『涼宮ハルヒの溜息』について~虚構が現実を侵食する~

2007-01-14 20:59:53 | 本関係
※前回の涼宮ハルヒの記事は二日前のものである(上げ忘れた)。ゆえに評価がかなり変化していることを断っておく。


今日涼宮ハルヒの二巻目にあたる『涼宮ハルヒの溜息』(以下『溜息』)と四巻目にあたる『涼宮ハルヒの消失』(以下『消失』)を読了した。結論から言うと、この二冊(特に前者)によって俺の涼宮ハルヒへの評価は飛躍的に高まった。これには自分がハルヒに不快感を覚えていた理由を客体化できたのことも関係しているが、そういった内的な問題だけでなく、涼宮ハルヒのコンセプトが『溜息』で明確に理解できたのが大きい。以下、それに関して述べていくことにする。


まず最初に言っておかなければならないのは、俺が一巻目の『涼宮ハルヒの憂鬱』(以下『憂鬱』)を読んだあと、二巻目ではなく三巻目の『涼宮ハルヒの退屈』(以下『退屈』)を読んだことである(※)。『憂鬱』では色々な方向に行く可能性がありえたのだが、この『退屈』がハルヒを巡って起こるドタバタに近かったので、ハルヒシリーズは涼宮ハルヒの能力によって引き起こされる事件を描いたり、あるいはキャラで引っ張ろうとしているのだと判断した。そしてその上で、『憂鬱』と『退屈』(特に後者)の話がつまらないこと、キャラ萌えしないことを理由としてダメ出しをしたのであった。


だが、この評価は二巻目の『溜息』を読んだことで大きく変わることになる。なるほど『溜息』も、最初の方はハルヒの映画を作りたいという提案が招くドタバタが描かれてはいる。しかし、途中から様相が大きく変わり始め、古泉の語りを中心とする「虚構と現実」の問題がクローズアップされるようになるのだ。もちろん、「虚構と現実」などというものは手垢の付いたテーマであって、それを採用したこと自体に何の目新しさも無い。しかしながら、ハルヒの願望具現化能力と、映画制作という言わば「虚構内の虚構」をミックスさせたところが非常に秀逸だった。というのも『溜息』では映画の設定という明らかな虚構が、ハルヒの能力によってどんどん具現化し、現実を侵食していくからである。『憂鬱』ではあくまでハルヒの「願望」の具現化だった。しかし『溜息』では、ハルヒの願望を映画の設定という「虚構」に置き換えることで、「虚構が現実を侵食する」という構図にすりかえているのだ(この観点で言えば、『憂鬱』はハルヒの願望具現化が招く「非日常による日常の侵食の話」だ)。さらにここで、「普通人」キョンの常識的な感覚・突っ込みが効いてくる(※2)。この「侵食される側」とでも言うべきキョンの発言や反応によって、事件の異常性が浮き彫りにされるとともに、「虚構と現実」の対立構造が読者に強く意識させられるのである。


この「虚構が現実を侵食する」というテーマは、キョンがハルヒにキレれるイベントをきっかけに次の段階へと進む。すなわち、古泉たちの言葉・行動を通して現実の危うさを提示し始めるのだ。ここで秀逸なのは、「今見ている世界は夢に過ぎないのではないか」といった論だけに頼るのではなく、現実を必死に元の姿に保とうとするキョンや古泉たちの行動によって、かえって現実の危うさを的確に印象付けるという演出であった(優雅に見えて白鳥も必死に水をかいている、というわけだ)。そこに古泉、朝比奈、長門それぞれの利害や世界理解が表明ないし暗示され、主人公キョンの「普通」「現実」は嫌が応にも相対化される。つまり、繋ぎとめるべき「現実」の危うさが明るみに出された後、さらに追い打ちとしてその「現実」が個別的な枠組み・基準に過ぎないことが印象付けられるのだ。こうして、「現実」は徹底的に相対化されるのであった(結局はそこに戻りはするのだけど)。


このように虚構による現実の侵食と現実の危うさを提示しつつ、最後を「この映画はフィクションです…」のセリフで終わらせる演出は秀逸の一言(※3)。単にハルヒが起こす事件やそれに振り回される人たちを描くだけでなく、映画製作という「虚構内の虚構」を通して世界のあり方にまで深く切り込むこの『溜息』は、『憂鬱』や『退屈』のようにダメ出しするどころか、むしろぜひお勧めしたい傑作である。


なお、この場で『消失』の感想や「涼宮ハルヒ=ライトノベル」という見方について書こうと思っていたのだが(例えば、「虚構による現実の侵食」だけをハルヒの方向性と考えてしまうとハルヒを過小評価することになる、といった内容だ)、いつものように長くなったため次回に譲ることにする。



なぜ二巻目を飛ばしたのか説明しておくと、前者が大しておもしろくなかったからだ(ごく簡単にこの記事で感想を述べている)。そこから、「一冊目だからダメって可能性もあるからもう一冊分くらいは読んでおこう」⇒「でも新品で買うほどのものじゃない」という流れで古本を探していると、たまたま三巻が先に見つかって二巻は見つけることができなかった。そこで三巻を読むことにしたわけである。


※2
「何でもあり」な世界観やストーリーは、便利である一方反応が薄くなる弊害がある。たとえ何が起こったとしても、読者は「さもあらん」と新しい事実を受け入れるだけだからだ。その点、「普通」の基準を設けておくと(相対的に)事件の異常性などが演出できる。


※3
侵食と言えば、キョンの思考がなぜか相手との会話にそのまま繋がっている箇所が結構あるのは気になる。もしかするとそれは、キョンという「普通」・「現実」(の心理)をハルヒや長門を中心とする「非日常」・「虚構」が侵食するという構造を暗示しているのかもしれない(もっとも、それがどういうシーンなのか調べたわけではないので確たることは言えないが)。

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2 コメント

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Unknown (極薄装甲板)
2007-01-14 22:46:56
キョンの思考がそのまま会話に繋がっている部分は、思考とそのときの台詞がほとんど同一で、それでもそれを思考としてのみ描写した上で、台詞側は描写しない、という風になっているんじゃないでしょうか。
効果としては、
・思考としての文章を読者が受け止められる
・表現の重複を防ぐ
・あくまでキョンの思考を読むという形態を、守りたいシーンに使える
といったことがあげられるかと。

良く考えがまとまってなくてすいません。
ただおそらくは思考とほぼ同一の台詞がそこにはあると思うのですが。

俺は開き直った一人称の一形態だと思ってます。
もう一形態は『撲殺天使ドクロちゃん』です。
これは文字通り開き直ってますけど。
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Unknown (ギーガ)
2007-01-20 03:08:53
なるほどそれもありえそうですね。

(撲殺天使と同じく)全てがキョンの目を通して描かれるために出てきた新スタイル、というところでしょうか。
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