「厳島の戦い」という神話:元就の劇的勝利はどのように作り出されていったか?

2022-11-30 12:18:18 | 歴史系

 

 

前にも家系図の件で触れたように、実態がどのようなものであったかを検証することは非常に重要だが、同時に「なぜそのような虚構が作り出されたのか?」ということも当時の人々の世界観や政治戦略などを知る上でしばしば有用である。さらに言えば、複雑で泥臭い実態の歴史より、(人の心を動かす目的で作られたため)展開がわかりやすく情に訴える演出もある歴史小説の方が広く人々を引き付けるのと同様に、プロパガンダや陰謀論の訴求力というものは極めて大きいわけだが、その構造理解や解毒処置にあたっては、こういった事例研究の積み重ねが非常に重要と言えるだろう(ただし、熱に浮かされた人間は、論理によってはその状態から容易に抜け出すことは難しい、ということにも注意を要するが)。

 

今回は、毛利元就の劇的な勝利として名高い「厳島の戦い」が、実態はどのようなもので、それがどのように「盛られて」いったのか、またその理由はなぜかを解説する動画を紹介しよう。

 

順を追って非常に丁寧に説明されているので私がここで特別に付け足すことはないが、「元就は大内氏の仇討ちを大義名分に掲げ、陶氏との大きな戦力差を奇計によって覆した戦い」という通説は、そもそも元就が大寧寺の変を事前に知っていた上にその調略を自身も行っていたため「大内氏の無念を晴らす」というような自身の正当化は成り立たず、また戦力差についても当時の史料を見ていくと差があってもせいぜい倍程度であり(下手をすると拮抗)、また元就の方は戦術的奇計というより、陶側の水軍の状況から、事前の調略を徹底して切り崩しを図っていたことが予測されることなどを述べている(孫子ではないが、戦争は外交などで解決する=やらないことが最上だとして、やる場合は開始前の準備で半分終わっている、という感じだ)。

 

このような実態も勝利のため確実な一手を打っていくという詰将棋的なおもしろさは十二分にあり、また元就はやはり有用なことも理解される。ではなぜわざわざそこに劇的な演出が必要になったのかと言えば、そこに関ヶ原の戦いに敗れて所領を没収された輝元時代の窮状が関わっており、その状態を耐え抜き家をまとめ上げるために「家祖崇拝のツール」として逆賊陶晴賢を討った元就の劇的な勝利を演出としたのであった(まあこれは類似の状況にあった上杉家も謙信に対して似たようなことをやっているので、ひとり毛利家の所業というわけではないが)。そうして「盛られた」ところに江戸時代の軍記物ブームが乗っかり、いよいよそちらが通俗的理解として定着していった、というわけである。

 

というわけで以上。ここで述べたことは、「呉座勇一『戦国武将、虚像と実像』:評価の変遷と歴史的背景」「シェイクスピア作品が『嫌い』な理由:プロパガンダへの距離感」といった記事にもつながることを述べつつ、この稿を終えることとしたい。

 


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