のび太に学ぶ自己研鑽と他者承認

2019-04-11 11:20:06 | 感想など

復活したPCでネットをダラダラ見ている時、「出木杉が『劇場版ドラえもん』のスタメンになれない根本的な理由が判明してしまう」という記事が目に入った。


要約すると、「有能だしいいヤツでもあるけど、ドラえもん&のび太という物語の中心にいるキャラにとってはアウトサイダーだから」ということのようである。なるほど、出木杉の存在って確かに

1:作品世界に多様性をもたらす

2:のび太に静香と結婚できないかもという不安を惹起する

という効果を目的に設定されていて、物語を駆動する中心にはいないというのはその通りだなと思った。

 

ただ、それ以上に興味を引いたのは、次のような書き込みである。

「出木杉は巷のことには興味も影響も持たない日本のインテリ層を象徴しているんだよ。のび太は庶民、ジャイアンは権力者、スネ夫は成金、静香は自我を持たないトロフィとしての女をそれぞれ象徴している。ドラえもんがどんな素晴らしい道具を出そうが、私利私欲に使われるばかりで全く社会はよくならない、そんな黒藤子F先生の思想が見事に表現された社会派SFなんだよ」

ドラえもんのキャラ配置がどこまで計算づくかについては、議論の余地があるだろう。しかし、ドラえもんの「戦争なんてそんなもんだよ」発言や「どくさいスイッチ」の展開を連想すれば、作者が冷めた視点ももっていたことは間違いない。

 

何より、こうして図式化された各キャラの位置づけを念頭に置くと、いくつかの有名なストーリーを繋ぎ合わせてのび太が静香との結婚に到る話を描いた「STAND BY ME ドラえもん」が、非常に独善的な内容に見える理由も(少なくとも個人的には)より納得できる。

 

典型的なのは、ジャイ子とは結婚したくないけど、静香には好かれたいって描写だ。「ふーん、お前ジャイ子はイヤだけど、マドンナにはダメな俺を認めてほしい」って言うんだ。だけど、そういう状況を作るために一体君は何の努力をしてるわけ?してないでしょ?その独善的な態度には腹が立ちこそすれ、同情する気にはならないね。それともまさか、「素の自分を愛して」とか思ってるわけ?だったら少なくとも、相手がどういう葛藤をもって生きているか、そして一見「素」のように見える外観が様々な努力などの上に成り立っていることぐらい知ってるんだよね?あるいはその努力ぐらいしてるんだよね???

 

それをしないで、「静香ちゃんまでボクを!」とか言うアナタは、端的に言ってキモいんですわ。しかし、それでも静香と結婚できてしまうし、それがゴールみたいになってるから、静香は「トロフィ」なんだってこと(ちなみに「トロフィとしての女」という表現に不快感を覚える人は、対照的な存在として傑作『BEASTARS』のハルやセブンを見てみるといい。彼女らにはある厄介な自我=他者性を、静香には「ないもの」として描いてるから「トロフィ」と評されてるんじゃないか、って話だ。ちなみにこういう女性キャラの位置づけが、エロゲーやギャルゲーのそれと同じであるのは非常に興味深い)。

 

もちろん、そういう独善性は誰しも持っているので、写し鏡として戒めにはしたいと思う。しかし少なくとも、のび太が理想的な人物ってのはどう考えても違うよなー。まあそういう意味で大人になってからのドラえもんは、懐かしいというより、非常に教訓的な作品であるなあと思う今日この頃である。


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