「喧嘩両成敗」的イデオロギーの病理

2022-04-18 12:00:00 | 歴史系
ウクライナ侵攻とそれにまつわる様々な言説が浮き彫りにしたものは様々あるが、その一つがイデオロギー化した「喧嘩両成敗」的発想だろう。


確かに、「双方に理がある」という見方は、勧善懲悪的な短絡的認識に陥らないための戒めとしては非常に重要である。


しかし、始めから「どちらも同様に理があり、同等に瑕疵もある」という認識で入るのは、結論ありきという意味においてもはや単なるイデオロギー(さらに言えば頽落した世界理解)である。まして、そのような世界理解が勧善懲悪的発想よりも「高度」・「高邁」で、ゆえにそのような結論に合うように情報を読み替えていくのであれば、かつて宗教者やマルクス主義者たちがやっていたような思考態度と何ら変わりない、という点を強く心にとめておくべきだろう。


繰り返すが、あくまで「党派的思考停止に陥らず、是々非々で常に検証しようとする」姿勢こそが肝要なのであり、非道を働いた側にも理ありとして、そちらのダメージコントロール的プロパガンダに乗るのは愚の骨頂と言える(ここまで読んでいればさすがにわかると思うが、ロシアがあらゆる面において悪であり、ウクライナ+その支援国があらゆる面において善という話ではない。前にウクライナ侵攻について取り上げた際、アメリカ絡みでテキサス併合やトンキン湾事件、イラクの「大量破壊兵器」に言及したり、日本の満州事変に触れたのは比較による相対化で、ロシアの単純な悪魔化とそれによる思考停止を防ぐためだ)。


さらに言えば、刃物で切りつけている人間と、傷を負いながら必死に防御・反撃をしてる人間がいる状況を横目に、「どっちが悪いかよく考えよう」などと嘯いてみたり、「オレたちも人を切りつけたことがあるから批判する資格があるのか?」などとのたまうのはあまりにも牧歌的すぎる。あまつさえ、切りつけられている側に対して「反撃はもちろん、防御もやめて相手に向かいあえば、争いは止むはずだ」などと言うのは、もはや病膏肓に入ると評すべきレベルの愚昧さと言えよう(少なくとも、降伏が合理的である理由を、切りつけてる側の過去の行いから具体的なエビデンスをもって説明するぐらいしたらどうか。まあその具体例はチェチェンやシリアであり、さらに遡るならハンガリー動乱やシベリア抑留で降伏を勧める理由になりうるかは極めて疑問だが)。


ことほどさように、今回のウクライナ侵攻は、識者面をした人間たちがその不見識ぶりを露呈する結果となっている。あるいは発言が「平和主義者」的な人々も、単なるファッションや事なかれによる発言だったのか、あるいはそのような状態を創造・維持するにはどういう仕組みや努力が必要なのか真剣に考えていたのかが目に見える形になった。


ウクライナ侵攻はまだ終わりが見えないが、少なくともこうして浮き彫りになった問題点を記憶・記録にとどめつつ(何せ日本社会の健忘症はかなりのものなので)、今後さらに流動化する世界情勢の理解に活かしていく必要があるだろう、と述べつつこの稿を終えたい。

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