郷が杜備忘録

旅行や読書と日々の行動の記録。
日常のできごとや思い出の写真が中心。 たまに旅行の記事も投稿します!

八州廻り桑山十兵衛 「殺された道案内」(佐藤雅美著)

2020-10-20 | 読書・佐藤雅美著

「八州廻り桑山十兵衛」の第2作である。

今回の第2作では,「あとがきに代えて」で八州廻りについて、当時の時代状況や八州廻りの成り立ちなどについて説明してあった。

江戸時代は、経済が様変わりし、貨幣経済が隅々まで浸透した。年貢も米ではなく貨幣で納めるようになった。

関八州とは、関東地方に伊豆を交えた地方をいうが、地回り経済が発達した。それまで酒、醤油、諸雑貨などの商品はほとんどは上方から下ってきたが、いつしか関八州でも生産されるようになり、経済が底上げされた。

上州や武州の農家では養蚕業が盛んになり、現金収入が稼げるようになった。経済の発達に伴い、水運、陸運なども発達、利根川筋をはじめとする川岸地に、中山道、日光例幣使街道の宿場にと金が落ちた。金の匂いのするところに人は集まり、楽して稼ごうとする不埒な手合いも集まる。そんな背景があった。

関八州は御料(幕府領、天領ともいう)、私領(大名・旗本領),寺社領が入り乱れていた。代官、大名、旗本などが小分けして知行していたり、複数人で知行する相給(あいきゅう)も珍しくなかった。

江戸時代の司法・警察権は、領主(大名)、地頭(旗本)、寺社が握っていた。だが、領地が入り乱れていて、他領に逃げられると他領主支配地には警察権は及ばない、また小藩、小領主が多くたいした警察権も持っていなかったから、犯罪者を追いかけようがなかった。悪事はやり放題という背景もあった。

江戸の中期の終わりごろ(1798年)のお触れに、「通り者」と自称し、「子分を抱え、長脇差を帯び、異様な風体をして不届きな所業におよんでいるものがいた」とある。不届き者は跳梁跋扈し、村役人では手に負えず、代官の願い出により、その対策のために勘定奉行が八州廻りを創設した。八州廻りが常設されても「悪党者」の悪事はエスカレートした。当初「通り者」といわれ、その後「悪党者」、「無宿長脇差」といわれた。無宿は戸籍を持たないもの、長脇差は腰に長脇差を帯びているもののことである。主人公桑山十兵衛が活躍したのは、八州廻りが置かれてから二十年がたっていた文政の改革前後(1827年)のころという。

 

第2作では、8編の小編からなる。

「木崎の色地蔵」は、木崎の宿で日光例幣使街道で荒稼ぎをする悪党を退治する話。

この悪党は、徳川家康の忌日(四月十七日)にあわせて、毎年禁裏から家康の廟日光東照宮に奉幣使が派遣されてくる日光例幣使に便乗して、途中の宿場宿場で悪事を働く者どもであった。

 

「順休さんの変死」は御貸付役所の貸付が百姓を苦しめていることについての目安箱への投函にかかわる事件である。

 

「殺された道案内」

「道案内」というのは、桑山が廻村する地域を案内する地元の顔役である。忍藩、十万石阿部家で、道案内の権蔵が殺された。本来なら藩内の町奉行所の管轄だが、八州廻りの十兵衛もかかわってくる。そこには忍藩の領地替えの話も絡んでいる。そして忍藩には十兵衛の初恋の相手、初枝殿も嫁いでいた。

 

「公方様の気まぐれ」

評定所の留役の組頭、真田久右衛門から呼ばれた十兵衛は、目安箱に関する件で探索を命ぜられた。当時の上様、十一代将軍家斉のからのお指図であった。

 

「途方に暮れた顔」と「春の野に夢」

桑山十兵衛は天真一刀流寺田五郎右衛門の門下である。この話には、北辰一刀流を立てようとする若き千葉周作が出てくる。千葉が上州にでてきて、伊香保宮掲額という事件が起きる。それをやめさせるようにと寺田先生から頼まれて、そこに様々な事件が絡んでくる。

 

話は江戸時代も後半の幕末に至る少し前頃の時代のようである。江戸時代のいろんな仕組みや事件も出てきて、いろんな興味を惹かれる小説であった。続きも楽しみに読んでいきたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

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朝の蔵王連峰

2020-10-18 | 日記

朝から天気が良かったので、カメラをもって写真撮りに出かけた。

蔵王の山が見れると思って、国道6号線の阿武隈橋を渡って亘理側の河岸にいった。

阿武隈橋の上から河口方面を見たもの。雨が降ったので水量が多いように感じた。

橋の上から上流方面を見た。阿武隈山地に霧がかかったように見える。

岩沼市側の工場地帯

阿武隈大堰が見えてきた。

南蔵王の山々が見える。左側から、不忘山、南屏風岳、屏風岳、後烏帽子岳、刈田岳、熊野岳と続く。

岩沼市内からだと、東側の海のほうに行くと蔵王山の全貌が見えますが遠くなります。

ここからだと、阿武隈山地が切れているので、全貌がより近く見えます。

連峰の一番右側は、北蔵王の中心、雁戸山になります。雁戸山の向こうは山形市になります。

阿武隈川にかかるJR常磐線の鉄橋

下り列車が鉄橋にかかるところだった。

電車が鉄橋を渡り仙台方面に向かっています。

阿武隈大堰を上流方面から見た。

 

