ジャニー喜多川の性暴力に関する報道とそれを巡る反応について思うこと:ガラパゴス、自浄作用の欠落、失われた30年

2023-04-16 11:30:00 | 感想など
 
 
 
ジャニー喜多川の性暴力に関する報道を取り上げるのはこれで3回目になるが、それに対する反応についても興味深いので触れておきたい。今回も重視するのは「普遍主義的思考」、すなわち状況観察を踏まえての一般化である。
 
 
今回の性被害の訴えに対し、「売名行為だ」とか「みなわかってやっていた」という反応が見られた。これは「ファン」だけでなく元ジャニーズの記者からも出てきたもので、セカンドレイプ(二次被害)の構造が改めて繰り返されていると言える(ところでこういう人たちは、対象が「男→女」でも同じことを言うんだろうか?)。
 
 
なおここには、「何で逃げなかったの?自分も望んでたからでしょ?」という「レイプファンタジー」にも繋がる理解の仕方が認められる(ちなみに、実際に相手から性的行為を強要されそうになった時、思わずショックで身体が上手く反応しなくなったりする事例は多数報告があり、またその後に事態を受け止めるのに長い時間がかかることも多い。そういう事情もあって、性被害の告発は数十年単位かかる事例も散見されるし、泣き寝入りの事例も少なくないと言われる)。レイプファンタジーは男が「男→女」という性的関係において持つ幻想と思われがちだが、BLなどを見ると、女が「男→男」を理解する場合にも(もちろん全てではないが)適応されるようであり、男性→女性というベクトルだけで理解しようとすると事態を見誤るだろう(まあごく当たり前の話をしておくと、そういう都合のよい妄想はフィクションの中だけにしていただきたいものだ)。
 
 
つまり、「男の発想法」とか「女の発想法」とかではなく、立場がその人の理解や言説を作るという点に注意を喚起しておきたい。これは例えば、専業主婦に対する夫のモラハラ的言動はよく取り沙汰されるが、逆に専業主夫に対して働く妻が類似の対応をする事例も報告されていることを想起したい(ちなみにこういう普遍主義的視野を持った重要な作品として、『ヒヤマケンタロウの妊娠』を再度紹介しておきたい)。
 
 
ところで、これに関連する話として、今回の性被害の告発に対し、例えば前述の元ジャニーズ記者が、「(そういうものがあるってわかってたんだし)お前も共犯だろ?」という類の非難をしているのも興味深い。このことに関して、一応以下の切り抜き動画を引用しておく。
 
 
 
 
 
正直なところ、宮台真司の論調には全く同意しかねる。というのは、構造の説明としては良いとしても、これが「大人>子供」「上司>部下」という二重に非対称的な関係性の中で、かつ比較的最近まで行われていた、ということを全く等閑視しているからだ(ちなみにこういう認識の「ズレ」があるのは、電通での自殺事件で「鬼十則」などが批判的に取り上げられた時の彼のコメントでも見られ、その時は「いや電通ってそういう会社だってわかってなかったの?わかってたら何で入ったのか意味不明だし、わかってなかったらリサーチ不足なんじゃない?」という言葉を飲み込み、奥歯にものの挟まった言い方をしていたのが印象的だった)。
 
 
また、日本の伝統的構造という割に、自分の具体的な経験しか話さなかったのも疑問に感じた。そういう方向で説明するなら、例えば衆道や若衆の話をした上で、民俗学の大家である折口信夫が教え子(男性)に夜這いをかけ性的行為をしようとした際に拒絶され、「これも重要な教えを伝える一環なんだがなあ・・・」という趣旨の発言をしたことなどに言及すべきだったのでは?と思う。
 
 
ではなぜそういう問題がある動画なのに引用したかというと、今回の「お前も共犯じゃないか」という論調は、彼の言う「通過儀礼」という説明を軸に理解すると、それを外の世界に告発するのはイニシエーションを経て成立したメンバーシップからの逸脱という感覚があるのだろうと理解されるからだ(まあもちろん、ビジネスの邪魔だという散文的な意味合いも含まれているだろうが)。
 
