仮面ライダーBLACK SUN:なぜビルゲニアは憑き物が落ちたように変化したのか?

2022-11-23 10:29:29 | レビュー系
 
 
 
 
「立場が人を作る」という言葉がある。その視点において、ビルゲニアは作中で最も変化した存在の一人と言えるだろう。ただ、正直なところを言えば、組織人としてのビルゲニアと、組織を追われてからのビルゲニアの変化は、作中の描写だけだといささか説得力が弱い部分に思える。
 
 
なるほど確かに、葵に必要以上の過酷な仕打ちをするシーンでの「いつ見ても痺れるなぁ」といういかにも三下が吐きそうなセリフをのたまっていた頃の彼と(実際、予告のセリフを聞いた時は下級怪人のセリフかと思っていた😅)、自己の行いを何ら弁明することなく、創世王の真実を追い、葵に協力する彼とは全く別の存在のように見えなくもない(ここに関しては、目の変化・演技力による要素も大きい。特に前述の葵のシーンでのサディスティックな目と、ゴルゴムを追われて以降の目を比較してみるとわかりやすいだろう)。
 
 
というわけで、いささか説得力に欠けるこの変化とその必然性について、仮面ライダーBLACK SUNのテーマの一つが「内ゲバ」=組織の病理の描写だという先日書いた記事をもって説明したいと思う。
 
 
組織人ビルゲニアの誕生シーンを思い出してほしいのだが、彼は己の舌を噛み切って=プライドをかなぐり捨てて服属を誓約したのであった。その結果、ゴルゴム立ち上げ時のメンバーをして、「彼はもう昔の彼ではない」と言われるようになったわけである。「平等な権利を獲得するべきじゃないのか!」と義憤に燃え吠えていた彼の性質は後退し、少女を半ば己の嗜虐心を満たすために怪人とし、目の前で母親を処刑するという凶行さえ犯す(繰り返すが、その時の目の演技に注目したい)。
 
 
もちろんこれは、「南光太郎という世間から離れて孤独に生きてきた男が、誰かの為に心の底から怒り、変身を遂げる」という作劇上の必要があっての残虐性だったことは理解できる(南光太郎の変化についても、いずれ別の記事を書く予定)。とはいえ、ここまで下衆な姿を様々見せられたにもかかわらず、組織から追われた程度で「いい人」みたいに描写されるのをホイホイ納得できるかという話なわけだ🤔
 
 
では逆にこう考えてみてはどうだろうか。一体何が、彼をここまで腐敗させたのだろうか?と。そう考えてみると、内ゲバ=組織の病理というテーマからして、「組織と立場」という結論に至るのは比較的容易なように思える。もう少し踏み込んで言えば、ビルゲニアは自分が生き延びるため組織に魂を売り、その立場を悪用するようにすらなった、ということである(こう考えてみると、組織的抵抗を目指す信彦・葵と、あくまで個人の義で動いていた光太郎の対比という視点もおもしろい。またさらに言えば、こういった組織の病理を描いている本作が描くあのラストが、服属を受け入れないという意味合いにはなるとしても、決して「希望の未来」などとは言えないことも理解されるのではないだろうか。なお、これについては、そもそもこの複雑性の時代にどこからかわかりやすく安心できる答えを与えられるなどと思うな、という過去記事の話にもつながる)。
 
 
つまり、組織を抜けたビルゲニアの描写は、ただ単に「いいヤツになった」という単純なものではなく、「いかに組織というものが所属者の魂を腐敗させうるか」を表象したものだと考えてみると、非常にその変化の理由が全体のテーマと連動させる形で理解しやすくなる(そしてこの問題は、昨今よく書いている所属や承認の欲求というテーマとも深く関係するが、それはまた別の機会に)。「組織による人間の腐敗」という表現が理解しづらいかもしれないが、この実例を私たちは実によく目にしてきているはずだ。すなわち、不正の組織的隠ぺい、群衆心理による凶行(民族浄化なども想起)、あるいはアイヒマン問題、さらには「天皇陛下万歳」と言っていた人間が一夜にして「アメリカさんありがとう」と変わったような事例などなど、この世界にその事例は数多存在しているのである(という視点をもって、信彦・葵、光太郎だけでなく、ダロムやビシュムの組織との関わり方をビルゲニアと比較してみるとさらに興味深いだろう)。
 
 
ゴルゴムに戻った頃のビルゲニアは、先に述べたような加入経緯もあって、組織の論理にどっぷり浸かったまさに「組織の犬」であり、それどころか、己より弱い者に対しては(抑圧されて生じた歪みから?)吐き気を催すほどの残虐性を発揮するほどであった。しかし組織を追われた彼は、その呪縛が解けて憑き物が落ちたようになり、以降は己の内なる声に従って行動するようになり、その結実があの最期だったと言えるだろう。
 
 
というわけで、ビルゲニアの変化をテーマ性という視点から補足説明してみた。ただ問題なのは、この描写がかなりハイコンテクストに見えることだ。まず、組織の論理に影響された行動と評価するには、ビルゲニアは割と主体的・積極的に悪行をなしているように見えるので、その後の変化に説得力を持たせるのが難しくなっていると感じる(やはり、葵やその家族にあのような仕打ちをわざわざする必然性は見つからない。また逆に、堂波はかつての仕打ちが怪人たちへの極めて強い憎悪と侮蔑につながったと思わせる描写がもう少しあってもよかったと思う)。まあ本作のテイストからして別にビルゲニアを「いい人」として描くつもりは全くないと思うので、そもそも視聴者に違和感は残っていいし、むしろそこから考えようとしない人にはわからなくていいとさえ思っている可能性はあるが、もうちょっと描写を工夫できなかったものかと個人的には思うところである。
 
 
以上。
 
 
 
【補足】
 
「説明不足」とは言うものの、ビルゲニアが今述べたようなことを仮に言葉で説明し始めたら最悪であったろう(まして、許しを請うなどなおさらだ)。
 
その理由は、以下のように説明することができる。ビルゲニアは己が組織に属していた時にやった数々の罪もまた自分自身の所業と受け止めるからこそ(逆に言えばその程度の良心は持ち合わせている)、己の行為の重大さを正しく理解し、それが赦されるなど思いもしないのである。ゆえに、決して葵に赦しは請わないし、距離を縮めてもこない(凡百の作品なら、ここで謝罪をしてしまい、むしろかえって人物や作品の印象を損ねてしまうところだ。また、ここでアイヒマンの裁判における発言や日本でよく言われる「空気」の問題を想起するのは非常に有益であると思われる)。
 
 
そし決して赦しは請わないが己の罪を深く理解しているからこそ、自らの命を狙う少女が目的を成就するのを、命を賭して助力するのである(=行動で証明する)。このような描写からは、ビルゲニアが芯まで腐敗した男ではなかった(少なくとも作品はそう描こうとしている)ことを示していると言えるだろう。

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