 

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安くて美味しい小さなパン屋さん(クロシェット)

2020-10-15 | グルメ

昨日のお昼はパンでしたが、私のお薦めのパン屋さんは、北仙台の駅前にある「クロシェット」です。

小さなパン屋さんですが、いろんな種類のパンを、たくさんそろえています。

2、3年前に改装してお店の中が小さくなったので、以前よりは少なくなった感じがしますが、

美味しいパンを販売しています。

私の好きなパンは、豆パンです。パンのうまみと豆の甘さがおいしさの秘訣だと思います。

なにより、それなりの大きさがあって、値段が税込み130円とお得なのがいいです。

もう一つは、フランスパンに甘いクリームを挟んだパンです。こちらは140円だと思いました。

でも昨日はどちらも売り切れたようで、ありませんでした。

とにかく、どこのパン屋さんよりも、おいしくて安いと思います。

※パンの値段間違ってました。110円は140円正当。

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「ほの香」でコーヒータイム

2020-10-14 | 日記

今日は外食でした。

軽めにするためパンにしました。

そのまま地下鉄で、南北線の終点駅富沢駅に行きました。

そこから歩いて数分、「ほの香」に行きました。以前にも行った店ですが、遠いので頻繁には行けません。

今日はコーヒーだけにしました。

少し濃い目の深煎りブレンド「香りの回廊」というのをいただきました。

平日の昼過ぎだったので、お客様はいなく、豆を買いに来る方だけでした。

店内は、アンティークな洒落た飾りが多く、少し薄暗いですが、落ち着いたいい感じでした。

家でも妻にも飲んでもらいたいので、「ほの香ブレンド」の豆を買ってきました。

休みの時にゆっくりいただきます。

お店は、富沢駅の前を流れている「笊川(ざるがわ)」の堤防の脇にあります。

この川の右手側がお店です。

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「島貫兵太夫伝」を読む(その4)

2020-10-11 | 読書・「島貫兵太夫伝」

明治25年(1892年)は島貫にとって、画期的な年であった。

それは東北救世軍の結成と宮城・福島・山形三県の伝道旅行であった。

この年の3月の春期休暇を利用して行った。

彼は苦学生の世話を始めた頃より貧民伝道を志し、仙台市中の貧民窟を訪ね歩くと、実に多く悲惨なものであった。

彼はこうした人々のために働くことが彼の天職のように思えてきた。

そのためには、自分の体を大いに苦しめて、サルベーション・アーミーのようにやらなければ駄目だと知り、

救世軍に倣って「東北救世軍」を組織し、伝道旅行を試みることにした。

行程は、仙台(3/31昼)→岩沼→相馬中村→保原→福島→米沢→上の山→山形→(天童)→作並温泉→仙台(4/10朝)

通算11日間、この間徒歩で移動したのである。そして合間には、教会や路傍で伝道を行ったという。

この「東北救世軍伝道旅行」は毎日キリスト教主義の各新聞に送り掲載したという。そのため、その噂が東北全体のみならず

全国の各教会にも知れ渡ったという。

この伝道旅行に結集したのは、萩原金太郎、城生安治、木村清松、須藤鷲郎、酒井勝軍、三浦一郎、島貫兵太夫の7人であった。

最年長は島貫の26歳、最年少は木村の18歳であった。

 

この伝道旅行の後島貫はロンドンのブース大将のところに、ロンドンに往きたい旨手紙を書いたところ、その返事が

副校長ホーイの手に入り、別派に関係してはいけないと叱られた。

これは、教壇から説教を中心に福音を伝えようとする合衆国リフォームド教会のミッショナリーと、

霊肉救済を意図する島貫の社会主義的信仰との相違から来たものと思われる。

こうした経緯からロンドン行きはあきらめざるを得なかったが、貧民伝道はやめるわけにはいかないと

引き続き貧民伝道に挺身した。

その活動は、貧民窟の貧者と寝食を共にし、安息日学校を開き、神の聖言を伝えたり学問を教えたりした。

また衣食を給したり、職業を与えたりもしたという。なかには、子供を集めて洟をかんでやったり、髪をくしけずって

やったり、顔を洗ってやることもあり、時には風呂屋にかけ合って風呂に入れてやったりもしたという。

島貫はその間に父を失い、相続人となって年貢米を相続し、それも貧民救済につぎ込んだという。

 

 

 

 

 

 

 

 

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