以下は前章の続きである。
昔から日本列島にいたのか
平成20(2008)年のアイヌ先住民族国会決議(アイヌ民族を先住民族とすることを求める決議)は、考古学や古文献の研究成果、それまで先人が苦労して開拓した北海道の歴史を全否定したものだった。
大航海時代以降に白人は新大陸で先住民族を虐殺し奴隷制度をつくった歴史があるが、アイヌに対しても同様の差別・弾圧の歴史があったというのだ。
しかし日本では、オーストラリアやカナダのような先住民族に対する虐殺行為や人種差別はなかった。
そもそもアイヌが先住民族だったのか、については後述したい。
さて、小学生用の副教材では、「日本には和人だけがくらしてきたわけではなく、アイヌ民族も昔から日本列島に住んできました」とされている。
『日本書紀』にある蝦夷は陸奥(現在の福島・宮城・岩手・青森)に住む諸部族もしくは豪族を表すもので、特別にアイヌを表すものではない。
北海道に蝦夷島の名が与えられたのは随分後のことだ。
江戸期には津軽半島に蝦夷が住んでおりこれを日本人に編入したという記録があるが、最近のDNA分析結果によればこの蝦夷がアイヌではないことは明らかである。
副教材は蝦夷の住んでいたところも蝦夷(=アイヌ)が先住していたと主張したいのだろうが、教材の内容としては不適切なものである。
また、図1は小・中の両副教材に採用されている東北のアイヌ語地名地図である。
青森・秋田・岩手県に二百以上もの印をつけてアイヌ語地名だとしている。 大正時代にアイヌ語を研究した金田一京助・東京帝大教授が提唱した、漢字の「別」や「内」や「幌」がアイヌ語地名だとして、それを北海道曹達社長だった山田秀三氏が道外に拡大解釈したものが広く流布した。
自身がアイヌでアイヌ語学者の知里真志保北大教授は山田氏が主催した講演会(講演録の写しは私の手元にある)で遠回しにこれを否定している。
また、『シンポジウムアイヌ』(北大図書刊行会、昭和四十七年)において北海道の考古学の第一人者の吉崎晶二河野本道両氏は以下のような理由で、山田秀三説の矛盾や理論飛躍を指摘し明確に否定している。
「その地名がアイヌ語によって解釈できるということと、近世アイヌが実際そこへ行ってアイヌ語で名前をつけたかは別」
「アイヌの成立は鎌倉時代以降だから、つけられた時期は鎌倉をさかのぼらない。それ以前はアイヌがいないのだから単にその地名がアイヌ語で解釈できるということだ。そして、アイヌ語は日本でかつて使われた古い言葉の面影を残しているのだから、地名がアイヌ語で解釈出来たとして不思議はない」
「日本書紀の蝦夷征伐に出てくるシリベシ、トピウ、イブリサヘ、シシリコなんていうのは、古すぎてアイヌ語とは言えない」
金田一京助・山田秀三両氏の東北アイヌ語地名は語呂合わせやこじ付けであったことがわかる。
いわば空想の産物だといえよう。
北海道外の方も、学校教育で「アイヌは広く東~北日本に分布しており、中央政府に追われて次第に北に追われて北海道だけに残った」ように学校で習った記憶があるかもしれない。
しかし現実には、本州北部に昔、アイヌが定住していたという歴史はないのだ。
では北海道のアイヌは、有史以前から住んでいたのだろうか。
それともどこか別のところから来たのだろうか。
先住民族ではない証拠
「縄文時代人は、アイヌ民族?祖先と言われています」(小学生用)、「擦文文化人はアイヌ民族の祖先」(中学生用)とされているが、全くのウソである。
とはいえ、学校教育の結果そう思っている方も多いであろうから、ていねいに説明したい。
北海道では気温が低く明治になるまで稲作ができなかったために、縄文→続縄文→擦文文化期(オホーツク沿岸ではオホーツク文化期)と続き、アイヌ文化は鎌倉時代以降のことである。
続縄文・擦文あるいはオホーツク文化の墓制(墓の形)、住居、威信財(朝廷との結びつきを示す刀剣)、土器(文字が刻まれた須恵器)といった特徴はアイヌ文化にみられず、古墳文化をもつ擦文文化人と捨て墓のアイヌに文化的つながりは全くみられない。
文化的に、縄文~擦文文化人とアイヌには断絶があるのだ。
和人がつくった函館船魂神社の創立は一一三五年で、アイヌが来たといわれている十三世紀(鎌倉時代)の百年も前である。