 
このような見地に立つと、ジョブ型(=あくまで雇用契約)ではなくメンバーシップ型(=会社共同体の一部)の雇用形態を取る日本において、内部告発というものが潰されがちであり(村八分を想起)、またそういう構造ゆえに「もの言えば唇寒し秋の風」というメンタリティになりやすく、よりいっそう内部告発がされにくいという構造なのも理解しやすくなるだろう。
 
 
さて、以上の話を踏まえると、今回の性暴力の告発とそれへの反応は、実は日本企業とその未来を考える上でも有用だと私は思う。どういうことだろうか?日本の経済成長率が内戦国なみに停滞しており、また少子高齢化が著しい課題先進国として厳しい未来が待ち受けていることは今さら言を俟たない(その解決が容易でないことも、「その病、合併症につき」ですでに触れた)。
 
 
このような状況からすれば、
 
1:ジャニーズが海外進出を目指している状況において今回の報道があった
 
2:それを積極的に報道しない日本のマスメディア
 
3:事なかれ主義の「ファン」たちの反応
 
というのは日本閉塞の要因と暗い未来の縮図であり、極めて興味深いものに映った。
 
 
日本の市場がシュリンクする未来は確定しているので、海外進出を目指すのは当然である。しかしその際、海外で飛躍する以前に活動するためのレギュレーションを意識することは必要で、島国では許された旧いシステムから脱却することが求められる。然るに、今回ようやくBBC報道という「外圧」でその問題点が曝露され、にもかかわらず国内メディアは利権のためそれを取り上げず(つまり変えようとせず)、「ファン」はむしろ変わらなくていいとさえ思っていることが明らかになった。このような自浄作用の欠落こそ、失われた30年からいまだ脱却できない理由そのものではないか(まあちゃんと地に足をつけた議論をすると、1980年代において日本が将来ITなどの新規産業ではなくモノづくりで途上国と競争する方針を選択した時、製品価格や労働者の賃金といった点で必然的にデフレとなる未来へ大きく足を踏み出したと言えるのだけど)。
 
 
厳しい状況を元に旧来の仕組み変えるのではなく、むしろいっそう旧システムにしがみつき、それを自己正当化する。これは日本の中小企業にも多く見られる現象だが、それはあたかも沈み行く船の中で高所に群れて席次争いをする猿の如し、である。こうした中で状況はどんどん悪化していき、それに伴い採用できる手段も減り続ける(まさに「貧すれば鈍する」)。これが今の日本に見えている未来像と言える。
 
 
このように見てくると、今回のジャニー喜多川の性暴力、あるいはジャニーズに関する報道のあり方と「ファン」の態度は、全く他人事ではないことが理解されるのではないだろうか。そこにはいわゆる「スパイト行動」や問題を放置させる負の斥力の存在、あるいは何かあると「鎖国すればいい」とばかりに問題と向きあわず外界から自分を遮断するような幼児的反応を彷彿とさせる(この鎖国を「羊水」に置き換えると話が非常にわかりやすくなる)。
 
 
というわけで、冒頭で述べたような普遍主義的思考からは、今回のジャニーズにまつわる問題とそれを取り巻く対応は、閉塞する日本の縮図として(海外にとっても)極めて参考になるケーススタディと言えるだろう。以上。
 
 
 
 
私は今回、一貫して「ファン」とカッコつきで表現しているが、それは二つの理由がある。
 
一つ。
問題を矮小化しようしたり告発者を攻撃しようとする人間たちが、実際にジャニーズファンであるかどうかまではつぶさに確認できていないこと。
 
二つ。
そういう反応は、ジャニーズが好きであるがゆえに、自分が好きなものを否定されたくないという認知バイアスに基づいた「見て見ぬふり」や否認と考えられる。ただ、そういう反応を自ら客体化して向き合おうとしないのは、果たしてファンなのかどうか私には疑問だ。というのも、前述のようにジャニーズが海外に進出しなければ萎んでいく未来しか基本的にはない。とするならそのステージに到るための条件としてガバナンスの健全化は必須なわけだが、それでも変わらざることを望むのであれば、それはもはやジャニーズを応援したいのではなく、単に自分のために言っているだけのエゴイズムではないかと思うからだ。「あなたのために言っているんだから」と言いながら自分の理想を押し付け過干渉してくる存在のことを「毒親」と呼んだりするが、はてさてグループの応援者の場合、それは何と呼ぶべきであろうか。

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