おお、虎徹や村正にまつわる幻想と実態とはなかなかにおもしろいな。
まあ幻想の背景としては、歴史小説とゲームによるところが大きいだろう。つまり「沖田総司と菊一文字」などのように、刀が個人と結びつけられ特別視されることにより、そのイメージが独り歩きするって寸法だ(まあこの辺は刀に限らず絶影-曹操や赤兎馬-呂布なんかもそうだが)。
実態としては正宗に並ぶほど高名で普及もしていた備前長船が、(刀剣好きならともかく)一般的認知度が低いのは、そういったマスイメージに訴える場面が非常に少なかったことが関連しているのだろう。
ちなみにこの普及度合いという点で、実は村正が「特別な妖刀」どころではなく、むしろ東海道で広く普及していた使い勝手の良い刀剣だからこそ「守山崩れ」といった主君の死にも関わるものであり、ある意味で多くの人間の命を奪うことになった象徴的存在だからこそ禁止された、という点は興味深い。言ってしまえば、貝印カッターの切れ味が良いため市民権を得ていたら、それによりケガをする人間が相対的に多くなり、結果として貝印禁止!となったような皮肉な現象である(まあ人を斬る目的の刀とカッターを同一視することはもちろんできないがw)。
また、村正が精緻な量産品であるがゆえに実は評価が高くないというのもおもしろい指摘だった。まあこれは美術品として見るか工芸品として見るかという話になるのだろう。確かに、前に紹介した静嘉堂文庫美術館での鎌倉時代刀剣展の感想で触れたように、刀文や肌の作り込みに関する表現が極めてフェティッシュなものであることを踏まえると、「質の高い量産品」というのが「面白みのないもの」とみなされがちなのは何となく理解できるところではある(これは希少な虎徹が有難がられたのと相似形である)。
しかし、柳宗悦の民藝品運動や欧米のアールデコのように、日用品の芸術性を愛でるという評価基準はこれまで普通に存在してきた訳で、合目的的な機能性、工房として技術力・生産力といったことも加味しつつ、村正を備前長船や正宗的なるものとして再評価するのもよいのではないか、と思った次第だ(まあこの辺は「AI生成と芸術」みたいな話にも繋がっていくんやろなあ)。
以上。
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