そもそもDNA分析でアイヌ古人骨には、縄文人には全く見られない東シベリア・沿海州・樺太方面の要素が高頻度で含まれている。
実はアイヌは鎌倉時代以降、北方の東シベリアから樺太を経て北海道に侵入し、徐々に擦文文化人を駆逐した「侵略者」なのである。
それゆえ、千年前を考えればアイヌはまだ北海道にいなかったわけで、「先住民族」とは言えないことも明らかであろう。
なお戦前すでに、アイヌの歌人違星北斗は、戦いや日常生活の細かいことまで歌い上げるユーカラ(アイヌの叙事詩)に、道内で発掘される擦文土器などへの言及がないことから「アイヌは先住民族ではない」と明記しているのだ(昭和二年十二月十九日付「小樽新聞」)。
以上の点については令和三年一月に刊行予定の拙著『捏造と反日の館”ウポポイ”を斬る』(展転社)に「先住民族を侵略したアイヌ」と一章を割いて詳述したので参照ねがえればと思う。
「旧土人」を差別したのか
小学校用の副教材では「日本の国はアイヌ民族を『旧土人』と呼び、差別し続けました」とされている。
小学校四年生から使われる副教材でそこまでの内容を盛り込むのはいかがなものかと思われるが、それはおくとして、アイヌは本当に差別され続けていたのだろうか。
明治三十二(一八九九)年に制定された「北海道旧土人保護法」は、平成九年まで効力を持っていた。
「土人」あるいは「旧土人」という言葉自体が差別語であり法律も差別法だと、十年ほど前にアイヌ団体や在日朝鮮人、そして鈴木宗男・今津寛両衆議院議員(当時)によって盛んに宣伝され攻撃されたことがある。
私が本誌や拙著『「アイヌ先住民族」その真実』(展転社)などで指摘したように、昭和二十年代後半までは「土人」は差別語ではなく「その地に住んでいる人」という意味だった。
幕末にすでに北海道に住んでいた和人八万六千人とアイヌ一万五千人(松浦武四郎の安政人別による)、そして出稼ぎの人別帳に載らない多くの被差別民や無宿者約三万五千人を併せて、明治以降に北海道へ渡った人たちと区別して「土人」と呼んだのである。
特にさらなる保護の対象となるアイヌを和人の土人と区別する意味で「旧土人」と定めたものであり、差別ではなかったことを説いて、大方の同意を得ることができていた。
特にさらなる保護の対象となるアイヌを和人の土人と区別する意味で「旧土人」と定めたものであり、差別ではなかったことを説いて、大方の同意を得ることができていた。
そもそも北海道旧土人保護法の制定を求めて帝国議会に陳情したのはアイヌの人々であり、さらにその廃止に最後まで反対したのも北海道ウタリ協会(現北海道アイヌ協会)なのである。
アイヌの人たちが中心になって出版した『アイヌ史』(北海道ウタリ協会)や『コタンの痕跡』(旭川人権擁護委員連合会)さらには『北海道旧土人保護法沿革史』(北海道庁)にはっきりとその経緯が書かれている。
朝日新聞の菅原幸助記者による『現代のアイヌ』(現文社、昭和四十一年)にすら、「アイヌ民族の滅亡を心配した政府は明治三十二年、旧土人保護法という法律をつくって、アイヌの保護にのりだした。保護法は、農耕を望むものには一等地一戸当たり五ヘクタール、農具を貸与、家屋も建ててやる。海で漁業を営むものには漁業権を認め、青少年で学問を志すものには奨学金を、という至れり尽くせりの法律であった」と絶賛されているほどである。
明治時代の当局に、アイヌを差別する意識がなかったことが読みとれるはずだ。
ましてや、白人がアボリジニやアメリカ・インディアンに対して行ったような虐待などは、日本では行われていなかったことは明らかだろう。
こうしてみると、副教材はアイヌ差別や虐待などを捏造して日本の子供たちに加害者意識を植え付け、アイヌに対する贖罪としてのアイヌ利権を認めさせようという意図のもとに書かれたものではないかと思えてくる。
この副教材はウソや捏造を満載した差別自慢・不幸自慢・被害自慢の宣伝誌なのである。
これだけ問題のある副教材を、北海道ではほぼすべての小中学生が購入させられているのである。
発行元のアイヌ民族文化財団も問題であるが、この副教材の使用を看過している各市町村教委の怠慢も、問われねばなるまい。