ここ二回の記事でNEEDY GIRL OVERDOSEを元に「承認欲求」の話を取り上げたので、それに絡めた大きな視点の話をしようと考えていたが、ちょっと間の開きが大きすぎるので、もう少し距離が近い話題を取り上げようと思う。
てなわけで話題の「ドライブ・マイ・カー」なわけだが、先に断っておくと私はこの作品を全く見ていない(というかコロナ禍以降一度も映画を見に行ってねーっす)😀じゃあ何で触れることにしたのかと言うと、それに関する杉田俊介のレビューを読み、非常に興味深いと思ったからだ(なので、彼の評が作品理解としてどこまで妥当かは不明だが、社会分析の一視点として重要だと感じた)。
詳細はリンク先を読んでほしいが、要は「男は多少のことには傷付かないし、たとえ傷付いても耐えるべきだ」という男性性の呪いから解放される姿をこの作品は描いている、という話だ。これは、「男性だって被害者なんだ」的語りとは違う。人間である以上傷を負うのは当然で、それが「男性だから」という理由で抑圧されることの問題を述べたものと言えるだろう。
ゆえに、「男=俺たちだって苦しいんだ(だからお前たち女性も自分の被害者性を主張するな)」という馬鹿げた負の斥力(これは生活保護バッシングを思い出させる)とは異なるし、「女=私たちと比べて恵まれた状況の男が被害者面するな」というおかしな二項対立的思考からも自由である(非対称性の問題は、例えば「女性(加害)→男性(被害)」という性被害や、「男性(加害)→男性(被害)」という性被害の告発などにも言える。なお、二項思考とそこから距離をとった傑作として、「ヒヤマケンタロウの妊娠」というマンガを挙げておきたい)。
というわけで、今の状況(仕事&コロナ)が落ち着いたら、この映画をじっくり見て、また自分なりに考えてみたいと思う。
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