で、中根通里のようにその人間性を疑い、学問の真実性に疑問を抱かせる一因にもなりました。
• 人間関係と学派の形成: 彼の強烈な個性と、時に「俗っぽい」とされる側面の存在は、彼と深く関わった人々との関係に影響を与えました。中根通里との絶縁や、新井白石との対立はその典型であり、彼自身の人間性が学派内での摩擦や外部との関係性にも大きく関わっていたことが示唆されます。
• 後世の評価:
◦ 徂徠のキャラクターは、直接的な利害関係のない人々からは好かれやすく、また、他人の内心を忖度してくれるため可愛がられやすい傾向がありました。
◦ 興味深いことに、荻生徂徠は戦後の学術界において非常に高い評価を受けているのに対し、新井白石は戦前において絶大な人気を誇っていました。これは、学者の流行り廃りが、その時代の世相を映している可能性を示唆しています。徂徠の「俗っぽさ」や「処世術」に長けた側面、あるいは彼の既存の学問体系を破壊するような革新的なアプローチが、戦後の価値観や知的好奇心に合致したのかもしれません。
このように、荻生徂徠は単なる学識者にとどまらず、その豪快さ、人情深さ、そして計算高さといった複雑な人間性が、彼の学問の手法、人間関係、そして後世における評価に深く結びついていたと言えます。
Q 荻生徂徠と他の学者の対立は、当時の学術界や社会の動向をどのように反映しているのか?
A 荻生徂徠と他の学者との対立は、当時の学術界や社会の動向を多角的に反映していると考えられます。
まず、荻生徂徠の学問的アプローチとそれが引き起こした対立について見てみましょう。
• 徂徠は、中国古代の言葉である「文治」を研究し、朱子学を否定して古代の思想に回帰することを提唱した儒学者として知られています。
• 彼の学問は「古文辞」と呼ばれ、非常にアクロバティックなものでした。これは、通常の漢文訓読とは異なる解釈方法を用い、儒教の聖典を読み解き、自身の議論に導くというものでした。要するに、彼自身が読書のルールを作り、そのルールに基づいて自身の主張が正しいと唱えるという、周到かつ緻密な方法を用いていました。このような革新的な、あるいは自己流の学問アプローチは、当時の学術界に新たな波紋を投げかけた一方で、他の学者との間に対立を生む土壌となりました。
次に、具体的な対立のエピソードを通して、その背景にある社会・学術的側面を探ります。
中根東里との対立:
• 中根東里は、自身の修行を第一に考え、学者として名を売ったり本を書いたりすることを拒否した陽明学者でした。彼は元々寺で仏教の修行をしていましたが、仏教が倫理や人間関係に疎いという疑問を持ち、儒学を学び始めます。
• 東里は徂徠に儒学を教わり、後に還俗を決意して儒学者として生きようとします。しかし、その際に徂徠に相談しなかったことから、徂徠は激怒します。これは、徂徠が「自分に相談がないこと」や、師としての「面子がつぶれる」ことを気にしたためだとされています。
• 中根東里は、徂徠のアクロバティックな「古文辞」の学問が「人として内面を磨いて世の中を正しくする学問になるのか」という疑問を抱いていました。さらに、徂徠がこうした場面で「世間体」や「面子」にこだわり、内心で不満を抱いているのを見て、学問と同時に人間性にも疑問を持ち、徂徠と絶交します。
• この出来事は、学問の目的や学者のあり方に関する対立を浮き彫りにしています。中根東里が内面の修養と世の中の正しさという「実」を重視したのに対し、徂徠は自身の学説の正当性や、師としての「面子」、あるいは社会における自身の立ち位置といった「虚」にも重きを置いていたと見ることができます。これは、単なる学説の対立ではなく、学者の生き方や倫理観、そして彼らが社会の中でどのように自己を位置づけるかという、より深い問題が当時の学術界に存在したことを示唆しています。
新井白石との対立:
• 徂徠は新井白石に対し、「無知だ」「文盲だ」「無学だ」などとひどい言葉を浴びせていました。しかし、今日では徂徠と白石の政策上の相違はほとんどなかったと考えられています。
• ではなぜ彼らはこれほど仲が悪かったのかというと、結局は人間性の違いに帰着すると述べられています。
• 新井白石が側近として自ら事務全般や交渉の矢面に立って切り込んでいくタイプであったのに対し、荻生徂徠は一貫して政策アドバイザーという立場から出ることはありませんでした。これは現代の政治において、選挙を経ずに大学教授などの肩書きで政策提言を行い、政策決定に強く関与しつつも、自身は選挙や国会での審査を受けない立場にいる人物に酷似しているとされています。
• また、徂徠は世の中を読み、主君の意を忖度することに非常に長けていた一面がありました。例えば、赤穂浪士の件では、八代将軍徳川吉宗が「面子を潰された」と不満を抱いているのを見て、最終的に赤穂浪士たちを切腹させるという結論に誘導していったとされます。
• つまり、徂徠はかなり俗っぽいところがあり、自身の処世術を心得ていた人物だったと評価されています。彼は学者でありながら、世間から外れたような過激な言動で「奇をてらうような人物キャラクター」を演じつつ、それでいて政治の世界を巧みに泳ぎ切り、常に自身の居場所と立場を築き続けることに長けていました。
• このことから、使命感の塊のような新井白石とは決して相容れず、お互いを理解できなかっただけでなく、憎み合うほど人間性が異なっていたと推測されています。
これらの対立は、当時の学術界が単なる学説論争の場ではなく、学者の個々の人間性、処世術、そして政治との関わり方が複雑に絡み合う場であったことを示しています。徂徠のような、裏で影響力を行使しつつも表舞台での責任を回避するタイプがいた一方で、白石のように実務と責任を重んじるタイプも存在し、その間の摩擦が学術界の人間関係を形成していました。
さらに、学者の評価の変遷も当時の社会の動向を反映しています。
• 戦後になってからの学術界では、荻生徂徠が非常に高く評価されているのに対し、新井白石は戦前には非常に人気がありました。このような学者や学問の流行り廃りは、案外その時代の世相を映しているとも述べられています。これは、社会全体の価値観や、人々が求める学者の姿が時代によって変化することを示唆しています。徂徠の「俗っぽさ」や「処世術の巧みさ」が、ある時代のリアリズムや合理主義と結びついて評価された可能性がある一方で、白石の「使命感」は、また別の時代の理想主義や国家観と結びついていたのかもしれません。
総じて、荻生徂徠と他の学者の対立は、単なる学説上の相違にとどまらず、学者の人間性、処世術、政治との距離感、そして時代ごとの価値観の変遷といった、当時の学術界や社会の多様な側面を鮮やかに映し出していると言えるでしょう。